説教要約(7月)

2021年7月25日(日)  説教題:「憐みの器」   聖書;ローマの信徒への手紙9章19節
 この御言葉には「怒りの器」と「憐みの器」という二つの「器」について書かれています。私たちは神様の前にどんな器なのでしょう。「怒り」と「憐み」という両極端なことが言われていますが、これは神がある者を怒りの器として造ってその人を滅ぼし、ある者を憐みの器として造りその人を救う、という、二つに一つしかないのではありません。
 ここで言われているのは、怒りの器として滅びることになっていた者たちを、神様が寛大な心で耐え忍んだということです。怒りの器であったものが、神様の忍耐によって憐みの器へと変えられました。ここで言われている変えられた怒りの器だった人たちは全ての人間です。
 人間は誰もが救うに値しないような罪深い存在でした。そんな怒りの器です。怒りの器は、製作者にとっては失敗作です。叩き割っても良い権限を神様は持っていました。しかし、神様はそれを叩き割ることはしませんでした。その怒りの器に、値しないにも関わらず、憐れみを注いでくださいます。愛、赦し、恵み、祝福、そして救いを注いでくれました。そうして怒りの器は、神様の救いが注がれた憐みの器へと変えられます。人間は憐みの器とされました。神様の自由な選びによって、キリストの救いに与かる憐みの器とされたのです。
 この聖書箇所で「怒りの器」とは不信仰な滅ぼされるべき人間のことを指していました。しかし、ここでの「器」という焼き物師と焼き物の例えに沿って、これを現代に置き換えてみますと、また違った読み取り方もできると思います。怒りの器は焼き物師にとって失敗作です。私は自分がこの「失敗作だ」と思っている人の話を聞くことがあります。自分を愛することができなかったり、自信が持てない方々です。
 2014年に13歳から29歳までの若者を対象に行われた、内閣府の調査によりますと、「自分自身に満足していますか?」という質問に「満足している」と答えた人は45.8%でした。これは諸外国と比べても低く、また前回の調査からも下がっている数値です。半分以上の人が「自分に満足できない」と答えているのが現状です。
 失敗作は神様のみ心だからしょうがないのでしょうか。その人を失敗作に造られた神様の責任なのでしょうか。決してそうではありません。神様は自分が値しないと思っている人にこそ、恵みを注いでくださいます。それが神様の憐みだからです。そして自分が思っている失敗作という認識を変えてくれます。その認識の変化によって、人は失敗作ではなく憐みの器へと変えられていきます。
 私たち一人ひとり、神様の失敗作ではありません。「怒りの器」と呼ばれるような罪を抱えていきている一人だったかもしれませんが、それでも失敗作ではありません。なぜなら、神様の憐みによって、素晴らしい恵みを与えられたからです。


2021年7月18日(日)  説教題:「真実を語る」   聖書;テモテへの手紙Ⅰ 2章1-7節
 聖書は「すべての人々」のために祈りなさいと教えています。それは生易しいことではありません。2節には「王たちや全ての高官のため」にも祈りなさいと言われています。ここで言われているのは、「祈りたくない相手のためにも祈りなさい」ということです。この当時、キリスト教は「王や高官たち」から迫害を受ける立場にありました。これを書いたパウロやその仲間たちも、王や高官たちの方針によって迫害を受けています。つまりこれは、自分たちを苦しめる者たちのためであっても、祈りなさいという教えです。
 改めて「祈り」という行為の深さと難しさを思い知らされます。祈りとは、自分が祈りたい相手のためだけに祈ることではありません。自分を迫害する者。自分が嫌いな人たちのためにも祈れと、聖書は教えています。
 なぜそこまでして祈らなければならないのでしょう。すべての人々のために祈ることは「わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれること」だからです。4節にありますように、神様は「全ての人々が救われ」ることを望んでおられます。全ての人々への祈りは、全ての人を救おうと願っておられる神様の御心に適っていることなのです。
 「すべての人々」の範囲はとても広いものでした。ですが、考えてみてください。この「全ての人々」は、かつて私たちも含まれていました。
 私たちがキリスト者になるとき、そこには必ず誰かの祈りがありました。つまりは、私たちも誰かの祈りに助けられて救われた一人です。誰かの祈りによって助けられて、キリストが救い主だと知り、洗礼を受けてキリスト者になっていきました。罪や死の恐怖の奴隷から解放されたいと願い、十字架によって贖ってくれたキリストの救いに入りました。
 そのために祈ってくれた人は、あなたの知っている誰かであったかもしれません。あるいは、あなたの知らない誰かが、あなたのことを思って祈ってくれていたかもしれません。「全ての人が救われますように」と言って、祈ってくれていたとき、その「全ての人」には、かつての私たちも含まれていました。今度は私たちが祈っていく番です。すべての人々がキリストの救いに与かることができるように、共に祈っていく。これが神様の御心です。このスケールの大きさにたじろいでしまうかもしれません。嫌いな人のために祈ることで自らの汚い部分と向き合い、辛い経験とあるかもしれません。ですが、そんな祈る私たちの傍らには、イエス様が一緒にいてくれています。言葉が出なくとも、何も思い浮かばなくても、祈る人には「祈れ」と命じたイエス様が共にあります。このキリストによって私たちは贖われ、神様の御心のために祈っていくことができるのです。

2021年7月11日(日)  説教題:「イエスにおいて」   聖書;ガラテアの信徒への手紙3章26-28節
 山陰地方に降った大雨の中で、災害時に広がるデマについて考えさせられました。98年前の関東大震災ではデマが原因となり朝鮮半島にルーツを持つ人たちや、日本人が殺されていきました。
 その中に千葉県で起こった福田村事件というものがあります。これは香川県の被差別部落地域から行商に来ていた一行が、自警団に殺されてしまった事件です。被害者は被差別部落出身ということで、死後も保障や謝罪がなされずに不当な扱いを受けてきました。
 現代のコロナ禍でも「県外ナンバー」を忌み嫌うなど、同じような事例が起こっています。いま日本の中で渦巻いているのは、違う場所から来た人たちを攻撃しても良いという空気です。もし、この中で情報が制限されるような災害が起こってしまったら、どうなるでしょうか。私はこの福田村事件や朝鮮人大量虐殺と同じような出来事が起こるように思えてなりません。それだけ、今も昔も人間は変わっていないのです。
 今日は日本キリスト教団部落解放センターによって提案されている、部落解放祈りの日です。部落解放と差別がなくなることを共に祈る日として守られています。聖書はガラテヤの信徒への手紙が与えられました。ここには神の救いに民族や出身地が関係ないことが書かれています。どの民族出身であっても、神の子として結ばれていきます。
 そのことが27節には「キリストを着ている」と書かれています。この表現は洗礼の例えとして語れています。当時の洗礼は全身で水に浸かっていました。ですので、洗礼を受けるためには服を脱ぐ必要がありました。当時の社会で衣服や身にまとっているものは、地位や立場、あるいは民族の象徴です。社会の中での立場やステータスを示すために用いられていました。
 しかし、洗礼を受けるためにはこの服を一度脱がないといけません。立場や身分、国籍など地上で得たものを捨てて、水による洗礼によって新たにされていきます。キリストを知らない者が、自分の出来事としてキリストを身に着けて、キリストと共に生きていく道が備えられていくのです。
私たちは他者を攻撃する差別心が顔をだす弱い人間です。でも、そんな私たちにも神様はキリストを着せてくれました。全ての差別を解消することは適わないかもしれませんが、それでも差別のない世界を目指して祈り、共に生きていくことはできます。神様はそのための道を示してくださいました。部落解放祈りの日にイエスにおいて一つになっていけることを覚えて、歩んでまいりましょう。


2021年7月4日(日)  説教題:「惜しまず」   聖書;コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1~15節

この聖書にはパウロからの献金依頼が書かれています。

私たちが献げていくのはただのお金ではありません。5節に「自分自身を献げたので、」と書かれていますように「献身」です。日本語の表現で「身を削る」ということが言われますが、それに近いのかもしれません。皆さんは身を削って献金を献げて、そして時間を削って教会に集まり、奉仕を献げてくださっています。全生活の中の一部を神様に献げています。お一人ひとりが献げている自分の時間、財産、そして自分自身。それぞれが神様に向けられたものです。献金とはただ単にお金を支払っているのではありません。自分の一部を神様に献げていく行為です。この神様に向けて自分を献げる献身。これが献金や奉仕の根底にあるものなのです。

なぜ私たちが献げていくのか。その大前提となることが9節には書かれています。ここで言われているのは「わたしたちの主イエス・キリストの恵み」です。人の世にキリストが与えられたことが、何物にも代えがたい恵みでした。このキリストの出来事、その恵みに応えていくことが、「献げる」ことです。キリストが私たちのために献身して十字架に架けられて、私たちは豊かな恵みを与えられました。この恵みに応えていくために、私たちはその身を削って献げていきます。献金として与えられた恵みの一部を、私たちは献げていくのです。

 私たちが献げている献金も、間違いなく献身です。しかしこの「身を献げている」ということを忘れてしまえば、それは献金ではなくなってしまいます。献金が義務や強制になってしまい、神様ではなく人間や建物に献げている、という意識になってしまうからです。そうなったときに人間は献金を別のものに見てしまいます。献金の金額を気にしてしまうのです。この金額の多い少ないが、大切なのではありません。12節にはそのことが書かれています。

 「進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」

 神様が見ておられるのは、金額の大きさではありません。私を救ってくれたキリストの恵みに応えようとする、その「進んで行う気持ち」を、神様は目を留めてくれています。金額が多くとも、少なくとも、神様はその全てを喜んで受け取ってくださいます。また、それが金銭という形で献げることができなくても、あなたが神様を信じてイエス様に繋がっているだけで、神様は喜んでくれています。何もできなくても、何も献げることができなくても、神様を信じて祈るその人は、自分の持っているものを献げておられます。金銭だけではない、大切なその身を、誰もがこうして献げています。神様と繋がることは、その身を委ねて献げていくことだからです。神様はあなたがこうして神様に繋がっていることを喜び、受け入れてくださるのです。