説教要約(8月)

2022年8月28(日)   
  新型コロナウイルス感染防止のため休会
 


2022年8月21(日)  説教題:「神と人と」    聖書;使徒言行録 14章8~18節
 パウロは人々の前で癒しの奇跡を行いました。それを見た人たちはパウロを「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお降りになった」と思い、パウロたちが神だと崇めようとします。しかしパウロははっきりとそれを否定しました。この箇所に書かれていますのは「神と人とは違う」ということです。
 パウロに癒された男性はただ話を聞いていました。この男性が何かをしたという記録は聖書にありません。男性は話しを聞いているだけで、恵みが与えられました。このことから分かりますのは、神様の恵みや癒しは、何か特別なことをした代償として与えられるものではないということです。パウロを通して届けられた福音に耳を傾ける。それは人間からすれば、大したことをしていないように思えてきます。しかし神様はそのように思われません。9節に「ふさわしい信仰があるのを認め」とありますように、神様の目に男性の行いは充分なものでした。神様は癒しや恵み、導きを与えるときに、その対価を求められません。あくまでも神様は人間のことが好きだから、私たちに恵みを与えてくれます。ただ聞いているから、そしてただ存在しているから、神様は私たちに大きな恵みを与えてくださるのです。
 人間が神になる。あるいは神に近づけたと思ったときに、それは神を信じる宗教から、神を利用するカルトへと形を変えていきます。この約一か月間、新聞やニュース、インターネットなどで旧統一協会のことが多く取り上げられています。かつては合同結婚式や霊感商法によって世間を騒がせ、現在でもマインドコントロールによって高額の献金や物品の購入を信徒に要求するカルト団体です。現在は世界平和統一家庭連合と名前を変えて活動しています。教祖の著書や商品を買うことで救われると現在でも説いています。そして自分でも私はキリストに近い存在であることを豪語しています。旧統一協会に限らず、数々のカルト団体が世界には存在しています。そのどれもが人の弱みに付け込んで、金銭や財産を奪うことが目的です。しかし、私たちは今日のみ言葉で学びました。神様は何かをした見返りに良いものを与えてくださるのではありません。ただその深い愛と恵みによって、たくさんの良いものを与えてくれます。そして、その恵みを与える神様に人間はなることができません。恵みに見返りを求めたとき、そして人が神になろうとしたときに、それは大きな間違いを犯すことになってしまいます。人間は神になることはできない。それは聖書によって証されており、また神様が私たちに伝えていることなのです。

2022年8月14(日)  説教題:「生きた証」    聖書;使徒言行録 13章26~31節
 イエス様に救われたパウロが初めて会堂で行った説教がここには書かれています。パウロは「何か会衆たちのために、励ましのお言葉があれば、話して下さい。」と言われました。この「励ましの言葉」の「励まし」は「慰め」とも「勧め」とも解釈できる言葉です。現在でも、誰かが礼拝でお話しをしてくださるときには「奨励」という言い方をします。その奨励の中で、「慰め」や「勧め」が語られていきます。ここでパウロは、そのメッセージを語ることを依頼されました。
 パウロはイスラエルの歴史を語った後、イエス様について話しています。それはイエス様から与えられた「救いの言葉」があるからです。2730節に記されています。イエス様が十字架に架けられるまでの道と、十字架での死。そして、復活です。イエス様は処刑に当る理由がなかったにも関わらず、十字架で死にました。そして墓に埋葬され、神様はイエス様を復活させて下さいました。これが「救いの言葉」です。具体的にイエス様が「あなたを救う」と言ったセリフではなく、十字架での罪の赦しと、死からの復活が与えられている希望。それが人々へと与えられている、救いの言葉なのです。
 聖書によって、そして人間によって伝えられているイエス様の出来事は、聞く人たちにとって救いの言葉です。そのような救いの言葉を、私たちも聞いています。福音書のイエス様の姿によって、または手紙や書簡などの文章によって届けられている、一つひとつの御言葉。これが生きて働いたイエス様を伝えている生きた証です。これは死んでしまっているものではありません。あくまでも、「生きた証し」です。死に打ち勝った方、復活された方の、生きた証しです。いまも生きて働いておられる方、いまも私たちと共にいてくれる方の、生きた証しなのです。復活された方の救いの言葉、その生きた証しが、私たちにもこうして伝えられているのです。
 救われたパウロはそれを証していきました。イエス様によって救われた者が語る生きた証です。私たちもイエス様と出会い、救われた証があります。自分の、または誰かの生きた証によって慰められ、そして励まされていきます。こうして生きて働いているキリストの証によって、私たちは歩まされていくのです。

2022年8月7(日)  説教題:「全てが共に喜ぶ」    聖書;コリントへの信徒への手紙Ⅰ 12章6~7節
 今年の平和聖日は実際の戦争が世界にある中でのものになりました。ですが、ロシアウクライナの戦争以前から、私たちの生きる世界には平和ではない状態でした。国外、国内問わず、争いや差別によって人の命が脅かされています。
 そのような状況で与えられたのが今日のみ言葉です。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」私たちの生きている世界の中で苦しんでいる部分があります。それは一部分だけの痛みでは済まされません。その痛みは身体全体の痛み、つまりは私たちも繋がっている世界全体の痛みとなります。私たちのすぐ近くでは、戦争は起こっていないかもしれません。命の危険は少ないかもしれません。それでも、私たちの生きている世界には、確実に争いや差別があります。そして被害者にも加害者にもなっています。この痛みを覚えている部分に蓋をしてしまって、私たちは平和だと言えるのでしょうか。それは違います。神様が喜ばれる平和、聖書によって私たちが教えられている平和は、そういったものではないからです。
 聖書の教えている平和は「シャローム」です。これは「平和」以外にも「完全な」、「満たされている」という意味があります。この平和は一部分が痛みを覚えている中では実現されません。権力者や戦争によって利益を得る人たちにとっては、今の世界の状況は喜ばしい「平和」かもしれません。ですが、冒頭でも申し上げましたように、苦しんでいる部分が私たちの世界にはあります。これは神様の目に「平和」ではない、そして「完全」ではない状態です。そして神様が平和と思われない状態は、私たちにとっても平和ではないのです。
 神様が喜ばれる平和は「シャローム」です。イエス様も「平和を作る人は幸いである」と言われました。そのイエス様の福音を伝えるために働いたパウロは、全ての部分が喜ぶときに、私たちも共に喜べることを聖書に残しました。聖書は一貫して神様に喜ばれる平和を伝えています。一つの部分が苦しんでいる世界に生きている私たちです。ですが、平和を諦めずに祈っていきましょう。全ての部分が喜べるように、そして神様に喜んでいただけるように、祈っていきましょう。それは夢物語に聞こえるかもしれません。ですが、私たちが平和を求めることを諦めてしまったとき、そして痛みを覚えている部分を切り捨ててしまったときには、全ての部分が苦しむ未来しか残っていません。だから私たちキリスト者は、神様が喜んでくれる平和を祈り求めていかなければならないのです。