説教要約(9月)

2022年9月25(日)   説教題:「見いだせるように」   聖書;使徒言行録17章22~34節
 パウロたちが伝道のために向かったアテネは多神教の街でした。様々な神が祀られている中にこのようなものがありました。「知られざる神に」たくさんの神を追い求めた結果、人々はまだ自分が知らない神がいたらと思い、それを祀っていないことが不安になりました。満たされることのない不安が「知られざる神に」という祭壇を作ったのです。人々が不安になって探している神についての答えを、パウロは語り始めました。これは新しい別の種類の神について提示することではありません。銅像や建物で表すことのできない、平安を与える神様について語っていくことです。世界を創られた神様は人の手で造ったところにはいない。人間が仕えなければ不足があるような方でもない。反対に、私たちに全てを与えてくれるのが神様だ。このように説明しました。
 アテネの人たちは「神様のために」と考えて、失礼のないように銅像や建物を作っていました。これは、人が神様に何かを与えようとする行為です。それは熱心からくる善意なのでしょうが、その方向では残念なことに神様に向かっていきません。それは人間が神様を選んでいるからです。「人間から神様に」ではなく、「神様から人間に」与えてくれるのが神様と人との関係です。神様が人間を選んで、神様が人間に与えて、神様が人間を愛してくれる。人間から神様に何かをするのではなく、あくまでも神様から人間、という方向に向かってきてくれるのが、神様なのです。
 神様から人間に。悔い改めを通して、神へと何かしなければならないという不安は消えて、神様から与えられることを通して歩みだしていけます。それはイエス様を通して神様が「見出せるように」してくれたからです。27節にはこのように書かれています。「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。」この神を見出すということ。それは神様が知らない存在ではなく、知っている存在になるということです。私たちが神様を追い求めても、神様に辿り着いたり、神様に近づいたりすることはできません。問いかけてもその声が聞こえることはなく、探しても見つけることはできません。それでも、神様は私たちを知っています。私たち一人ひとりをしっかりと認識して、神様からあなたへと、神様から私たち一人ひとりへと向かってきてくれます。聞いたり見たり、そして近づくこともできない神様ですが、神様の方から私たちに向かってきてくれています。私たちが神様を選んで見つけたのではなく、神様が私たちを見つけて選んでくれたからです。そして悔い改めを通して私たちを見つけてくれた神様のことを知ったとき。その神様のことを見出すことができます。私たちのことを愛して、養って、そして支えになってくれる神様を見出して、この神様によて与えられる恵みを通して生きていけるようになるのです。

2022年9月18(日)   説教題:「開かれた」    聖書;使徒言行録16章25~40節
 フィリピで投獄されたパウロたちは暴行を受けて自由を奪われていました。そのような状況でも共にイエス様がいてくれることを信じ、獄中では賛美しています。それを囚人たちも聞き入っていました。
 そこで地震が起き、牢屋の扉が開きました。囚人が逃げ出すと思った看守は自害しようとします。それをパウロは止めました。誰も逃げていなかったからです。それを見た看守はパウロに救われたいと願いました。イエスを信じるように言われた看守は、その家族と共に救いに与かったのです。
 この箇所では地震によって扉が開かれました。神様の奇跡によって救わる出来事かと思いきや、それ以上のものを私たちに問いかけてきます。それは「自由とは何か」ということです。パウロたちと看守。より自由に行動し、救いの喜びに満ちていたのはパウロたちの方でした。逃げ出せる状況でも逃げることなく、看守が救われるために自ら選んで行動したからです。看守はその姿を目の当たりにし、この救いに与かりたいと願いました。神様を信じて生きる人の自由さに触れて、自分のそのようになりたいと心から思えました。それによって彼とその家族には救いが与えられます。この箇所で開かれたのは牢獄の扉です。しかしその扉が開いて逃げることが目的ではありませんでした。ここで本当に開かれたのはこの看守の心です。そして賛美と祈りに聞き入って逃げ出さずにいた囚人たちの心です。神様の前に、閉ざされていた心が開かれることによってイエス様と出会い、そして自由な救いに与かる恵みが与えられるのです。
 心を開かれる。これによって私たちはそこにキリストを迎えいれ、共に歩み、救いの道を歩んでいくことが適います。それは神様によって与えられる自由な道です。コロナ禍にあって不自由な世界になってしまいました。しかし、どれだけ不自由な日常の中を生きていたとしても、開かれた心にはイエス様が共にいます。そして目には見えない自由な救いが私たちには与えられています。この何物にも代えられない自由さは、ウイルスによって取り去ることはできません。国や権力者、暴力によって取り去ることもできません。神様によって開かれた心は、そしてそこに与えられている自由な救いは、何者にも取り去ることはできないのです。

2022年9月4・11(日)   
      新型コロナウイルス感染予防のため休会