説教要約(3月)

2022年3月27(日)  説教題:「遠くない」    聖書;マルコよる福音書12章28~34節
 この律法学者は珍しい人です。イエス様を陥れようとするのではなく、心から聞きたいことを質問しました。それは「どの掟が律法の中で一番大切ですか?」というものです。神を愛しなさい。そして隣人を愛しなさい。イエス様はこの二つの掟が、それに優るものはない、とても重要なものであることを教えています。そしてイエス様はこの二つを一つのものとして教えています。神様を愛することは人を愛することであって、人を愛することは神様を愛することです。片方だけの愛であっては、それは最も重要な掟にはなりません。唯一の神を愛し、その愛の中で互いに赦し合っていく。そのことが、一番大切な掟、守らなければならないものであることを、イエス様は教えてくれました。
 この質問をした律法学者はイエス様の答えがそのような意味であることを、すぐに理解しました。二つの掟が一つとなって大切なものであることを語っています。それだけ共感できましたのは、イエス様の答えが厳格に守っている律法に基づいていたから、ということもあるのでしょう。しかしこの質問をしたとき律法学者たちは、イエス様を捕らえるために画策していました。所属している立場が敵対しているので、批判することも出来たと思います。ですが、この律法学者はイエス様の答えに共感をしています。互いの考えが違う中、立場としてあまり仲良くしない方がいい間柄にあって、共感して理解し合えています。互いに愛し合う関係性を、この二人は築くことができたのです。
 イエス様は最後に律法学者へ「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。立場の違いがありながらも神様を愛し、互いに愛し合うことに対して共感してくれた者に「神の国から遠くない」と言われました。「近い」でも「遠い」でもなく「遠くない。」完璧に神の国に入っている者ではないけど、とても遠い者でもない。神の国と、非常に微妙な距離にあります。イエス様の言葉を、立場を超えて即座に理解した彼でも、完璧に神の国に入っているという訳ではありませんでした。神の国に、そして最も需要な掟に至るためには、最後は神様の力に頼っていかなければなりません。頭では理解していても、やはり最後にその歩みを与えてくださるのは神様です。人間に足りない赦せない心や、完全ではないところ。それらは必ず存在しています。そんな弱さの中に、神様が臨んでくださいます。イエス様が共にいてくださいます。この弱さも守られながら、少しずつ「神の国」の完成へと近づいていきます。和解と赦しの時は、きっと与えられていきます。神様を愛し、赦し合う。この歩みが私たち一人ひとりに、そして世界に与えられますよう、これからも祈っていきたいです。

2022年3月20(日)  説教題:「神のものは神に」    聖書;マルコよる福音書12章13~17節

 律法学者はイエス様を陥れようと質問をしました。「ローマへの税金を納めるのが良いと思いますか?それとも悪い事ですか?」「良い事だ」とイエス様が答えますと、ファリサイ派の人たちからは「イエスは神様の律法に違反している」と言われ、罪に問われてしまいます。反対に「税金を納めるのは悪い事だ」と答えますと「イエスはローマ帝国に逆らっている」と、ヘロデ派から告発され、罪に問われてしまいます。これはどう答えても、何かしらの罪に定められてしまう質問でした。
 イエス様は銀貨を応えました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。これは「皇帝への税金は皇帝に納めればいいだろう。神のものである神殿税は神様へと献げれば良いだろう。あなたたちもそうしているのだから。」という意味です。質問に答えて罠にかかるのではなく、陥れようとした者たちを退けたのです。
 イエス様はここで質問に、はっきりと良い、悪い、と答えを示されることはしませんでした。イエス様が答えをだされなかったことは「とんちの効いた答えで、数々の修羅場をくぐり抜けてきた」という読み方も出来るでしょう。しかしイエス様の答えによって示されている大切なことは、「答えを出さなかった」ということではないでしょうか。
 それぞれの時代に、それぞれの「正しさ」があります。ここでは納税をするのが良いか悪いか、という正しさがぶつかることでイエス様を陥れようとしていました。しかしイエス様は「良い」、「悪い」の議論を退けられます。これが良い、これが悪い、ということで、決めつけることをされなかったのです。イエス様は私たちに示しています。良いか、悪いか。その両極端な答えでは決めることのできない価値観があることを、私たちに教えてくれたのです。
 はっきりと決められないことを、イエス様は大事にしてくれました。それは良いのか悪いのか、そのどちらともいえない「曖昧さ」です。その曖昧な部分に、イエス様の愛があります。曖昧であることによって、私たちは考え、悩み、いろいろなことが滞ってしまうかもしれません。しかし、曖昧であることによって、救われていく人たちもいます。全てが決まっていることの方が、みんなが幸せになっていくのではありません。曖昧さを赦してくださる神様の愛の中を生きていくことの方が、私たちは生きやすいのだと、イエス様が示してくれているのです。


2022年3月13(日)  説教題:「叫び」    聖書;マルコよる福音書10章46~52節
 物乞いをして生活していたバルティマイはイエス様と出会います。彼はナザレのイエスだったら、私の目を治すことができるに違いないと信じました。そしてイエス様によって彼は目が見えるようになりました。
 見えるにようになったバルティマイは、その先で何を見たのでしょうか。この後に彼がどうなったかについては、聖書には書かれていません。イエス様はこの後にエルサレムで逮捕され、苦しみを受けて、十字架の死を迎えていきます。その姿はエルサレムにいた大勢の群衆も見ることになりました。この後も従ったバルティマイも、大勢の群衆にいたと考えられます。だとすればバルティマイが見たのは、自分の救い主が苦しみを受けて死ぬ姿です。「この人だったら私を救ってくれるかもしれない」と叫んで呼んだ救い主が、この後に無残な姿で死ぬことを彼は見ました。
 それはバルティマイにとって、期待していた救い主の姿ではなかったかもしれません。しかし、これこそが救い主の姿です。十字架で全ての罪と苦しみを背負って死ぬ。この出来事を通して、神様は人間の罪を赦してくれました。イエス様が痛み苦しみを背負ってくれました。その大きな救いの恵みに人間は与かることが適っています。見えるようになったバルティマイは、救い主が救いを実現する出来事、十字架で死ぬ姿を見たのです。
 バルティマイはイエス様と出会い「見えるよう」になりました。私たちもこのバルティマイと同じようにイエス様に出会いました。私たちもバルティマイと同じく、キリストが十字架によって死ぬ姿を見ます。苦しみを受けて、無残な姿になって死んだキリストを私たちは見ました。
 イエス様に出会うことは、十字架で苦しんで死んだ救い主を見ることです。私たちの良くないものを全て背負って死んだキリストを見ることです。「叫び続けた先に出会った救い主は、十字架で無残に死ぬ人であった。」そのように聞けば、夢も希望もないような話と思うかもしれません。ですが、それこそが私たちの救いです。十字架のキリストを見ることを通して私たちは、イエス様によって赦されたこと、イエス様によって負ってもらった苦しみを知ります。十字架のキリストによって与えられる恵みが、私たちも見えるようになるのです。


2022年3月6(日)  説教題:「献げるために」    聖書;マルコよる福音書10章32~45節
 受難節を迎えました。イエス様は苦しみを受けて十字架に架かって死ぬことを、事前に予告していました。イエス様が私たちのために十字架に架かったから、私たちは赦されている。この変わらない恵みの内に、私たちも現代を生きています。受難節の始まりに、そのみ言葉について今日は聞いてまいりましょう。

自分の地位を他の弟子より高くして欲しいと願う兄弟へ、イエス様はこのように言われました。「わたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」これは十字架に架かって死のうとしている私と、一緒に死ねるのかという意味の質問です。それに対して二人の弟子は「できます」と威勢よく答えています。しかし彼らはこの後、イエス様が捕らえられた際に、逃げ出していることが聖書には書かれています。イエス様の飲む杯を飲み、イエスが受ける洗礼を受けることはできませんでした。

イエス様はそのことが分かっています。十字架に架かるための神の子は自分だけで、いくら弟子たちでも同じことはできないと知っています。だからイエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言いました。イエス様の左右に座ること、同じ栄光を受けることは、決して世界を支配する権力者となることではありません。十字架の苦しみを受け、死ぬことです。イエス様と一緒に苦しむことは、人間にはできません。どれだけ固く「できます」と決意しても、イエス様と共に苦しんで死ぬことは適いません。それは人間には不可能であって、それを求めること自体が間違っています。そんな意味を込めて、イエス様は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と二人の弟子に話したのです。

イエス様は仕えるためにこの世へと与えられました。それは「多くの人の身代金として」です。これは十字架の上で命を献げることを示しています。私たちの罪という負債を帳消しにする身代金として、キリストは十字架に架かっていきました。その苦しみを負ってくれました。人間の罪のためにその身を献げてくれます。そのようにして、これ以上ないくらい私たちのために仕えてくれました。イエス様は私たちを赦すため、そして生かすために、その身を献げて仕えてくれたのです。

受難節のとき。コロナ禍に戦争と、不安なことがたくさん起こっています。そうでなくとも、私たちの生活は不安定なことばかりです。ですが、こんな私たちを赦すため、十字架でその命を献げるために、キリストは世に来られました。十字架のキリストによって与えられた恵みを覚えて過ごしてまいりましょう。