説教要約(2月)

2022年2月27(日)  説教題:「安心していきなさい」    聖書;マルコよる福音書5章25~34節
 12年間もの間、出血の止まらない女性がいました。この病気は身体の痛みによる苦しみだけではなく、社会から疎外されてしまう苦しみを伴います。レビ記の規定により出血の止まらない女性は「汚れた」状態とされていました。清められるまでは隔離されてしまいます。家族との共同生活や礼拝などの宗教行事にも参加できません。この女性の場合、律法の規定によれば常に汚れていることになります。そのために、誰とも接触していくことは適いませんでした。病の痛みによる苦しみだけではなく、社会生活から分断されるという二重の苦しみを味わってきたのです。
 そんな状況にあったこの女性は、癒しをイエス様に求めました。イエス様の服に触れた女性は、自分の病が癒されたことを知ります。しかし、イエス様は自分に触れた人の存在に気付きました。触れた人物を探します。ここでイエス様が自分に触れた女性を探したのは、責めるためではありませんでした。全てを失って群衆に隠れてなければ、その女性はイエス様のところに来ることは出来ませんでした。ですが、イエス様によって癒された女性は、もう群衆の中であったとしても咎められることはありません。それは、ここでイエス様が癒したのは女性の病だけではないからです。病によって分断された女性の社会的な立場にも回復が与えられました。それを伝えるためにイエス様はこの女性を探して、目の前で話したのです。
 イエス様は病によって社会から分断された女性を癒しました。そしてこのように言っています。「安心して行きなさい」これは「平和のうちに行きなさい」と訳すことができます。聖書に書かれている「平和」は「シャローム」という言葉です。「シャローム」には平和以外にも「満ち足りている」、「欠けのない状態」という意味があります。イエス様によってもたらされる「欠けのない状態」である平和、それが安心です。
 この女性は病によって分断させられ、満ち足りていない状態でした。人との関り、礼拝生活など、人生のいろんな要素が欠けさせられていました。しかし、その欠けを満たしてくれたのがイエス様です。イエス様を信じる女性の「あなたの信仰」によって、彼女はキリストと出会い、そして満たされました。これまで病によって欠けざるを得なかったものは、イエス様によって回復させられます。そして心に安心が与えられたのです。
 私たちもいま、人との関りが分断されています。この分断によって欠けたものを満たしてくださるのはイエス様です。イエス様によって満たされる救いの時をまって、安心してそれぞれの場所に行きましょう。そしてイエス様の癒しがあることを望み、安心して生きていきましょう。この分断のときは、必ず癒されて、私たちが満たされるときはやってくるのです。

2022年2月20(日)  説教題:「集まっている私たち」    聖書;マタイよる福音書18章18~20節
 湖山教会創立72周年を迎えました。この聖書は創立のときに読まれたものです。人間で言うならば0歳。生まれたときに与えられた言葉なのです。
 創立20周年の際に語られた言葉が、当時の月報には残っていました。人間で言えば20歳、成人になった時に与えられた言葉です。そこにはこう書かれています。
 「教会が成人になるとは、どんなことでしょうか。それは『自主的にこの世の問題と取り組み、その中でキリストが救い主であることを証していくこと』です。」
 教会が礼拝をすることは、喜ばしい営みである。それだけではなく、教会が礼拝という場から外へと遣わされて、この世の苦しみを共に苦しんでいく。それが成熟した教会だと語られていました。
 それから52年の時が経ちました。人間でいうならば72歳、成人はとうに過ぎて前期高齢者と呼ばれる年齢です。教会が72歳という人間でいうところの円熟期を迎えるにあたり考えましたのは、「共に生きていく場所」という言葉です。これにはあえて主語を付けませんでした。それはいくつか考えられるからです。
 第一に考えられるのは「イエス様と共に生きていく場所」です。二人、三人が集まる場所にはイエス様が共にいてくれます。どのような状況であったとしても、私たちにキリストが共にいてくれれば、それは何物にも代えがたい財産になります。それに気づき、証していくのが教会です。私たちがキリストと共にあることを毎週の礼拝や祈祷会を通して感謝し、気付き、そして出ていく。「イエス様と共に生きていく場所」は、そのためにこれらも導かれていくのです。
 そして次に考えられますのは「教会に繋がる人と共に生きていく場所」です。湖山教会にはいろんな事情を抱えた方が来会されます。その中には医療や福祉、場合によっては法律との繋がりが必要だと思われる方もいらっしゃいます。もちろん、教会で全ての手助けをすることはできません。しかし教会が窓口となっていろんな機関と連携していくことは適います。
 また、そのような大きな出来事だけではなく、教会には介護、育児、家事、仕事や学校などの疲れを吐き出しに来られるかたもいらっしゃいます。はたから見ていれば気付きにくいですが、やはり人間いろんな事情を抱えているものです。日々の疲れを完璧に癒すことはできないかもしれませんが、吐き出してまた出ていく。そんな場所も必要なのだと思います。

  そのようにして来会される方々は、教会員ばかりではありません。来会者や園の職員などは、キリスト教信仰のために教会に来られる人ばかりではありません。しかし、この教会に繋がっています。この世に出て生きのびて、確かに教会に繋がってきました。そのような「教会に繋がっている人たちと共に生きていく場所」としての役割も、この湖山教会は与えられているのです


2022年2月13日(日)  説教題:「黙って静まる」    聖書;マルコによる福音書4章35~41節
 向こう岸へ渡ろうと湖に漕ぎ出したイエス様たちは、突風に見舞われてしまいます。そして船が水浸しになってしまいました。弟子たちは不安になってイエス様に助けを求めました。そこでイエス様は嵐に向かってこう言いました。「黙れ。沈まれ。」その声によって嵐は静かになります。パニックになっていた弟子たちも平穏を取り戻しました。そして向こう岸へ渡ることができました。
 ここで舟に乗って漕ぎ出した湖。この湖は、私たちが生きている現実世界を現わしているように思います。湖の上は揺れていて、天候に左右され易い不安定な場所です。私たちが生きている現実世界も同じく、不安定な場所です。平穏な時もあれば、嵐のように危険な時もあります。そんな中を船に乗って漕ぎ出しているのが私たちです。しかし、舟に乗っているのは一人ではありません。私たちの舟にはイエス様が一緒に乗っています。ここでイエス様と一緒に漕ぎ出した弟子たちのように、私たちも現実社会という湖の中を、イエス様と一緒に進んでいます。
 それにも関わらず、私たちは不安になると神様を疑い、「神様はなぜ、私を助けてくれないのか」と文句を言います。弟子たちが取り乱したのと同じようにです。ここで詰め寄った弟子たちは、私です。神様に委ねることができきれない、そんな弱い私たち人間の姿なのです。
 私たちの心は何度でも不安になります。それはきっと一生拭い去れないことでしょう。そんな私たちにイエス様の声が聞こえてきます。荒れる湖の上で心騒ぐ弟子たちも聞いた一言です。「黙れ、静まれ。」この言葉によって風は止み、弟子たちの心も落ち着きました。これは荒ぶる水や風を黙らせるために、イエス様が言った攻撃的な言葉です。これは私たちにも向けられています。そう聞きますと、なんだかイエス様が冷たいように思うかもしれません。ですが、これは人間に向かって「文句を言わずに黙って我慢していろ」という意味でイエス様は言ったわけではありません。「心配しなくても良い。安心していなさい」という平安を与える一言です。
 これによって私たちは平安を得ることができます。それは単なる気休めや誤魔化しではありません。人間による誤魔化しや気休めではなく、イエス様によって与えられる癒しです。心静めるために必要な慰めは、一緒に船に乗っているイエスによって与えられていきます。「黙れ、静まれ」こう言われた私たちは、きっと安心して湖を渡ることができます。私たちの騒ぐ心はイエスによって、黙って静まるのです。


2022年2月6日(日)  説教題:「成長する時」    聖書;マルコによる福音書4章26~32節

 イエス様は二つの種のたとえ話から、神の国について語りました。神の国とは国家という意味ではなく、神様の支配を現わしています。「支配」と聞くと、なんだか窮屈な印象を受けます。ですが神様の支配は、高圧的に人間を虐げることではありません。「抑圧」ではなく「安心」です。神様は私たちをその支配の中に置いて、全てを整えてくれます。そして生きる糧や恵みを備えてくれます。人間の支配から神様の支配へ。人間の行う抑圧から、神様の与えてくれる安らぎへ。それが神の国です。

神の国は種が成長するように、私たちへと近づいてきます。今日の聖書に書かれていた二つの種が成長する話も、この神の国ついて言われています。私たちの知らないところで、小さなものが大きく成長していく。それが神の国の到来です。イエス様によって神様の支配、その救いが大きく広がっていき、成長していくのが神の国、神様の支配です。

神の国は私たちのもとへと成長し、近づいてきています。ですが、成長するのは神様の支配だけではありません。このみ言葉に聞く私たちも成長していきます。

私たちはイエス様に出会い、その福音よって心動かされて、日々変えられていきます。それらを通して信仰が成長していきます。それは知識が増えたり、立ち振る舞いが素晴らしくなることではありません。「神様の支配に委ねられるようになっていく」ことです。ただ神様を信じて委ねていくこと。つまり、神の国を待ち望む者になることが、信仰者の成長なのです。

そのような意味で、神の国の成長と人間の成長は似ています。私たちは最初、神の国など知りませんでした。まるで小さなからし種のように、その支配を待ち望むことはありませんでした。しかし、いつしかイエス様を通して神様と出会い、私たちの中にある信仰のからし種は大きく育っていきます。まるで土の中の種が春に向かって成長しているように、私たちの中で育っていって、こうして実を結んでいきました。

これはクリスチャンになって終わり、というわけではありません。体の成長は大人になったら止まり、年齢を重ねるにつれて衰えていきます。それとは違い、私たちの信仰はずっと成長し続けます。「神の国の支配」を待ち望む者へと、種が育つように成長し続けていきます。成長するときは私たちにずっと与えられていくのです。