説教要約(6月)

2022年6月26(日)  説教題:「神からでたもの」    聖書;使徒言行録5章27~42節
 イエス様の福音を語ることによって、ペトロたちは逮捕されてしまいました。法廷で尋問を受けてしまいますが、ここでガマリエルという人物が登場します。彼はペトロたちを釈放するように提案しました。これが神から出たものだったら、神に逆らってしまうかもしれないと思ったからです。
 このガマリエルの提案は非常に人間らしいものです。彼は自分で判断を付けることができず、保険をかけました。同じようなことをしている人は反逆者だったし、普通に考えればイエスを信じている集団も同じかもしれない。でも、もしかしたら違うかもしれない。きっと法廷で発言したときは堂々とした態度だったのでしょうが、心の揺らぎや迷いが聖書から見えてきます。彼は心が揺らいでいたために、判断がつけられませんでした。だから弟子たちを釈放して、様子を見るという判断をしたのです。
 ここに書かれているガマリエルの様子は私たちに重なってみえます。「イエスが救い主」だと信じ、その信仰に生きることになったとしても、ときに私たちは揺らいでしまいます。「本当にそうなのか?」と「様子をみよう」と、自分の中で保険をかけてしまうことがあります。頭では分かっているけど、心が追い付かない。心では感じていても、頭での理解が追い付かない。私たちも判断が揺らぎ、様子を見てしまうときがあるのです。
 その一方で弟子たちのように信じられるときもあります。ガマリエルと弟子たち。その両方の側面が私たちにはあります。信じられるときもあれば、それが揺らいでしまうときもある。それが人間です。
 これはガマリエルのときが悪くて、ペトロのときが良い、ということではありません。もしガマリエルの要素を持つ私たちが悪い存在ならば、既に滅ぼされているからです。心が揺らぐにも関わらず、こうして生かされているのには理由があります。それは私たちが神から出たものであるからです。ここでのガマリエルの判断は保険をかけたものでした。しかし「神から出たものであるならば、彼らを滅ぼすことはできない」とある言葉は真実です。神から出たものである私たちは、揺らぎがありながらも滅ぼされていません。迷いながらも、考えながらも、神様によって生かされています。神様は私たちの揺らぎをも受け止めて、ずっと見守ってくれています。ペトロたちのように迷うことなく信じられているときだけ、神様が喜んでくれているのではありません。神様はガマリエルのように決断しきれない私たちのことも、その存在を認めてくれています。イエス様も私たちと一緒にいて、その揺らぎの中で負う苦しみを、共に担ってくれています。神から出たものである私たちの、その弱さも含めて神から出たものとして守ってくれているのです。


2022年6月19(日)  説教題:「祈りによって」    聖書;使徒言行録4章23~31節
 ペトロが逮捕されたとき、教会の仲間たちは集まって祈っていました。そして脅しを受けて釈放された後も、その報告を受けて祈っています。祈りがささげられた後に起こった出来事が31節には書かれています。
 「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」
私はこの祈るところに聖霊が働いた箇所を読んだときに、思い出した聖書の言葉があります。マタイによる福音書181920節です。
 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
 このイエス様の言葉は、祈る人たちと共に私も一緒にいるということを伝えています。使徒言行録4章ではイエス様はもういません。しかしイエス様は自分の代わりになる聖霊を地上へと送ってくれました。イエス様の代わりとなる存在である聖霊によって満たされたのは、そこにイエス様も一緒にいたとうことです。肉体を持ったイエス様はそこに現れていません。その代わりに、聖霊を通してイエス様は共同体と共にいてくれました。祈るときに聖霊を通して、イエス様の存在が確かなものとして現れます。祈る人たちと共に、聖霊によってイエス様が一緒にいてくれたのです。
 私たちは大きくも小さくも、それぞれに課題を抱えています。それは体調のことだったり、あるいは心のことだったり、それだけではない様々な事情が関係してくることでしょう。そんな中を生きている仲間のことを覚えるときに、私たちは祈っていきます。本人が気づいているかは分かりませんが、誰かがあなたのことを覚えて祈っています。それによってすぐさま体調が改善したり、心が晴れやかになることはないかもしれません。しかし、私たちが祈るときに、そこは聖霊によって満たされます。その聖霊を通してイエス様が一緒にいてくれます。仲間たちが同じキリストを信じる一人を覚えて祈るとき。その祈りによって支えられて、私たち一人ひとりは明日もまた、生きていくことができるのです。


2022年6月12(日)  説教題:「イエスの名が」    聖書;使徒言行録3章1~16節

ペトロが癒しの奇跡を行いました。群衆はこの力に驚いて集まってきますが、ペトロはこれが自分の力ではなく、イエスによるものだと言い現わしています。聖霊によってキリストの証人として働く道が与えられたペトロは、イエスを証するために奇跡を行いました。それが与えられたキリストを証しする道だったのです。

皆さんにも与えられた聖霊を通して、きっとキリストを証する道が備えられているはずです。それは社会に出て働くとか、何か人の役に立つことをするということではありません。また、言葉や行いを通して伝道活動をするということに限ったものでもありません。あなたが過ごしている日々が、キリストを証することになります。日常生活の一つひとつが、イエスの名による聖霊によって導かれているからです。これは傍から見れば奇跡ではありません。ですがペトロさんが行った奇跡と源は同じです。イエスの名による聖霊が働き、私たちを強め導いてくれます。そのイエスの名が私たちを励ましてくれます。イエス様によって私たちは、奇跡の業ではないけれども奇跡と同じような働きを与えられていくのです。

 そのように考えますと「奇跡」というものが何であるのかが見えてきます。ここでペトロは「イエス・キリストの名によって」立ち上がるように言いました。これまでイエスを知らなかった人が、キリストの名を知ることを通して立ち上がります。つまり彼はここでキリストを知ったということです。ここでの群衆と同じく、私も立ち上がったことそのものが奇跡だと思っていました。しかし、奇跡は立ち上がることよりも、その力の源を知ることにあります。ペトロを通して働いた聖霊、それを与えたイエスの名を知ることです。ペトロはそのために奇跡の業を通して、キリストを証しました。目的は治すことではなく、知らせること。そこにあったのです。

私たちにも聖霊を通して奇跡は働いています。私たちは不思議な力を使って驚くようなことはできませんが、イエスの名を知る奇跡は既に与えられています。そしてそれぞれの聖霊によって導かれた日々が、キリストを証し、その名を伝えていくことになっていくでしょう。私たちは奇跡が働いている一人です。そして聖霊を通して、これから奇跡を行っていく一人です。それは「奇跡」と呼べないような地味なことかもしれませんが、それでもイエスの名によって、ペトロが行ったことと同じような意味をもって働きます。イエスの名が、私たちの日々を奇跡へと変えるのです。



2022年6月5(日)  説教題:「霊が語らせるままに」    聖書;使徒言行録2章1~11節
五旬祭の日、弟子たちのもとに聖霊が降りました。この聖霊によって彼らは新しくされます。キリストの証人として立てられ、福音を伝える者になりました。伝道者として遣わされていったのです。
それでは聖霊が与えられている私たちには、どんな道が与えられているのでしょうか。キリストの証人として生きていく道は、決して伝道者だけに限られたことではありません。ここで弟子たちに起こったのは「聖霊によって動かされていく」ということです。私たちも聖霊によって動かされていくのであれば、それは伝道者ではなくとも、キリストを証する証人です。聖霊は伝道者だけではなく、キリストを信じる全ての人に与えられています。つまり、ここにいる多くの人たちが、弟子たちと同じようにキリストの証人です。私たちもまた、聖霊によって動かされていく一人なのです。
私たちを動かしていくのは、この聖霊です。勉強でも仕事でも、家事でも介護でも、それが何であったとしても。聖霊を通して、私たちはキリストを証していく生き方を続けていくのです。
それではこの「キリストの証人」として私たちが動かされていく生き方とは、具体的にどういったことなのでしょうか。それは今日の聖書箇所に書かれています。弟子たちは霊が語らせるままに語りました。これは聖霊の働きによって、自然とそうなったということです。イエス様を伝えるために用意されてきた弟子たちが、自然と聖霊によって語らせるままに語る者になっていきました。ここでの弟子たちのように私たちも、自然とそうなっていきます。私たちは「何ができるだろう」、「何をしなければならないのか」と考えます。迷い、疑います。しかし私たちには、キリストによって送られた聖霊があります。この聖霊に導かれるままに、み心を信じて動いていくことによって、自然とそうなっていく。つまりは霊が語らせるままに語った弟子たちのように、霊によって導かれるままに動いていくことによって、私たちもキリストの証人として歩まされていきます。きっと、私たち一人ひとりに相応しい生き方によって、イエス様は私たちを、聖霊を通して動かしてくれることでしょう。何をどこでしていても、それが霊によって導かれたものであるならば、あなたの言葉と行いの一つひとつが、あなたの生き方一つひとつが、私たちにとって示されたキリストを証しするものとなるのです。
弟子たちは霊が語らせるままに語りました。私たちも聖霊が導くままに動かされていきます。私たちは一人ひとりがキリストの証人です。キリストを証していくために、霊に導かれるままに、動かされてまいりましょう。