説教要約(11月)

2022年11月27(日)   説教題:「神様からの約束」   聖書;エレミヤ書33章14~16節
 エレミヤ書33章は捕囚により滅ぼされたユダに回復が与えられることが書かれています。その約束が果たされる「その日、その時」に、「正義の若枝を生え出でさせる」と神様は言われました。これは新たな救いのために働く人を立てるという意味です。その人は不正や利益のためではなく、公平と正義をもって国を治めます。神様の前に正しいことをする人です。
 そして立てられた人は「主は我らの救い」と呼ばれることが言われています。救いをもたらすための存在が、神様によって与えられることを神様は約束してくださったのです。
 しかしユダヤに新しく正義の若枝のような王様は現れませんでした。人々が期待した王族の復活はありません。神様が新たに立てることを約束してくださったのは救い主です。それはこの預言が与えられてから600年ほど後のことです。人間の思いや期待は、新しく王様が現れてユダヤを強い国にすることでした。しかし、神様はもっと大きな計画を立てておられました。一つの国、一つの民族を救うのではなく、全ての人にもたらされる救いのために、恵みの約束を果たすことを言われていたのです。
 昔、ユダヤの人々は救い主を待っていました。そして待った先に全ての人への救いが与えられました。この救い主は私たちのことも救ってくれる存在です。私たちも神様からの救いを待っています。それぞれの心の重荷が解決しますように。戦争や病気の流行が終わりますように。その約束が果たされる日を待っています。

 約束が果たされるその日、その時がいつになるのか。それは分かりません。ですが神様は今日の聖書にも書かれていましたように、必ず良い形で約束を果たしてくれます。その証としてクリスマスにイエス様が与えられました。このキリストは約束の成就を待つ私たちを励まして、慰めてくれます。このキリストがいるから、私たちは神様からの約束が果たされる日を待っていけるのです。
 神様からの約束。それは必ず果たされます。救いの日は必ず訪れます。その時を、そしてクリスマスを、共に待っていきましょう。


2022年11月20(日)   説教題:「旅の終わりと始まり」   聖書;使徒言行録28章17~31節
 パウロはローマに辿りつき、おもだったユダヤ人の前で語りました。これまでも使徒言行録で語られてきた、ユダヤ人だけに救いが限られたものではなく、全ての人に与えられるという恵みについてです。パウロの話を聞いて受け入れる人たちもいました。ですが、それを受け入れられない人たちもいました。それでもパウロはローマで伝道を続けていきました。
 最後にはパウロが伝道していった様子が書かれています。未完のような印象を受けますが、それは間違いです。使徒言行録が伝えたかったことは、エルサレムからローマまで福音が到達し、しかもユダヤ人以外にも広がっていったということです。それを伝えて役割を終えて、使徒言行録は閉じられているのです。
 聖霊が降る場面に始まり、ペトロやステファノ、そしてパウロたち聖霊を受けた使徒の旅がここで終わりました。使徒言行録という書物は終わりを迎えましたが、これは始まりでもあります。使徒言行録によってローマに伝えられた福音、その広がりは、歴史の中で過ちを繰り返しながらもさらに遠くへと広がっていきました。ユダヤ人からギリシャ人、ローマ人へ。そして人種や国籍に関係なく世界中へ広がり、現在ではここ鳥取にも確実に届けられています。そして鳥取の湖山で生きる私たちを巻き込みながら、福音はさらに先へと続いていきます。
 私たちの歩みは、聖書に残って何千年も伝えられていくような壮大な物語ではないかもしれません。しかし、それがどれだけ小さく地味なものであったとしても、キリストの福音によって示されて出ていく一人ひとりの歩みがあります。そしてキリストによって救われた一人ひとりの力強い証があります。これが使徒言行録の続きです。エルサレムから始まり、聖霊に導かれた使徒言行録の登場人物の続きになるのは私たちです。この聖書に聞いて伝道に出ていく私たちの歩みが、使徒言行録の続きになっていきます。一つの使徒言行録がここで終わり、そして信仰者の数だけ新たな使徒言行録が始まっていくのです。
 み言葉によって励まされて、慰められて、また旅を続けていきます。この旅路を、聖霊に導かれながら、イエス様と共に、そして神様の計画に委ねて歩んでまいりましょう。

2022年11月13(日)   説教題:「元気」   聖書;使徒言行録27章21~38節
 囚人としてローマへと移送されて行くパウロたちの乗った船は、暴風に襲われて漂流してしまいました。陸が見えず、助かる見込みが望めないような状況です。
 そんなときにパウロは人々を励ますために語りました。それは神様に与えられた「あなたは皇帝の前に出頭しなければならない」という言葉があったからです。これは法律で決められているからではありません。神様が決めたからです。だからパウロは「元気をだしなさい」と励ましました。パウロの意見ではなく、神様によって与えられた「あなたたちを救う」という確信をもって励ますことができたのです。
 それから14日が経ちました。今度は食事をとるようにパウロが提案します。そのときに共に祈りを献げてパンを裂いたことが聖書には書かれています。これは礼拝です。とても礼拝などしていられないように思える場面ですが、それでも信仰者が日常的にしている営みにパウロたちは帰っていきます。それによって一同は元気を出すことができました。空腹が満たされたこともあったのでしょうが、礼拝を通して彼らは命が救われることを確信します。礼拝を守ることで神様の存在を感じることができたからです。ここでも神様との繋がりによって、人々は元気を出したのです。
 ここで言われている「元気」とは何でしょうか。この聖書に書かれていた「元気」は英語ですと「courage」という単語が使われています。これは「「危険・苦難・不幸にあっても不安を抑える」という状況のときに使われる言葉です。元気が出ない理由は様々にありますが、その一つは「不安」です。
 だからこそ、パウロは励ますために神様に言われた言葉を語りました。「元気を出しなさい」とはパウロの口からでた言葉ですが、それを与えたのは神様です。ここでの「元気」が「courage」であったことを考えますと、神様は人間へ「不安を感じなくても良いんだよ」と言ってくれました。陸地も見えなく、暴風が吹き荒れて不安しか感じないような状況です。それでも神様の言葉によって、人々は元気になることができました。そしてパウロが祈ってパンを裂き、食事を共にしたときにも、元気になっています。神様を礼拝することを通して、不安が和らいで元気になることができました。この船に乗っていた人たちも私たちも同じ神様を信じる人間です。私たち人間は努力や根性によって元気になるのではありません。神様が不安を和らげてくれることを通して、元気を取り戻すことができるのです。


2022年11月6(日)   説教題:「主の家に帰る」   聖書;詩編23章1~6節

詩編23編は「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という一節から始まります。羊飼いである神様と羊の私たち。羊は臆病で方向音痴です。羊飼いがいなければ迷ってしまいます。人間も同じように神様に導いていただかなければ、迷ってしまいどこへいくこともできません。その関係には「何も欠けること」はありません。羊にとって水や草が必要なように、私たちを満たしてくれます。それが羊飼いである神様と私たちの関係なのです。

 そして羊は運動や食事のために移動して過ごした後、羊飼いに連れられて自分たちの家に帰っていきます。ただ帰るだけではありません。5節には「わたしの頭に香油を注ぎ」とあります。頭に油を注ぐには人間にとっては大きな祝福ですが、羊にとっては怪我を癒す塗り薬の効果がありました。昼間に外で怪我を負ったとしても、自分たちの家に帰れば羊飼いがケアをしてくれます。それと同じように私たちが傷ついたとしても、神様は共にあって私たちを癒してくれます。行く道を示すような導きだけではなく、私たちの癒しのためにも神様は働いてくださるのです。

神様と人間との関係は導きと癒しに満ちたものでした。これは私たち人間にとっての人生に似ています。産まれてから必要な養いと導きを受けて、主の家に帰っていく。神様に導かれて歩んできました。召天者記念礼拝を守る私たちと、そこで覚えられるお一人おひとり。その全てが神様という羊飼いによって導かれた羊です。天に帰られた方々も羊ですので、きっと方向音痴だったことでありましょう。一人きりでは神様のいる場所が分からなくなってしまったかもしれません。ですが、羊飼いは大切な羊を見過ごしません。地上での日々だけではなく、天上に帰るときにも、神様という羊飼いは一緒にいてくれます。そして主の家への方向を示し、お一人おひとりを導いてくれました。6節に「主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」とありますように、帰天された方々は何の心配もなく主の家に帰ることができました。そして私たちもいずれは帰っていきます。私たちには良い羊飼いによって、帰る場所が与えられているのです。

 召天者記念礼拝を通して、召天された方々と、いずれは召天していく私たちのことを覚えてきました。既に帰った方々も、私たちも神様の羊です。地上での日々も、天上での日々もイエス様が共にいて導き、癒してくださいます。主の家に帰るその日まで。そして主の家に帰った後にいたるまで。私たちには神様が共にいてくださるのです。