説教要約(5月)

2021年5月30日(日)  説教題:「思いのままに」   聖書;ヨハネによる福音書3章1-15節
 ヨハネによる福音書では「イエスと愚かな質問者」という構図が多用されます。イエス様に「分からない人」が質問しに行くという場面です。この聖書箇所では、議員も務め高等教育を受けているはずのニコデモが、分からない人として登場しています。
 ニコデモはイエス様を信じていることを告白したのですが、その返事はその理解を褒めるものではありませんでした。「新しく生まれなければ神の国を見ることはできない。」と言われてしまいます。新しくされることは聖霊が降ったことによって、人間は初めて経験しました。ですので、このときはまだそれが分からなくて当然です。ニコデモはイエス様との話を通して、分からない一人になり、今まで築いてきたものが打ち砕かれました。いわば丸裸にされてしまったのです。
 私たちもニコデモと同じく分からない一人です。知識や財産などの力をどれだけ持っていようと、イエス様の前に私たちは丸裸同然。何も持っていません。しかし、御言葉に聞くときにはそこから始まります。私たちが積み上げてきたもの、その価値観を越えた先にイエス様はおられます。丸腰となり、じつは何も持っていないことに気付き、神様の御言葉に聞くことができるのです。分からないことを認めたときに、聞くことが始まります。「分からない人」は、それと同時に「聞く人」でもあるのです。
 分からない一人である私たちのために、イエス様は聖霊を与える約束をしてくれました。その聖霊の風は「思いのままに吹く」とイエス様は言っています。ここでの風はもちろん「霊」です。霊の風は神様の思いのままに、導くままに、吹いていきます。それは知識のままに、地位や名誉のままに、導かれるのではありません。神様の「思いのままに」です。神様の思いのままに導かれるのです。人間にはその行先が分かりません。私たちの思いのままではなく、神様の思いのままに吹いていくからです。
 私たちが分からない者であること、神様の前には知識も地位も、持つことが出来ないことを、神様は知っておられます。そのうえでなお、私たちを導き神様の思いのままに備えられるのです。
 風は思いのままに吹き、私たちを導いていきます。人は、その思いのままに、風に吹かれていくのです。風に吹かれ、委ねていけたなら。導かれるままに、生きていけたなら。どれほど素晴らしいことでしょうか。出来るかどうかは、分かりません。しかし、神様はそんな分からない人を、導いて下さいます。神様の思いのままに導かれていくのです。


2021年5月23日(日)  説教題:「故郷の言葉」   聖書;使徒言行録2章1-11節
 ペンテコステを伝える聖書の箇所が与えられました。聖霊は「激しい風」と「炎のような舌」と共にやってきました。炎は神様の力が働いていることを現わしています。その力は人を新しくします。炎は舌と共にやってきました。この舌は「言葉」を意味しています。炎によって弟子たちは新しくされました。それは霊によって語る者です。ペンテコステの出来事によって弟子たちに降った聖霊は、彼らに新しい言葉を、そして語る力を与えたのです。
 そんな弟子たちが語るのを聞いた人たちは驚きました。なぜなら「他の国々の言葉」、「めいめいが生まれた故郷の言葉」で語り出したからです。当時のエルサレムには祭りのために「あらゆる国から帰ってきた」ユダヤ人が集まっていました。多様な地方で生まれ育った人たちがいたのですが、人々はそれぞれが生まれた故郷の言葉を聞きました。
 なぜ弟子たちはそれだけ多様な人たちの故郷の言葉を話せたのでしょう。私たちが離れた土地で、ふとしたときに故郷の言葉を聞くとき。懐かしかったり嬉しかったり、あるいは故郷を想って寂しかったりと、いろんな感情が心の中に現れます。それは心が動かされるからです。これまで意識していなかった、でも私たちの中に確実あるものが言葉によって触れることで、心が動かされていきます。この「私たちの中に確実にあるもの」。これがポイントです。出身地の方言であれば、それは地元の思い出や幼少期の記憶などでありましょう。それによって心が動かされていきます。
 しかし、それだけではありません。ここでの出来事は、単に懐かしさや寂しさといった、思い出に留まるものではないからです。これに似ている「私たちの中に確実にあるもの」が、キリスト者にはあります。それはイエス様によって与えられた聖霊です。それぞれの中にイエス様の代わりとして聖霊が与えられています。私たちが心動くときは、聖霊によって与えられた言葉が、それぞれの聖霊に働きかけていくからです。だからこそ聖書は「わたしたちの本国は天にあります。」と語っています。私たちが心動かされる言葉は、故郷の言葉です。その故郷は聖霊を与えたイエス様のいる天にあります。聖霊によって語られた言葉が、私たちに与えられた聖霊に触れることによって、故郷の言葉を聞いた時のように心が動いていくのです。
 私たちは聖霊によって心動かされていきます。そんな故郷の言葉は、イエス様が「私の救い主」だと教えてくれました。聖霊の風はこれからも吹いていきます。炎はこれからも新しくし続けていきます。その度に私たちは故郷の言葉によって希望を与えられるのです。

2021年5月16日(日)  説教題:「天に昇り」   聖書;ルカによる福音書24章44-53節
 キリストの昇天の出来事が記されています。使徒言行録によりますと、これはイエス様が私たちの目から見えなくなった出来事です。そのための最後の準備をイエス様はしてくれました。
 イエス様が見えなくなった後、信じられるのは御言葉だと書かれています。それを「悟る」ために心が開かれました。「悟る」ことは「自分のことであると理解する」ことだと思います。聖書に証しされている救いは、他の誰かに訪れる他人事ではありません。いまこうして御言葉が備えられている私たちに与えられる自分事です。それはイエス様が私の救い主だと気づくことから始まります。救い主は私たちのために与えられ、私たちのために死に、そして天に昇りました。それを悟るために、イエス様は御言葉の福音を残してくれたのです。
 どうすれば聖書を悟り、これを自分の事として受け入れることが適うのでしょう。そのために必要なのは「心の目を開いて」もらうことです。今日の御言葉では「心の目を開いて」と書かれていますが、原文を直訳しますと「心を開いて」となっています。心が閉じたままでは、イエス様が自分の救い主だと理解して受け入れることは適いません。開くことが必要です。ですが、私たち人間は心が頑なな者たちです。聖書にも書かれていますように、神様の言葉を受け入れずに忘れ、復活のイエス様を信じられない歩みを繰り返してきました。そんな人間が努力や根性で心を開くことはできません。信じようとする人間の意志は、それほど強くはないからです。
 そんな私たちが心を開くために、イエス様が約束して与えてくれたものがあります。それが49節に書かれている「父が約束されたもの」、「高い所からの力」。つまり聖霊で
す。イエス様は聖霊を与える約束をしてから昇天しました。この聖霊は目に見えませんが、イエス様の代わりに私たちと一緒にいてくれます。この聖霊が人間に働くことを通して、ここでの弟子たちのように心が開いて、イエス様を信じることが適います。聖霊によって心が開かれ、聖書を悟り、私たちは「私の救い主」として見えないキリストを受け入れていくことが適うのです。
 これを私たちに示すために、イエス様は天に昇る必要がありました。見えなくても、聖霊を通してイエス様は一緒にいます。聞こえなくても、聖霊の導きによって福音を私たちに与え続けてくれています。キリストは天に昇り、今もこうして私たちの救い主としてあり続けてくださっているのです。


2021年5月9日(日)  説教題:「願う前から」   聖書; マタイによる福音書6章5-15節
 ここではイエス様が祈ることについて語っています。祈りとは、神様と人間とが繋がっていくためにあります。場所や人数は問題ではなく、隠れたところにおられる神様に向けて祈ることで、そこが「奥まった自分の部屋」になります。そして私たちが神様に心を神様に向けるときに、確かに私たちは神様と繋がっています。
 そうは言っても、私たちには祈れない時もあります。どうあっても心を神様に向けられない。イエス様はそんな人間の弱さを知ってくれています。だから、この主の祈りを教えてくれました。私たちが言葉を紡いでいけないときには、この主の祈りが用意されています。神様に心を向けるための言葉が、イエス様から与えられています。私たちの言葉が出てこないとき、その代わりにイエス様の残してくれた言葉がある。だから、どんな時でも祈っていけるのです。
 私たちは神様と繋がるために祈っていきます。これは私たちにとっての励ましであり慰めです。私たちは教会や仲間で苦しい状況にある人たちがいれば、その人たちを思って祈ります。あるいはその人たちと一緒に祈ります。祈り、祈られて生きていく関係性です。この祈ってくれる人が、そして祈る人が与えられていることは大きな幸いです。これによって大きく励まされていくからです。
 大きな励ましや慰めになっていくのですが、残念なことに、それによって状況が魔法のように改善するとは限りません。祈ったから全てが上手くいくわけではありません。ですが、祈りは決して無駄なことではありません。何も改善しなくても、何も得られなくても、私たちは神様と繋がっている。そして祈ってくれている同じ神様を信じてくれている人がいる。これを知ることができます。祈る人のその先には神様がいます。祈り合う人たちの真ん中にはイエス様がいます。私たちは祈ることを通して、神様とそしてイエス様と繋がっていくのです。
 そして、その繋がりを信じるからこそ、私たちは祈りの最後に「アーメン」というのです。私たちは何もできない。私たちは何も解決できない。でも、この「アーメン」と口にして告白することによって、神様に託していくことができます。自分の思いを、そして誰かの思いを、神様に一緒に委ねるのです。人の力ではなく神様の力に、人の言葉ではなく神様の言葉に、全てを委ねていきます。全てを神様に委ねて、祈りを献げる。この祈りの最後に与えられたアーメンによって、私たちの祈りは神様に向かっていくのです


2021年5月2日(日)  説教題:「通る道」   聖書; ヨハネによる福音書14章1-11節
 この箇所は「心を騒がせるな」という言葉から始まっています。この「騒ぐ」という言葉には「分裂」という意味があります。そして騒がないために「わたしを信じなさい」と言われています。信じることは身を委ねることです。ここで書かれている「心を騒がせるな」という言葉は「心を騒がせる必要はないよ」という意味にとることもできます。人間の心はどうしたって騒ぎ、分裂してしまいそうになります。ですが、騒ぐ必要はありません。騒いでいたとしても、委ねていく生き方が私たちには与えられています。委ねる生き方は私たちがイエス様から離れないで、イエス様のもとにとどまる歩みです。そしてイエス様が見捨てないで私たちの傍にとどまってくれる歩みです。私たちがイエス様にとどまって、イエス様も私たちのところにとどまってくれる。人間とイエス様がお互いに近くにいる、そんなとどまり合う関係です。そのとどまるところは、たくさんあります。だから、私たちは心を騒がせる必要はないのです。
 そしてイエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と語りました。この真理とは神様の愛の真理です。神様がその独り子を救い主として与えられたほどに、私たちを愛してくれていました。それによって私たちは生かされています。だから真理は私たちの命でもあります。イエス様にとどまることによって、私たちは神様の真理を知って、その命に生かされていきます。そしてこの真理と命に身を委ねることで、私たちはイエス様から分裂してしまうことなく、生きていくことが適います。
 頭では理解しても、心が騒ぎ続ける私たちです。ですが、大切なのは、私たちがイエス様にとどまり続けることです。悩み苦しむ私の傍らに、神様の与えてくれたイエス様が一緒にいてくれる歩みです。共に苦しみ。共に喜ぶ。このイエス様が共にいてくれる道です。私たちがイエスから分裂しそうになっても、神様の真理と命は確実にイエス様という道へと引き戻してくれます。この真理と命に身を委ねていく。私たちに与えられている道は、その道しかないのです。
 イエス様という道を通って、私たちはこの真理と命を知ることが与えられました。ここにいる全ての人が、そしてこれを聞く全ての人が、イエス様という道を通ってここまで来ています。それはイエス様という道をそれぞれが通ってきたから、適っています。イエスという真理と命に至る道に、私たちは出会いました。そして出会ってから今に至るまで、その道はイエス様が傍で一緒に歩んでくれています。イエス様は全ての人が通る道です。そして、これからもずっと通っていく道です。真理と命を受けて、これからもこの道を歩んでいきましょう。