説教要約(2月)

2024年2月4日(日)  説教題:「来なさい」  聖書;ヨハネによる福音書1章35~51節

 トロとアンデレはイエス様と泊まった後、この人が救い主だと気づきました。ここでの「泊まる」という言葉は「つながる、留まる」と訳すこともできます。イエス様が繋がり留まっていたもの。それは神様です。弟子たちはイエス様と宿を共にすることによって、同じものに繋がる体験をしました。イエス様を通して神様を感じることは、彼らが救いを感じる出来事でした。
 イエス様はガリラヤに行く途中でフィリポと出会います。彼もイエス様の弟子になりました。フィリポはナタナエルにイエス様と出会ったことを話しましたが否定的です。そこでフィリポは「来て、見なさい」と言っています。これはフィリポからの「救い主のとこへ行き、そして自分の目で見なさい」という呼びかけです。イエスが救い主だということを議論して説得しようとはしませんでした。キリストが救い主だとどれだけ言い聞かされても、それが自分のことだと心から思えるのは、実際に出会ったからです。イエス様と出会うことはなしに、この人が自分の救い主なのだと受け入れられることはりません。実際にナタナエルはイエス様と出会った後、「あなたは神の子です」と信じました。イエス様と出会うことはなしに、この人が自分の救い主なのだと受け入れられることはない。だからフィリポは「来て、見なさい」と口にしたのです。
 前半と後半で二つの弟子になる物語が書かれていました。二つは微妙に違っているのですが、ここで示されているのは信じることが体験と結びついているということです。弟子たちが体験して信じ、そして従ったように私たちもイエス様を体験することなしに信じて従うことはできません。イエス様を信じるためには、体験することが必要です。それでは私たちはどのようにしてキリストを体験するのでしょう。それはきっとそれぞれが違った体験をするのだと思います。それによって弟子たちのように、イエスが救い主だと信じて、従っていくことができるようになるのです。
 キリストを体験して、信じ、従っていく。それが今も続いているのはイエス様が私たちを招いてくれているからです。イエス様はアンデレとシモンに「来なさい、そうすれば分かる」と言われました。フィリポもナタナエルに「来て、見なさい」と言いました。イエス様と出会うことは、キリスト本人やそれを信じる人に「来なさい」と呼びかけられることです。この呼びかけを通してイエス様は今も私たちを招いてくれています。その呼びかけを聞くことができたとき、救い主を知るきっかけができます。その呼びかけに答えたとき、私たちはキリストに出会います。「来なさい」と招き続けているイエス様によって、私たちはキリストを体験することが適うのです。