説教要約(1月)

2022年1月30日(日)  説教題:「蒔かれた種」   聖書;マルコによる福音書4章1~9節
 この種蒔きの例え話には「み言葉を聞いて受け入れる人」について書かれています。イエス様は三つの土地を人間、種をみ言葉になぞらえて語ります。  
 それでは、私たちは一体どんな土地なのでしょう。道端で石だらけで、茨に囲まれている。私は残念ながら自分のことのように聞こえてしまいます。良い土地でありたいと願うのですが、それはなかなか適いません。この20節に書かれている「良い土地」とは、み言葉を聞いて受け入れる土地です。胸を張って「私は良い土地です」と言える人の方が少ないのではないでしょうか。
 イエス様はそんな私たちの現実を良く知ってくれていました。昔も今も変わらない、人間の現実です。神様からみ言葉は与えられているのですが、種の成長を妨げるいろんなものに人間は囲まれています。そんな弱さを持っているのが人間です。そのように考えますと、この弱さに悲しくなってきます。み言葉が種として蒔かれても無意味なのかと思ってしまいます。
 ですが、だからと言って神様は私たちを突き放しているのではありません。むしろ、良い土地と言えない私たちだからこそ、神様は私たちに種を蒔き続けてくれています。常に良い土地ではない私たちです。それでも多く蒔いた種の一つでも実を結ぶために、100倍以上の実を結んでいくために、神様は私たちに聖書を通してみ言葉を残してくれました。神様の言葉。イエス様の言葉。それらがこの聖書には書かれています。私たちは教会に集まり、礼拝や祈祷会を通してみ言葉に聞いていきます。あるいは、一人でも二人でもみ言葉に親しむとき。私たちには神様のみ言葉が蒔かれていきます。そうやって何度も何度もみ言葉の種を神様から与えられて、私たちは養われていくのです。神様は「弱いからみ言葉を蒔くのをやめよう」と思うのではありません。「弱いから何度でもみ言葉を蒔こう」としてくれているのです。
 私たちに良いものを与えて、恵みのみ言葉を備えてくれるのは神様です。これが私たちを養っていきます。神様によって蒔かれた種を、大切にしていきましょう。
2022年1月23日(日)  説教題:「イエスの招き」    聖書;マタイによる福音書2章13~17節
 イエス様はレビを弟子へと招きました。彼は徴税人です。これはローマに委託された税金を徴収する仕事でした。税金を不正に徴収して私腹を肥やす徴税人は、ユダヤの人々から罪人と認識されていました。
 そんなレビはイエス様の「私に従いなさい」という招きに応えたことによって人生が一変します。新しくされたレビは自分と同じ徴税人や罪人と呼ばれる人たちを招き、食事の席を設けます。そこにはイエス様も一緒にいました。しかしこれは人々の反感を買います。厳格に律法を守って生活しているファリサイ派の律法学者たちは、イエス様を批判する材料にします。食事を共にするのは、特別な親しさや仲間である証です。また、同じ神様を信じているからこそ、同じ食事の席につくことができます。罪人たちと食事の席を共にすることによって、イエスが罪人の仲間であると彼らは認識したのです。
 これがレビへと与えられたイエスの招きです。レビはイエス様に招かれる前まで徴税人として生きていました。しかしイエス様と出会い従うことを通して「新しい正しさ」を知ります。このイエス様が招かれた「新しい正しさ」とは、誰かを排除するそれまでの「古い正しさ」を否定することです。「罪人」として徴税人や病気の人、障がいを持つ人など、多くの人たちを疎外されることが、正しさの名のもとに行われてきました。しかしイエス様はそのような「正しさ」を否定します。レビはこれまでの「正しさ」の範疇では、自分はとても誰かと食事の席に着くことは出来ませんでした。罪人同士の会食でも、後ろ指をさされていたことでしょう。ですが、イエス様はどのような立場であっても、食事の席についてくれます。イエス様と共にあれば、新しく生き直すことがでます。イエス様によって招かれた新しい正しさの中では、自分は「罪人」として疎外されないことを知ったのです。
 私たちもこの正しさの中へと招かれています。しかし人間の心の奥底には誰かを疎外し差別する気持ちが潜んでいます。これはどれだけ拭い去りたくてもなくなっていきません。人間はそんな弱くて醜い生き物です。
 だからこそ、私たちはイエス様によって招かれ続けていかなくてはなりません。イエス様の招きは、一度だけで終わるものではありません。何度でも何度でも、イエス様はその食事の席を私たちに示して、再び新しさの中へと招き続けてくれいます。この私たちの醜さ、そして弱さを知りながらも、神様はイエス様通して、ずっと私たちを招いてくれいます。信仰生活はイエスの招きに応え続けていく、その繰り返しなのです。

2022年1月16日(日)  説教題:「癒し」    聖書;マルコによる福音書1章21~28節
 荒れ野に道が備えられ、イエス様の活動が始まりました。人々の前に現れたイエス様が最初に行ったのは、癒しの出来事です。会堂で教えたイエス様は、律法学者のようにではない教えを通して、人々を驚かせます。それは人間の権威ではなく、神の権威によって語ったからです。人の言葉を頼りにしている律法学者の言葉ではなく、神様によって与えられた言葉によって、イエス様は人々に新しい教えを備えられました。

 その言葉を聞いたのは人間だけではありません。その会堂には「汚れた霊に取りつかれた男」もいました。恐らく、この人は何らかの病を患っていたのでありましょう。当時、原因不明の病を人々は「悪霊の仕業」と理解していました。そして律法では悪霊の原因が「先祖の犯した罪のせいである」と解釈されます。律法の解釈では病を悪霊として糾弾し、近づかないようにすることしかできませんでした。イエス様はその病に出ていくように命ると、この男性は癒されました。人々はこの様子を見て、再び驚きます。救いとなるイエス様の癒しに、人々は驚きを覚えたのです。
 ここに書かれていましたのが、イエス様が最初に公の場で語り、そして癒した出来事です。ここで癒されたのは、この会堂にいて「その教えに非常に驚いた」全ての人たちです。律法学者による人の権威によって教えられた人々は、意識してはいないでしょうが、人の権威ではないものを求めていました。そこに現れたのがイエス様です。人の言葉ではなく、神様の言葉で。人の権威ではなく、神の権威ある者として、キリストは人々の前で語り教えました。イエス様によって語られた神様の力によって、悪霊に取りつかれた男性だけではなく、その場にいた全ての人たちが癒されたのです。
 律法学者によってもたらされたのは、人間の権威によって語られる人間の癒しでした。ですが、人間を本当に癒してくれるのは、人の力や人の言葉ではありません。神様の力によってもたらされる、神様の言葉です。イエス様を通して備えられた癒しが、私たちにとっての癒しです。耐えがたい悲しみ。どうしようもない空しさ。はかりしれない困難。これらを心の底から知ってくれるのは、たとえ家族や親友であっても難しいことでしょう。しかし、その全てを知って、全てを神様が受け入れてくださいます。その全てに必要な癒しを、神様が備えてくださいます。そのために神様はイエス様を世に送り出し、私たち人間に赦しと癒し、そして救いを備えてくださいました。イエス様が私たちと共にいてくれる。それが私たちの癒しとなっていくのです。

2022年1月9日(日)  説教題:「まっすぐな道筋」    聖書;マルコによる福音書1章1~8節
 マルコによる福音書は困難な時代を「荒れ野」として描きました。この荒れ野から救い主の福音は始まります。
 荒れ野で洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは、過去の良くない行いを反省したり、後悔することではありません。「悔い改め」には「方向転換する」という意味があります。これまで生きて来た道から180度方向を変える。それが悔い改めです。ヨハネの宣べ伝えた悔い改めは、イエス様を信じる者へと変えられることによって、これまで歩んできた道から方向を転換させられることを意味しています。
 それはこの世の力ではなく、神様の力に頼る方向転換です。人間を救うのは財産でも権威でも、ましてや武力でもありません。神様によって与えられる救いです。人の力から神様の力に立ち帰る。人の救いから神様によって与えられる救いに立ち帰る。この悔い改めによって罪の赦しを得て、イエス様と共に神様の道に立ち帰ることが適います。それは今までの自分とは、まったく別の生き方です。この生き方を180度方向転換することが悔い改めなのです。
 私たちの歩いている道も「荒れ野」のようなものです。時に渇き、時に荒む。この社会の中でそんな道をそれぞれが生き抜いています。しかし、悔い改めることを通してその道が変わります。そこがどんな道であったとしても、その道をイエス様が一緒に歩いてくれるからです。私たちが歩いていく道は紆余曲折、寄り道をしたり戻ってみたり、あるいは曲がっていたりすることもあります。進むときも、戻るときも。迷うときも、歩みだすときも。どんなときでもイエス様と共に歩いていく道になっていくのです。

 そのようにしてイエス様と一緒に歩んでいく道は、悔い改めによって方向転換した道です。財力や権威ではなくイエス様に頼っていくその道は、不安定な道に見えるかもしれません。しかしこの道こそ、神様によって与えられた「まっすぐな道筋」です。人の目には不安定に見えているその道も、イエス様が一緒なら、それはまっすぐな道になります。どれだけ迷って、戻ったり立ち止まったりしながら信仰の道を歩んでいったとしても、その傍らにはイエス様がいます。それを整えるために、私たちは洗礼を受け、イエス様と一緒に生きる道を歩み始めました。どんな道であっても、そこにイエス様がいれば、それはまっすぐな道になるのです

2022年1月2日(日)  説教題:「ナザレのイエスのこと」    聖書;使徒言行録 10章34~48節

使徒言行録10章にはコルネリウスとペトロの出来事が書かれていました。コルネリウスは異邦人です。ペトロは異邦人とは距離をとっていました。律法に違反することを避けるためです。

しかし、神様はペトロにコルネリウスとの出会いを与えます。そこでペトロはこのように口にしています。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」ここで使われている「分け隔て」という言葉はもともと、「顔で判断する」という意味があります。顔や見た目、人種や身なり、性別や立場。分かり易く外見で判断し、人が人を分けるときに使われる言葉です。異邦人であるコルネリウスと出会うまで、ペトロは「異邦人と関わること」に対して、「分け隔て」がありました。そのような文化の中で生きてきたので違和感を抱くことなく生きていました。しかし神様の導きによってコルネリウスと出会います。このコルネリウスとの出会いを通して、ペトロは神様に教えられます。「神は人を分け隔てなさらない」。神様に与えられた出会いを通して、異邦人とペトロとの隔たりが取り去られたのです。

そしてペトロはキリストの福音を語り始めます。それはガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった出来事。ナザレのイエスのことです。イエス様の活動も、分け隔てをしないものでした。十字架の死と復活によって備えられた救いは、全ての人に分け隔てなく備えられるものです。全ての人たちに与えられていく、キリストの福音の広がりをペトロは語ったのです。

私たちの世界にも多くの隔てが存在します。それは民族に限っただけではありません。立場や性別、性的指向、住環境など、隔てを作られる機会に溢れています。私たちの心の奥底には、そのような良くない感情がくすぶっているのでしょう。集団心理として、見えないところに潜んでいるものが、ときに顔を出します。

私たちも、この隔てを取り去る出会いを、分け隔てを少なくする機会を、神様に与えていただかなくてはなりません。神様はコルネリウスとの出会いを、ペトロに与えられました。この出会いの出来事を通して、ペトロは異邦人との隔たりが解消されました。ナザレのイエスのことを通して与えられた、新しい始まりです。私たちの信じる神様は「分け隔てをなさらない」方です。人間は様々な区分を作って分け隔てます。ですが、神様はその隔てを越えて、人間にたちに臨んでいかれます。そして、神様によって与えられた出会いを通して、私たちも隔てを解消することが適います。それが使徒たちによって伝えられた和解をもたらす方の出来事、ナザレのイエスのことなのです。