説教要約(5月)

2022年5月29(日)  説教題:「上へ下へ」    聖書;使徒言行録1章3~11節
 イエス様は弟子たちの見ている前で天に昇りました。そして見えなくなります。見えることが出来ていたキリストが見えなくなる。だから、弟子たちは見えないキリストを証していかなければならない。これがキリストの昇天の出来事なのです。
 これから伝えていかなければならないイエス様が見えなくなることは、残された弟子たちにとって不安で心細いことでした。彼らはイエス様が見えなくなった後も天を見つめていました。そこにキリストが見えないにも関わらず、キリストを探していきます。
 キリストを探して天を見つめる。この弟子たちの姿は、今を生きる私たちに重なります。それは私たちも見えないキリストを探し求めているからです。私たちは苦しみのときも、喜びのときも、イエス様を求めています。その御心を示して欲しいと探します。弟子たちのように見えるはずもないキリストを見ようとして、私たちもまた天を見つめています。視線は上を見ていないかもしれませんが、天にいる、上におられるキリストを求めて探し、私たちもまた上へ目を上げているのです。
 そんな私たちにキリストはどのように応えてくれるのでしょう。キリストは見えないのですが、私たちを見捨てているわけではありません。実際のキリストがこの場にいなくとも生きていけるように、上から聖霊をおくってくれました。この聖霊を通して、目には見えなくてもキリストは私たちを守り導いてくれています。この聖霊の働きによって、悲しみを喜びへと変えてくれます。上を見る私たちはキリストを見ることはできません。しかしそのキリストは上から、下にいる私たちを見つめてくれています。私たちに目を注ぎ、聖霊を通して共にあってくれるのです。
 キリストの昇天は弟子たちだけではなく、私たちにとっても、イエス様が見えなくなる出来事です。どれだけ目を凝らしてみても、その姿を見ることはできません。しかし、この見えなくなるという悲しさは、聖霊を通して喜びへと変えられます。むしろ見えなくなったからこそ、この聖霊によってどこで何をしていても、私たちを支え導くイエス様の恵みが与えられました。
 イエス様が見えない私たちは上へと目を向けます。天にいるイエス様は下へと目を注ぎ、ずっと見守ってくれています。上へ下へ。その視線が重なるところに、聖霊は備えられました。私たちはこの聖霊によって、弟子たちの時代から今に至るまで、イエス様と共にあるのです。


2022年5月22(日)  説教題:「喜びに変わる」    聖書;ヨハネによる福音書16~24節
 イエス様は最後の晩餐の席上で、悲しみが喜びに変わることを話されました。死んで復活し昇天することによって、イエス様の姿を見ることはできなくなります。それがここで言われている悲しみです。しかし、イエス様はもう一度会ってくれることを約束してくれました。それによって悲しみは喜びへと変えられるのです。
 イエス様が人間ともう一度会ってくれるのは、肉体をもったナザレのイエスとしてではありません。天から降ってくる聖霊によってです。聖霊はイエス様の代わりとなる存在です。その聖霊を通して私たちはイエス様と出会い、共にいることが赦されています。
 聖霊が与えられている私たちは、イエス様によって悲しみが喜びへと変えられました。しかし、私たちの世は悲しみに満ちています。世界の大きな流れの中でも、また個人的な心の中でも、悲しみは去っていきません。「なぜ私たちは苦しいのでしょうか」、「なぜ私たちは悲しむのでしょうか」と神様に問いかけてしまうこともあります。イエス様が「悲しみが喜びに変わる」と弟子たちを通して約束してくれたにも関わらず、私たちはいまだに悲しみを覚えて歩んでいます。
 しかしながら、そんな私たちのためにもイエス様は語ってくれていました。2324節にはこのように書かれています。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」
 悲しみや苦しみを覚えて、喜びに変えられていないことを思って、神様に問いかける人間です。それがもはや「問いかけない」と言われています。私たちが悲しみや苦しみを覚えるとき、神様に「喜びへと変えてください」と祈り求めることをイエス様は赦してくれました。それは、一度だけではありません。聖霊が私たちに与えられるのは一度だけなのですが、その聖霊が働いて悲しみを喜びに変えてくれるのは、一度だけではありません。何度でも何度でも、悲しみや苦しみに遭遇するたびに、それを喜びへと変えられることが言われています。喜びへと変えられる「その日」は時間がかかるかもしれません。目に見えて喜ぶときは、なかなかすぐには与えられないかもしれません。ですが、イエス様は悲しみが喜びに変えられる「その日」が来ることを、確かに約束してくれました。だから私たちの悲しみは、必ず聖霊の働きによって喜びに変えられていきます。それをイエス様が弟子たちを通して、今を生きる私たちに確かに約束してくれたのです。


2022年5月15(日)  説教題:「光りの中へ」    聖書;ペトロの手紙Ⅰ 12章1~10節
 「捨てられた石が隅の親石となった」これは十字架で死に復活したキリストのことを意味しています。見る人によっては必要がないために排除された存在が、私たちにとっては大きな恵みとなりました。また、このたとえ話は、イエス様だけではなく、私たちも隅の親石であることを語っています。私たち一人ひとりも役に立たない石ではなく、大切な生きた石です。もちろん、私たちは社会的に見れば大勢の中の一人でしょう。何か特別なことができるわけでもありません。しかしながら神様はそのような価値観を越えたところで、私たちを愛してくれています。何かが出来るとか、何かが強いから、何かを多く持っているから、という理由ではありません。ただ、神様は私たちを愛してくれているのです。
 このことが9節にはこのように書かれています。
 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」
 「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」様々な表現がなされていますが、ここにあるのは神様を信じる者は「神のものとなった」一人であるということです。これは出エジプト記から引用された箇所でして、そこにはこのように書かれています。「わたしの宝となる。」つまり神様は愛している一人ひとりのことを「あなたは私の宝物だ」と言ってくれています。隅の親石のように大切な存在として、宝物として、神様は呼んでくださるのです。
 それはここにも書かれていますように、光の中へと招かれたことを意味しています。神様を知るまで、私たちはただの大勢の一人でした。しかし、神様のものとして歩むことがイエス様を通して赦された私たちは、神様にとって大切な隅の親石、そして宝物です。このように神様によって大切な一人として歩むこと。それはもう暗闇ではありません。光の中を生きて歩むことです。
私たちを確かに大切な一人として、神様は支え導いてくれています。そんな光の中へと招いてくれました。私たちは光の中を歩んでいます。神様によって照らされた光です。私たちは光の中で、神様に愛されながら歩んでいるのです。

2022年5月8(日)  説教題:「神からの愛」    聖書;ヨハネの手紙Ⅰ 4章13~19節
 この聖書箇所には、聖霊の働きによって、神様と人とが留まりあっていることが語られています。それは神様の愛によって支えられています。ただ神様が愛してくれているから、私たちは神様と繋がっていられるのです。
 私たちは神様の愛によって支えられています。しかし神様の愛が確かにあることを聖書によって知ったとしても、現実は大変厳しいものです。その愛を確信をもって信じていくことができません。人間は疑い、迷い、その愛を忘れてしまいます。神様からの無条件の愛を、キリストを通して現わされた大きな愛を、どのようにして受け入れていくのでしょうか。
 私はこのことについていろいろと考えてみたのですが、正直なところ答えはでませんでした。一人でも多くの人に神様の愛を知って、そして確信を持って信じてもらいたい。そう祈り願っているのですが、その具体的な方法が出てきません。これは解決策のない問題なのだと思います。人間の力によってそれに確信を与えていくのは不可能です。やはり神様の働きによって、一人ひとりが神様を確信するタイミングが与えられていくしかありません。
 しかしながら、最低限このようにお伝えすることはできます。19節にある言葉です。
 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」
 どうすれば神の愛が受け入れられるのか。そのように考えるのが、既に傲慢なのかもしれません。私たちが神様の愛について考えたり、受け入れたいと願うその前に、既に神様は私たちを愛してくれていました。私たちが神様の愛を知って、そして神様を愛するよりも前に、神様は私たちに愛を注いでくれていました。キリストを知る前から、むしろこの世に生まれてくる前から、私たちは既に神様に愛されていました。それだけ大きな計画の中で、神様は既に私たちと留まり合う関係を築いてくれていました。私たちが神様を愛したから、その愛が受け入れられるのではありません。それよりもはるか前から、神様は私たちを愛してくれています。私たちと神様との愛によって交わる関係は、先に人からではありません。神からです。神から愛されたことを覚えて歩んでまいりましょう。


2022年5月1(日)  説教題:「神に任せて」    聖書;ペテロの手紙15章1~11節
 この箇所には謙遜の勧めが書かれています。長老から若者まで、神様の前に自分を低くして謙遜を身につけなさいという教えです。そのことについて7節にはこのように書かれています。
 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
 ここに書かれている「お任せする」は「投げ捨てる」という意味があります。「委ねる」、「お任せする」と聞けば、受け身の印象を受けますが、じつは神様に委ねることは、そうではありません。「投げ捨てる」という意味の込められた、もっと積極的な言葉です。自分の全てを、神様に投げ捨てる。自分の力ではなく、神様の力によって生きていくために、自分を投げ捨てること、それが委ねるということなのです。
 そしてこの投げ捨てることが、聖書によって言われている謙遜です。「任せる」と同じく、謙遜という言葉も受け身な印象を受けます。しかし神様の前に自分を低くして謙遜でいることは、受け身ではありません。こちらから神様に向かって、自分の全てを投げ捨てる積極的な姿勢です。神様はいつでも私たちのことを招いています。自分の力や人間の持つ権威ではなく、全てを委ねてみなさいと招いています。そんな神様の御手の中に自分自身を投げ捨てる。それは神様の前に自分が本当に低い者だと分かったときに適います。ペトロが勧めているのは、そういった意味での謙遜です。私たちが全てを投げ捨てて神様にお任せできるよう、彼は聖書を通して伝えているのです。
 私たちは自分のことを投げ捨てられるのでしょうか。だからこそ10節にはこのように書かれています。
 「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
 これは迫害の世にあって、苦難を受けても最後には救われていくことを書いた一節です。それだけではなく、ここでペトロは私たちが「完全な者」ではないことをよく理解したうえで書かれています。全てを委ねて、全てを投げ捨てて、従いきれない苦しみを持つ人間です。そのような私たちが「完全な者」、つまりは全てを投げ捨てられる者になるためには、神ご自身の力が必要です。私たちが委ねて飛び込んでいけるように招いて、そして背中を押してくれます。人間の決意や努力ではなく、誰かに言われてするのではなく、神様の力によって、私たちは全てを委ねていけるようになるのです。