説教要約(10月)

2022年10月30(日)   説教題:「理にかなったこと」   聖書;使徒言行録26章24~32節
 教会は「生産性」や「効率」よりも理にかなっていないことを大切にしてきました。しかしパウロはキリストを信じることが「理にかなっている」と言っています。ここで言われている「理にかなった」とある言葉には、「分別のある」、「目覚める」という意味があります。パウロを捉えて尋問している総督や皇帝たちは、自分たちが分別をもって逮捕したと思っています。そしてパウロが現実離れしたことを語っていると判断しました。ですが、パウロが語ったのは現実から離れた寝言ではありません。キリストによって示された、目の覚めるような復活の希望です。これこそが間違いなく現実であり、真理で、理にかなっていることを語りました。
 パウロを見て議場にいた人たちはどんな風に思ったでしょう。キリストを信じてそれを伝えている人が、これだけ裁判で弁明をしなければならない。こんな苦しい目にあうのならば、キリストを信じずに今の生活のままでいいじゃないか。もし、私がこの場にいてキリストを信じていないのだとすれば、そのように思ったかもしれません。これは当時のことだけではなく、現代でも同じことが言えます。日曜の午前中に必ず集まらずとも、その時間を楽しく過ごす娯楽はたくさんあります。気持ちが晴れる言葉の書かれた本もたくさんあります。その時間を仕事にあてて、お金を生み出すこともできます。今の生活を維持していけば、今より不幸になることはないでしょう。
 しかし、パウロはそんな人たちの前で、そして私たちの前で力強く証します。イエス様を信じることが「真実で理にかなったこと」だと。イエス様を信じることは、理にかなったことです。この世の目で見れば、それは効率が悪いことかもしれません。ですが、どれだけお金を稼いだり時間が短縮されようとも、それだけでは手に入らないものがあります。神様と出会い、そしてキリストによって示された復活の希望によって生きていく。不安定で弱い人間だとしても、そんな私たちと一緒に生きてくれるキリストが共にいてくれる。そして共に喜んで、共に苦しんでくれている。これは何をどう合理的に動いたとしても、与えられない救いです。この救いの恵みに与かって歩んでいくことが、この地上で生きている私たちと、そしていつかは死んで神様のもとに行く私たちにとって、理にかなったことです。教会で神様と出会い、そして地上でも天上でもキリストと共に歩んでいく。この救いに与かることが、私たちにとって理にかなったことなのです。


2022年10月23(日)   説教題:「勇気をだせ」   聖書;使徒言行録23章1~11節
 パウロは裁判の席上で「私の口を打つことは、神を打つことと同じことだ」と言っていました。これは自分が神様によって動かされていることを、確信しているからこそ言えるのだと思います。自分の言葉や行動が全て神様のものであると、私たちは自信を持って言えるのでしょうか。
 私たちの選択。私たちが誰かに話していく言葉。それらは私たちが選んでいるようで、じつは私たちのものではありません。神様が示してものです。そのように考えていきますと、言葉や出来事を選び取っていくのに、億劫になってしまうかもしれません。難しい選択を迫られたときに、神様が見ていることを思えば、躊躇してしまうかもしれません。ですが、私はそれだけ悩むことは悪いことではないと思います。全てに確信をもって「自分の言葉や選ぶことが全ての神の意志と同じだ」と考えてしまえば、それはカルト宗教のように人間が神に成り代わってしまう行為だからです。
 パウロもここでは迷いなく「自分の口を打つことは神を打つことと同じだ」と言っていましたが、じつは迷いや不安がありました。だからこそ今日の聖書の11節でイエス様はこのように言っています。
「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」
 イエス様は「勇気をだせ」と伝えました。あなたは間違っていない。私のことを証ししなさい。私が傍にいる。じつは恐怖を感じていたパウロにとって、その言葉はどれだけ励みになったことでしょう。議場に集まったたくさんの人たちが否定しても、自分のことを認めてくれるイエス様がいます。そばに立って「勇気を出せ」と伝えてくれるイエス様の言葉が、パウロに勇気を与えたのです。
 これは私たちにも向けられています。あなたのそばにいるから「勇気をだせ」と言ってくれるのはイエス様です。私たちが選択していくとき。私たちが言葉を選んでいくとき。そして、どうしようもなく不安で落ち込んでいるとき。そんな私たちの傍にたってイエス様が「勇気をだせ」と強く励ましてくれます。その姿形は見えないし聞こえないかもしれませんが、聖書を通して私たちに語り掛けてくれます。人間の言葉ではなく、イエス様の言葉で。人間の励ましではなく、イエス様の励ましによって。私たちは勇気をだすことができるのです。


2022年10月16(日)   説教題:「御心が行われますように」   聖書;使徒言行録21章7~15節
 パウロはエルサレムへと向かいます。しかしエルサレムに行けば逮捕されることが分かっています。それでもパウロが向かうのは、神様の導きがあったからです。
 パウロは神様の導きに従いました。神様の導きとは不思議なものです。私たち人間の思いを超えた形で働いていきます。それが良いと思える形で変わっていけば良いのですが、必ずしもそうとは限りません。全てを神様に委ねていくことは、必ずしも楽なことではないのです。
 そのように考えてみますと、神様を信じて歩んでいくことが、とても不安に思えてくるかもしれません。それでもなぜ私たちは神様に従う道を望み、歩んでいくのでしょうか。それは14節に書かれていた町の人たちの言葉に現わされています。
「御心が行われますように。」
 町の人たちは神様の導きを変えることができないことを知り、ただ一言だけ「御心が行われますように」と告げて、その後は口をつぐんでいます。このときの心情は書かれていませんが、町の人たちもパウロと同じく、ただ神様のみ心を信じて委ねていったのだと思います。神様のみ心とは、神様の計画や神様の意志です。どう考えても良い方向に行くとは思えないパウロのエルサレムに行きですが、人々はそこに神様のみ心があると信じました。神様が良いことを実現してくださることを願って、それがみ心であると信頼して託していきました。この御心というは、正直に申し上げますとやっかいです。私たち人間の理性や知識では、理解することができないときもあります。それでも私たちは、神様に委ねていくしかありません。その時には理解できなくとも、またそれが自分の思い描いていた計画とは違ったとしても、結局は神様によって示された御心が、私たちを導いていきます。そしてそれが、必ず私たちを満たしてくれる救いへと繋がっていきます。その理屈や道筋が明快でなかったとしても、それに委ねていくことしかできません。不安定に見えるかもしれませんが、私たちは御心に委ねていくしかないのです。
 委ねる不安がつきまとうこともありますが、それでも神様は私たちに救いと平安を必ずもたらしてくれます。私たちの計画通りにいかず、それが良くない方向に向かっていってしまうとしても。神様は見捨てずにいてくれます。そのために、神様はイエス様を遣わしてくださいました。イエスの名によってエルサレムに行くパウロには、イエス様が共にいてその苦しみを共に苦しんでくれていました。私たちの歩む道にも、イエス様が共にいます。目には見えませんが、み心が現わされていく場所には、必ずイエス様が共にいて、私たち共に喜び、共に苦しんでくれます。必ずしも良いと思える出来事ばかりが訪れるわけではない、そんな不安定な世の中を生きている私たちです。ですが、その不安定な歩みの中に、イエス様が共にいてくださるのです。

2022年10月9(日)   説教題:「神ではない」   聖書;使徒言行録19章21~40節
 エフェソには女神アルテミスの神殿があり、その模型で商売をしている人たちがいました。彼らは「手で造ったものは神ではない」というパウロを危険視します。それは暴動にまで発展していきました。
 デメトリオが暴動をけしかえたのは、自分の利益を守るためです。暴動に参加した人たちも、何のために集まっているのかが分かっていませんでした。女神アルテミスを大切にしているように見えて、自分たちの名誉や利益を最優先に考えています。ここに「手で造ったもの」、偶像の本質が見えてきます。偶像とはただ単に木や石で造った物を信じて崇める行為だけのことではありません。自分の欲望のために神を利用していくことです。それをすることによって、無意識のうちに神という存在をコントロールし、神であるかのように振る舞ってしまいます。
 これ以上に空しいことがあるでしょうか。神様を信じて、神様に守られているにも関わらず、人間は欲望のために神を利用してきました。聖書に書かれている神様は、決して人間にとって都合の良い存在ではありません。厳しく、ときに恐ろしい裁きの言葉も与えられます。それでも私たちが神様を信じているのは、この神様だけが私たちを生かしてくれるからです。この神様だけが、私たちを救うためにイエス様を与えて、その罪を赦してくれたからです。都合の良い神様は、神ではありません。目先のことや心情的に都合が悪かったとしても、それでも私たちを生かして命と魂を養い、生かしてくださるのが神様です。それを忘れて都合の良い神を作り出したとき、一時は満足するかもしれません。しかし、後に残るのは空しさだけです。何もない、空っぽの偶像によって歩むことは、空しいのです。
 神様は見えません。聞こえることもありません。その神様を信じていくことを、不安に思う時があるかもしれません。それだけ私たち人間は不安定です。ですが、その代わりになりそうな偶像は、神ではない。聖書ははっきりと私たちに教えてくれています。信じることに不安な時には教会があり、共に祈って御言葉に聞く仲間がいることを思い出してください。目には見えないけれども、私たちが祈るときに一緒にいてくれる存在が、神様なのです。


2022年10月2(日)   説教題:「語り続けよ」   聖書;使徒言行録18章1~11節

 コリントに移動したパウロには現地での協力者とフィリピ教会からの献金が備えられました。ユダヤ人の反発にあいながらも伝道活動は続けられていきます。しかし、コリント伝道が始まった頃を振り返ってパウロは、このように書き記しています。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(コリントⅠ 23節)順調そうに見える伝道の様子であっても、パウロは「衰弱」し「恐れ」、「ひどく不安だった」とあります。表向きのパウロはそれらに怯むことなく伝道しているように見えますが、心の内では語れなくなってしまうような恐れを抱いていたのです。

そのようなパウロの心を知っているからこそ、神様は「恐れるな。語り続けよ」と語っていきました。パウロを支えていくことを「わたしが共にいる」と言って約束しています。私がついているから、恐れても、不安であっても大丈夫。安心して語り続けなさいと、神様はパウロを励ましたのです。

ここに伝道に必要なものが書かれています。現地での協力者は目に見える形での協力者です。献金はただの生活の糧ではなく、その地での伝道に参加することを意味しています。この献金によって目には見えない協力者が与えられました。そして最後に与えられたのが神様の言葉です。どれだけ力強く順調そうに見えていても、その内側を知っているのは神様だけです。神様だけがその人の不安や恐れを知り、そして働きかけてくださいます。

見える協力者と見えない協力者。そして神様からの励ましの言葉。パウロはそれらに支えられて、伝道活動を続けていきます。コリントという新しい場所で、パウロは伝道に必要なものが備えられていったのです。

これはコリントだけではなく、私たちの暮らす湖山でも同じように示されています。伝道していくのは牧師だけではありません。それは教会の業です。パウロを励ました神様の言葉にはこのように書かれていました。「この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」それはコリントだけではなく、この湖山にも「わたしの民」は「大勢」います。その大勢がイエス様の救いを知り、共に生きていく恵みに一緒に与かるために、伝道の業と必要なものが備えられています。祈りながら私たちも伝道していきましょう。