説教要約(4月)

2022年4月31(日)  説教題:「神に任せて」    聖書;ペテロの手紙15章1~11節
 この箇所には謙遜の勧めが書かれています。長老から若者まで、神様の前に自分を低くして謙遜を身につけなさいという教えです。そのことについて7節にはこのように書かれています。
 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」
 ここに書かれている「お任せする」は「投げ捨てる」という意味があります。「委ねる」、「お任せする」と聞けば、受け身の印象を受けますが、じつは神様に委ねることは、そうではありません。「投げ捨てる」という意味の込められた、もっと積極的な言葉です。自分の全てを、神様に投げ捨てる。自分の力ではなく、神様の力によって生きていくために、自分を投げ捨てること、それが委ねるということなのです。
 そしてこの投げ捨てることが、聖書によって言われている謙遜です。「任せる」と同じく、謙遜という言葉も受け身な印象を受けます。しかし神様の前に自分を低くして謙遜でいることは、受け身ではありません。こちらから神様に向かって、自分の全てを投げ捨てる積極的な姿勢です。神様はいつでも私たちのことを招いています。自分の力や人間の持つ権威ではなく、全てを委ねてみなさいと招いています。そんな神様の御手の中に自分自身を投げ捨てる。それは神様の前に自分が本当に低い者だと分かったときに適います。ペトロが勧めているのは、そういった意味での謙遜です。私たちが全てを投げ捨てて神様にお任せできるよう、彼は聖書を通して伝えているのです。
 私たちは自分のことを投げ捨てられるのでしょうか。だからこそ10節にはこのように書かれています。
 「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」
 これは迫害の世にあって、苦難を受けても最後には救われていくことを書いた一節です。それだけではなく、ここでペトロは私たちが「完全な者」ではないことをよく理解したうえで書かれています。全てを委ねて、全てを投げ捨てて、従いきれない苦しみを持つ人間です。そのような私たちが「完全な者」、つまりは全てを投げ捨てられる者になるためには、神ご自身の力が必要です。私たちが委ねて飛び込んでいけるように招いて、そして背中を押してくれます。人間の決意や努力ではなく、誰かに言われてするのではなく、神様の力によって、私たちは全てを委ねていけるようになるのです


2022年4月24(日)  説教題:「命が働いている」    聖書;コリントへの信徒の手紙Ⅱ4章7~15節
 この手紙を書いたパウロは、かつてキリスト者を迫害するファリサイ派のエリートでした。しかし彼はイエス様との出会いを通して回心し、その福音を伝える者へと変えられました。
 今日の聖書箇所はそんなパウロが送った手紙の一部です。ここでは「土の器」に「宝」が入っていることが言われています。「宝」はイエス様によって示された永遠の命です。「土の器」とは人間のことを示しています。土で造られた器は、鉄や金で造られたものと違い脆く、時と共に崩れ去ってしまいます。弱くて不完全なものです。それと同じように、人間も完璧ではありません。肉体も時が経てば朽ち、内側も簡単に崩れてしまいます。そんな弱さを持っている人間は、弱くて不完全な土の器なのです。
 パウロがそのことに気付いたのは、回心の出来事があったからです。これまで生きていた価値観では不完全な自分など、想像もできない。そして受け入れられない。ですが、イエス様の死を思うときに、受け入れなければならない現実に直面します。弱くて不完全で脆い、土の器のようなものでしかない自分たち人間の姿を、知ってしまうのです。
 しかし、その現実を知ると同時に、私たちはそんな土の器 によって示された恵みに気付くことになります。それはこの不完全で弱い人間としての歩みに、降りてきてくれたイエス様の存在です。弱い人間と同じ者になってくれたことを通して、私たちの不完全さ、弱さ、脆さをイエス様も担ってくれました。受け入れたくない弱さも、知りたくない脆さも、その全てをキリストが十字架を通して担ってくれたのです。
 不完全な土の器に素晴らしい力である宝を入れるのは、ふさわしくないように思います。ですが、この「ふさわしくない」ということが重要です。能力があるから。知識が豊富だから。優れた人格者だから。そこに価値観を見出すのであれば、それは迫害者であった、以前のパウロと一緒です。自らの弱さを受け入れて、キリストと共に歩むことは適いません。私たちはふさわしくない。土の器でしかない。けれども、神様はこのふさわしくない自分のことを愛してくれている。土の器は脆く崩れ去ってしまいますが、神様はそんな私たち人間のことを大事な一人として作ってくれました。神様が素晴らしい宝物を入れておきたいぐらい、私たちは大切な一人です。
 私たちには復活のキリストの命が働いています。この復活の希望によって歩んでまいりましょう。


2022年4月17(日)  説教題:「復活の知らせ」    聖書;マルコよる福音書16章1~8節
 マルコによる福音書が伝える復活の出来事は他の福音書と違い、登場人物も限られており、イエス様も出てきません。非常にシンプルに書かれています。しかし、このシンプルさは復活が確かなものであったことの裏返しです。ドラマチックにではなく、復活が当然の出来事のように書かれています。神様の計画どおりに救い主は復活しました。今日の聖書箇所よりも前の箇所から、復活は準備されてきました。それだけ確信をもって復活のしらせは伝えられているのです。
 それにも関わらず、この復活のしらせを聞いた人たちは、それを信じることが出来ませんでした。復活を信じることができるのは、イエス様と出会う必要があります。マルコによる福音書はこの後も少し続いていくのですが、そこに書かれているのは、復活のしらせを聞いても信じられない人たちの姿です。しかし、実際に蘇ったイエス様と出会ったときに、人々は復活の主が確かにいることを信じていきます。キリストが蘇って、自分と会ってくれたことを、確かに信じていきます。その時が神様から与えられたときに、人は蘇りの主を信じることが適い、復活のしらせが自分への良いしらせとなっていくのです。
 これは現代を生きる私たちにも同じことが言えます。イエス様を信じる者に変えられること、復活のキリストを信じることは、簡単ではありませんでした。ここでの女性たちや弟子たちのように、ある意味では生き方を変える恐ろしいことです。ですが、そんな私たちにキリストは復活のしらせを伝え、そして一人ひとりと出会ってくれました。
 既にキリストを信じて歩んでおられる方は、それぞれに神様から備えられたタイミングがあり、そこでイエス様と出会いました。人間の目には、それは驚くべき出来事ですが、神様にとっては当然のことです。キリストが計画どおりに復活したのと同じように、私たちにも復活のしらせは福音として伝えられたのです。また、まだイエス様を信じる道が備えられていらっしゃらない方には、これから各々がイエス様と出会う機会が備えられていきます。それはいつになるのかは分かりませんが、神様の計画どおりです。人間はやきもきしますが、神様は当然のように復活の知らせを届けてくれます。全ては神様によって、備えられていくのです。
 復活のしらせは私たちに伝えられていきます。この蘇りの主を信じましょう。キリストの復活は、私たちの復活です。それを信じられるために、神様は復活をしらせてくれました。この良いしらせが、聖書を通して届けられているのです。


2022年4月10(日)  説教題:「逃げた人たち」    聖書;マルコよる福音書15章43~52節
 イエス様が逮捕されたとき。周りには多くの人たちがいました。裏切ったユダ。群衆。弟子たち。一人の若者。この人たちは最初、イエス様を信じて従っていたのですが、イエス様が逮捕されるときには逃げてしまいました。
 このことを通して聖書から、「キリストを見捨てて逃げてしまう自分がいる」ということを教えられます。人間はイエス様を前に逃げてします存在なのです。
 捕されたイエス様は苦しみを受け、十字架に架かります。それでは逃げた人たちは、これからどうなっていくのでしょうか。キリストを助けることも、身代わりになっていくこともできません。十字架への道を歩まれるイエス様を、ただ見ていることしかできません。イエス様が十字架で死にゆく姿を、キリストがその使命を果たされる姿を、見ていることしかできません。
 それが、逃げた人たちなのです。キリストを引き渡し、あるいは見捨て、キリストから逃げた人たちです。私たちも、ユダであり、群衆であり、弟子達です。聖書を通して、見ていることしかできません。キリストの愛を裏切ってしまう。それを見ていることしかできないのです。
 しかし、イエス様は捕まえられたときに、このように言われました。「これは聖書の言葉が実現するためである。」これは聖書全体に示されているメッセージが実現するため、という意味です。聖書全体に示されているメッセージ。それは神様の愛で人間は赦されるということです。
 聖書に書かれている人間の姿は、最初から終わりまで、神様を裏切っていきます。神様によって世界が造られ、人が増えていき、神の民が選ばれていきました。それと同時に、人は神様に対して罪を犯していきます。神様の愛を裏切ってきました。裁きと贖いが、何度も繰り返されていきます。そして預言されていた救い主が生れ、福音が与えられていきました。キリストが十字架に架かって復活し、罪の贖いと救いの希望が与えられます。この聖書によって示されている、私たちへの救いの言葉。これが実現するためであることを、イエス様は言われています。裏切ることしか、あるいは見ていることしかできない私たち人間です。ですがキリストの前に逃げる私たちを、救ってくれると神様は約束してくれました。その約束が果たされるため、キリストは逮捕されていきます。逃げ出してしまった私たちは、ただ、その姿を見ているしかできません。聖書の言葉を実現させる、その救いを完成させることは、キリストにしかできません。逃げ出した者たちは、ただ、その約束された愛と赦しの恵みに与るのみなのです。


2022年4月3(日)  説教題:「み心に適うことが」    聖書;マルコよる福音書12章32~42節
 イエス様はゲツセマネで祈りました。苦しみ、悶え、死ぬばかりに悲しみながらの祈りです。十字架を目前に控え、これから起こる出来事を思って苦しみの中にありました。しかし、祈りの最後はこのように書かれています。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 苦しみは遠ざけて欲しい。取り去って欲しい。でも最後は「み心に適うことが行われますように。」これは全てを神様に委ねている一言です。神様が望むままに、その計画を実行してください、とイエス様は祈りました。
 このイエス様の祈りは私たちにも通じる部分があります。それは私たちも、最後には神様に委ねていくしかないからです。苦しみも悲しみも、困難も寂しさも、全てを神様に委ねることでしか、私たちは乗り越えていくことができません。私たち自身の力ではどうしようもない現実も、神様に任せていくことしかできないのです。
 苦しみを前にして「神様に任せましょう」と言うのは、問題から目を背けて、逃げている行為なのではないかと、思ってしまうこともあります。しかし、神様に委ねることは、決して現実逃避やすり替えではありません。そのことはイエス様の言葉からも読み取ることができます。それは「わたしが願うことではなく」という一言です。「わたしが願うこと」。つまり自分が「こうして欲しい」、「こうしたい」と願っていることであるうちは、明確な答えを自分で求めていく作業になります。「どうすれば苦しみは去っていくのか」、「どうやって逃れれば良いのか」と、自分で考えて、自分で対策をとっていかなくてはいけません。それはまだ、自分の力に頼っている段階です。
 しかし、それはいつか限界がやってきます。なぜならば、困難や苦しみの多くは、自分の力でどうしようもできないからです。
 だから私たちは、その願いを神様に委ねていきましょう。自分の願うことを、神様が願うこと、つまりはみ心へと変えていくのです。委ねることは諦めてしまうことではなく、自分の願いを神様の願いとし、み心が実現されることを祈り願うことです。「わたしが願うこと」が「み心に適うこと」へと変わったときに、それは人の力で実現する物事ではなくなります。自分の力ではどうしようもない苦しみも、そして困難も。それらが人の力ではなく、神様の力によって遠ざけられていきます。神様の力によって実現される、神様の業になるのです。