説教要約(6月)

2021年6月27日(日)  説教題:「神はどこに」   聖書;詩編14編1-7節
 1節では「神を知らぬ者」が「神などいない」と言っている姿が書かれていました。この「神を知らぬ者」という言葉は「ナーバール」というヘブライ語です。この「愚か者」を指す「ナーバール」が出てくるもう一つの箇所から、この一節をもう少し読み解いていきます。エレミヤ書512節です。
 「彼らは主を拒んで言う。「主は何もなさらない。我々に災いが臨むはずがない。剣も飢饉も起こりはしない。」
 ここでの「主を拒む」も同じ「ナーバール」が使われています。この二つを読んでみますと、この聖書が言っている「神を知らぬ者」が見えてきます。「愚か者」とは「神など存在しない」という無神論者の主張のようにも聞こえますが、それだけではありません。神様が存在していても、自分の生活には何一つ影響を及ぼさないと思っている人たちのことです。神を知らぬ者は心の中で「神は何もなされない。だから神はいない」と言っています。「神などいない」と言う者は、心の中で神様の力が自分の力に影響しないと考える人たちなのです。
 これは誰にでも起こりうることです。私たち人間はどこかで神様以外の力によって生きていけると考えてしまいます。経済力。学力。体力。そういったいろんな力を私たちは身に着けてきました。それらを自分の力で勝ち取ってきたと思ってしまえば、それは「神などいない」と思うこと同じです。全てが神様から与えられた力であって、自分の力なはじつはたいしたことありません。それを信じられない弱さを、人はどこかで抱えています。誰もがどこかで抱えている弱さを、そして愚かさを現わした一言なのです。
 私たちの身体に張り付いている地位や名誉。そしてこの世で手に入れた物質は、最後まで私たちのことを守ってくれません。国家に基づく権威や地位が偽物であることは、このコロナ禍によって炙り出されました。国は利権や選挙に夢中で、民衆を守ってくれません。本当に私たちを守って、そして避けどころになってくれるもの。私たちを生かして、養ってくれるのは神様です。その神様まで導いてくれるイエス様です。それを知る者たちに、神様はこのような言葉を与えてくれました。今日の御言葉の5節です。

 「神は従う人々の群れにいます。」
 神様は弱いながらもイエス様によってその貧しさが認められている、私たちの群れの中にいます。
 神様はここにいます。確かにここにいて、働いてくださる生ける神の存在が、私たちの近くにはあります。それぞれが心の内に神様を感じたとき。それは神様があなたに働いてくれているときです。この神様が守って、赦して、そして助けてくれます。


2021年6月20日(日)  説教題:「喜びます」   聖書;フィリピの信徒への手紙2章12-18節
パウロは思い通りにいかない投獄された状況の中で、神の御心を喜びました。
 今日の聖書にはまず従順の勧めが書かれています。この「従順」という言葉は「聴く」という意味が含まれています。考えることをやめて奴隷のように従うのではなく、神様の御心に聞き従うことの勧めです。御心に聞き従う者には「自分の救い」と「命の言葉」が与えられます。御心によって、救いと福音が備えられ、その喜びで満たされることをパウロは勧めたのです。
 パウロは神様に聞き従うことによって備えられる救いと、その喜びを書き記しました。それでは、私たちにとっての喜びと救いとはなんでしょうか。最初にも申し上げましたように、パウロがこれを書いているのは牢屋の中です。監禁されて自由を奪われています。喜びとは程遠い状態です。しかし、それでも神様に聞き従うことを「喜び」と書き記しました。思い通りにいかない状況であっても、神様に聞き従っているから、内側は光輝いている。その福音に満たされたことを、パウロは喜んでいます。そのように考えますと「自分の喜び」、「自分の救い」を考える視点が与えられます。
 私たちの喜びは、じつは私たちのものではありません。私たちの救いは、じつは私たちのものではありません。このように言いますと、変に聞こえるかもしれませんが、それには理由があります。それは喜びも救いも、私たちがコントロールできるものではないからです。つまり「私たちの喜び」とは「私たちの考える喜び」ではない。「私たちの救い」とは「私たちの考え付く救いではない」ということです。神様が聞き従う者に与えられるものは、もっと大きなものです。私たちの考えることのできる範囲の救いや喜びを、はるかに超えたところで神様は働いてくれています。喜びとは何か。救いとは何か。言葉を尽くしてそれを説明していくことはできるでしょう。しかし、この人間が口にすることが出来る言葉や考えを、はるかに超えた大きな喜びと救いで満たしてくれるのが神様の業です。それを与えられるために、私たちは神様の御心に聞き従っていきます。命の言葉が与えられていることを信じていきます。神様が備えてくれた輝きを信じていくのです。
 神様の御心にはそんな喜びと救いが秘められています。現在は特に思い通りにいかない世の中ですが、神様の御心を信じてまいりましょう。


2021年6月13日(日)  説教題:「すべての」   聖書;使徒言行録17章22-34節
 今日の聖書にはアテネに滞在していたパウロの語った言葉が書かれています。アテネには3000以上の宗教施設があり、多くの神々が礼拝されていました。その中でパウロは「知られざる神へ」と書かれた祭壇を見つけます。まだ名前を知らない神にまで祭壇が用意されていたのです。
 これを見たパウロは人々の不安を見抜きます。アテネの人たちは多くの礼拝関連の物を作ったのですが、今度はこのような不安が出てきます。「私たちがまだ知らない神様がいたらどうしよう…。」その知らない神を礼拝していないこと思うと、不安で仕方がありませんでした。この不安は満たされることがありません。どれだけ作っても、どれだけ祈っても「まだ足りないかもしれない」と思い不安は続いていきます。アテネの人たちは神を礼拝しても、安心や喜びを感じていなかったのです。
 アテネの人に限らず、人間は「神」という存在を求めていきます。これは今を生きる私たちも同じです。「神を求めたい」という、その気持ちが強くなればなるほど、求めやすい神に手を出す誘惑に負けてしまいます。
 神様は見えない存在です。絵に描くこともできない。銅像で造ることもできない。ある意味では不安定な存在です。そんな神様を信じることは、簡単ではありません。ですが、私たちは生きている中で、いろんな時に神様の存在を感じることができます。見えなくて聞こえない。だから、感じるのです。
 それは教会の礼拝に来たとき。人生の中で道が示されたとき。困難から救われたとき。あるいは、何気ない日常のひと時の中で。いろんな出来事を通して、私たちは神様の存在に気づかされます。見えない神様を感じさせられます。これまで心の中にいなかった神様の存在を感じたとき。その時に神様を信じる者へと変えられていきます。または、既に信じていたとしても、改めて、神様を感じることを通して、神様を近くに感じていきます。見えなくて聞こえない神様の存在を感じることができる瞬間が、私たちには用意されているのです。
 そうなったときに、神様は遠い存在ではなくなります。神様は不思議な存在です。見える像で造られた神様よりも、「神は見えない」と気付いたときにこそ、私たちは神様を近くに感じることができます。目の前にある見える神よりも、そこには見えない神が近くにいてくれることを信じられるようになるからです。私たちの信じる神様はどこか遠くにいる「知られざる神」ではありません。愛を持って与えてくれている、私たちが知っている神様です。この神を礼拝する喜びが与えられているのです。
2021年6月6日(日)  説教題:「証印を押された」   聖書;エフェソの信徒への手紙1章3-14節
 この御言葉には「約束された聖霊で証印を押されたのです。」と書かれています。「証印」とは会計や行政の手続きなどで、それが確かなものであることを証明するものです。聖霊がその役割を果たしていると、聖書は教えています。これは何を示しているのでしょうか。
 聖書は創造よりも前から神様が私たちを愛してくれたことを記しています。神様はただ一方的に私たちを愛してくれました。なんの理由もなくただそこに世界があるように、なんの理由もなくただ人間を愛してくれたのです。その愛の業の結実として与えられたのがイエス様です。この救い主の贖いの業によって、人が赦されました。この赦しを伝えている福音が与えられました。世界が出来る前から御心によって決められ、そして救い主によって完成した救いです。
 キリストを信じる者には、この赦しを自覚していきる道が与えられます。「私も赦されている。」、「私も救われている。」これを知って歩む、救いの道です。この救いをもたらす福音を聞いて信じる者へと変えられたときに、私たちはキリスト者へと変えられます。そして与えられるのが聖霊です。この聖霊はキリストの代わりとして与えられたものです。イエス様が地上にはもういなかったとしても、聖霊によってイエス様が一緒にいてくれます。この聖霊が与えられていることが、神様からの証印です。この証印によって証明されているのは、なんでしょう。
 それは「神様に愛されている人である」という証明です。神様はその世界が出来る前から人を愛して、救い主によって救いの業を示してくれました。それが確かなものとして、聖霊は証明してくれています。神様からのお墨付きと言ってもいいかもしれません。神様が聖霊によって「確かにあなたのことを愛しているよ」と、お墨付きをくれました。
 キリスト者に与えられている聖霊には、いろんな解釈があります。中でもシンプルで確かに聖書に書かれているのは、今日の御言葉に書かれていることです。「神様があなたをずっと愛している」。聖霊はこのお墨付きを示す証印なのです。
 これはずっと消えない証印です。いろんなものがなくなったときに、最後に残っているのが「私は神様に愛されている一人である」という証明です。これは世界が創られる前から決まっていました。そして、これからもずっと続いていくのです。