説教要約(7月)

2022年7月31(日)  説教題:「祈っていた」    聖書;使徒言行録12章6~17節
 この聖書箇所でペトロは奇跡によって絶体絶命な状況から脱出しました。そのような派手な出来事に目がいきがちですが、聖書にはその背後にいる祈っていた人たちの姿が書かれています。祈ったご利益として奇跡が与えられたわけではありません。しかし祈りの中でこそ奇跡、つまりは救いの出来事が現わされていきます。祈ることを通して神様と繋がり、そこに神様は用意されていた救いを実現させてくださるのです。
 ペトロには祈ってくれる仲間がいました。自分のために祈ってくれている人がいる。これは私たちにとっても大きな励みです。仕事や生活で上手くいかないとき。病気や怪我で痛みを覚えるとき。心が不安でどうしようもないとき。そんな時に祈ってくれる人がいるのと、誰もいないのとでは、きっと私たちの気持ちは全然違っていることでしょう。具体的な課題や不安を誰かと分かち合って祈り合うことで、そこに激励や慰めの言葉以上の平安が備えられていきます。
あるいは、自分辛さを口に出して誰かに話すことができない状況もあるかもしれません。笑顔や明るい声の裏側にも、じつは言い出せない困難を抱えているときもあります。それでも誰かがあなたのことを覚えて祈っています。あなたの辛さを全て理解して、痛みを変わってあげることはできない。でも、その痛みを知ってくれている神様が、あなたに働いてくださいますように。そのように私たちはあなたのことを覚えて祈っています。今日の聖書箇所で仲間たちがペトロを覚えて祈っていたように、誰かがあなたのことを覚えて、そして教会があなたのことを覚えて祈っているのです。
 祈り合うことによって励まされる。これは単に人間同士の関りだけではありません。祈りとは神様と対話することです。神様への願いや感謝を祈りによって私たちは伝えていきます。人間が神様と繋がる最も身近な手段が祈ることです。この神様との繋がりの中で、私たちに救いが現わされていきます。それはイエス様が祈るところに一緒にいてくれるからです。私たちが誰かを思って祈るとき。そして祈られていくとき。そこにはイエス様が一緒にいます。人間同士だけではなく、人間と神様、そして執り成してくれるイエス様。この繋がりによって支えられていきます。私たちが祈るところに、神様の力が、そしてイエス様の存在が働いていくのです。
 祈ることは奇跡の脱出劇に比べれば、非常に地味な営みです。ですが、この地味な営みの中にこそ、神様の大きな救いは現わされていきます。そして私たちは励まされ、慰められていきます。神様は祈ることを私たちに赦してくれました。この祈りによって、私たちは神様と人と繋がり、救われていくのです。

2022年7月24(日)  説教題:「キリスト者」    聖書;使徒言行録11章19~26節
 アンティオキアにて伝道が行われて教会が生まれました。そこで初めてイエス様を信じて歩む者たちが「キリスト者」と呼ばれるようになります。
 アンティオキア教会には特筆すべき点がありました。それは初めてユダヤ人ではない人たち、聖書に「異邦人」と書かれている人たちが中心となって出来た教会だということです。これまでの伝道はユダヤ人の会堂で、神の民である民族が救われるためにキリストの福音が宣べ伝えられてきました。しかしアンティオキアにギリシャ語を話す伝道者が現れて、民族に限らず福音は広がっていきます。そのことを聖書は「主がこの人々を助けられた」、「神の恵みが与えられた」、と記しています。神様は福音が民族に限らず広がっていくことを喜びました。 
 そこで伝えられたのはイエスが主である、ということです。イエスを「主」ということは、信じる者の「あるじ」、「主人」がイエス様だということです。主は仕える者を支配することができます。奴隷と主人のような関係ですが、イエス様は私たちを奴隷として支配するわけではありません。救い主として支配してくれます。先週のみ言葉では神の国の支配に委ねることをお話しました。それは自分の力ではなく神の力に委ねていく。自分の強さや財力、権威を手放して、全て神様の力に任せていく。それが神の国とその支配に委ねることです。イエスが主であるということも、それと同じことです。あなたの支配者はキリストで、それに全てを委ねていくことができる。自分の限界も大変さも全て委ねていく。それがアンティオキアでも伝えられていきました。これによって多くの人たちが、キリストが主であると気付き、信じる者へと変えられていったのです。
 キリスト者とは「民族や産まれ育ちに関係なく、イエスが主であることを信じる者」です。それがアンティオキア教会で初めてキリスト者と呼ばれたことを通して示されました。私たちも様々な違いを持ちながら、同じ教会に集い、同じ礼拝に与かっています。それはどのような違いがありながらも、イエスが主であることを信じているからです。キリスト者と一言で言っても、じつはみんな違います。しかし、その違いをものともせずに、キリストは主であることを示してくれました。この豊かさの中で、キリスト者として歩んでまいりましょう。


2022年7月17(日)  説教題:「悔い改めて、主に祈れ」    聖書;使徒言行録8章9~25節
 今日の聖書にはシモンという魔術師が登場しています。彼は「偉大な人物と自称」するために魔術を使っていました。しかし使徒が行った癒しの奇跡を見て、自分の力がまやかしであったことに気付きます。使徒の奇跡はキリストを通して神様の力が現わされた出来事です。それに対して魔術は自分の力を誇示するためのものです。神様の力と自分の力。奇跡と魔術にはこの違いがありました。そのことに気付いた魔術師シモンは、使徒に従い、キリストを信じる者になりました。
 しかしシモンは聖霊が降るのを目にしたとき、その力を金で買おうとしました。ペトロはシモンに言います。「悔い改めて、主に祈れ」シモンはまだ自分の力に頼って、それを強めようとしています。自分の力によって生きていく道から、神様の力に頼る。その180度生き方を変える方向転換が悔い改めです。シモンはここで悔い改めに招かれ、自分の力を捨てていきました。
 現代では魔術に頼ることはあまりありません。しかし、ここでシモンが「偉大な人物と自称」するために使っていた魔術は、根底の部分で現代も残っているように思います。現代の魔術は、自分の力に固執し、それを強大にしようとする心です。私たちも悔い改めを通して、自分の力から神様の力へと、方向を転換していかなければなりません。
 自分の力ではなく、神の力に。人間の力ではなく、イエス様によって示された神様の力に。変えられて歩んでいくことが悔い改めです。この悔い改めへとシモンは招かれました。そしてシモンと同じような弱さを持っている私たちも、悔い改めへと招かれています。その生き方を変えられるために。神様へと委ねていけるために、悔い改めへと招かれているのです。
 私たち人間の力には限界があります。どうしようもないとき。それを神様に委ねることができる。これを私たちが心の底から信じられたとき。救われていきます。そのために必要なのが、生き方が変えられる悔い改めです。シモンは一度悔い改めたのですが、それでも悔い改めるようペトロに言われていました。私たちも同じように、一度悔い改めても、また人間の力を頼ってしまいます。だから何度でも祈っていきましょう。私たちの弱さを知っている神様は、シモンがそうであったように、何度でも私たちに悔い改めの機会を与えてくれます。悔い改め、主に祈れ。そのように言われたペトロの言葉は、私たちへも与えられています。悔い改め、そして神の国によって救いが備えられますよう、祈ってまいりましょう。


2022年7月10(日)  説教題:「見えるようになった」    聖書;使徒言行録9章1~19節
 サウロに回心が備えられたことが書かれています。「改心」ではなく「回心」という生き方が変わる意味での新しい道が与えられました。それ以前のサウロは迫害者です。自分とは考え方の違うキリスト者を殺すことを熱心に取り組んでいました。使命に燃えて人を殺す危険な状態です。人間の歴史を見てみますと、これは珍しいことではありません。世界でもそして日本でも、同じようなことは起こってきました。産まれた場所や考え方によって差別し、誰かを殺しても良いと考えるようことは何度も繰り返されてきました。
 そんなサウロはイエス様の声を聞き目が見えなくなります。これは視力がなくなったことを記していますが、それと同時にサウロの現状を現わしています。彼は何も見えていませんでした。自分が敵対しているのが誰なのか。そして殺しても良い命などないということを、何も見えていません。そのような意味でも見えていない現状が視力を通して示されたのです。
 そしてサウロには人が遣わされ、目から鱗のようなものが落ちて見えるようになりました。差別し虐げる自分の弱さが見えるようになり、その罪に気付き、180度心が回されて回心することが適いました。そして民族や考え方に関わらず、全ての人がキリストの前に同じ人間であり、また罪人であることを伝えていったのです。
 しかしサウロは回心の出来事以降も、このような文章を残しています。
 「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」
 これは明らかに性差別発言です。これは当時の人たちだけではなく、現代社会と教会にも確実に影響を残しています。彼には回心が備えられて見えるようになりました。ですがやはり差別する人間の弱さは、完全に消え去っていませんでした。見えるようになったのですが、それでもまた、見えていない部分があったのです。
 これは私たち人間がずっと覚えていかなければならないことだと思います。「差別をなくしたい」と願いながらも、心のどこかで「差別しても良い人間」を作り出し、無意識の敵意によって誰かを虐げています。それは性的指向や生まれた場所、考え方など、多岐に渡ることです。「見えるようになった」と自分で思い、価値観が新しくされたと思っても、それでもまだ足りません。見えるようになるには、何度となく気付きが与えられる必要があります。
 そのように考えると「回心」が一度きりではないように思えてきます。サウロに与えられた回心は一度でした。そこで自分に気付いて見えるようになります。しかし、それでもまだ見えていない差別心がありました。だから私たちも、何度も回心させられていかなければなりません。何度でも見えるようにさせられて、そして自分の弱さと罪深さがその都度見えるようになっていきます。そして、そのような罪深き差別する私たちのことをイエス様が赦して、見えた先に歩まされていくのです。



2022年7月3(日)  説教題:「イエスのように」    聖書;使徒言行録7章51~60節

伝道者ステファノは捕らえられて裁判にかけられました。そこでの弁明に怒りを覚えた群衆によって、彼は命を落としました。

ステファノはその最期まで伝道者として忠実に働き、そして命を落としていきました。神に逆らう人間の罪が赦されて欲しい。そのように願い説教をしていきますが、それを人々は冒涜と受け取って怒り殺してしまいました。

それでもステファノは赦しを願っています。60節にあるステファノの言葉は、まるで十字架で命を落としたイエス様のようです。イエス様は自分を十字架に架けようとする人々への赦しも神様に願いました。それによって人間は神様から赦してもらいます。ステファノもイエス様に倣っていきました。イエスのように、彼もまた自分たちを虐げる人たちの赦しを願っていったのです。

ステファノの死と最後の言葉は、私たちに一つのことを伝えています。それはイエス様がいなくなった後にも、赦しのために祈ってくれる人がいるという事実です。

ステファノ自身には人の罪を赦す力はありません。それはあくまでもイエス様の力です。そのイエス様も天に昇りました。私たちに直接話しかけて、赦しを説いてくれるわけではありません。それでもイエス様はステファノを遣わしてくれました。イエス様はいませんが、当時の人たちにはステファノがいます。神様は赦しのために人を遣わしてくれます。そして私たちが十字架の赦しに与かれるように、弱い自分に赦しが与えられるように、祈ってくれるのです。

それでは私たちのために祈ってくれるのは誰でしょうか。教会の牧師も祈っています。教会の仲間たちもあなたのことを覚えて祈っています。その中には顔と名前が一致しない人もいるかもしれません。自分で思っているよりも多くの人が、私たち一人ひとりのことを覚えて祈ってくれています。それと同時に、私たちもステファノのように遣わされています。赦しを求めて祈るために、そして祈られるために、私たちはそれぞれ遣わされているのです。

祈ることによって、直ちに救われて楽になるわけではないかもしれません。それでも神様は聖霊を通して人を遣わしてくれます。あなたのために祈る人を、赦しのために祈る人を遣わしてくれます。そしてその祈りを通して、十字架によって私たちも赦された一人であることを知り、その恵みに与かっていくのです。