説教要約(4月)

2021年4月25日(日)  説教題:「まさるものがある」   聖書; マタイによる福音書12章38-42節



2021年4月18日(日)  説教題:「まさるものがある」   聖書; マタイによる福音書12章38-42節

聖書は「見えないものを信じなさい」と教えてきました。今日の聖書でも見えないものを信じられない人たちが、イエス様にしるしを求めています。イエス様はしるしを求める律法学者とファリサイ派の人たちに、「よこしまな時代の者たち」を言われました。これは旧約聖書で神様が偶像礼拝の罪を暴かれるときに使っていたことです。偶像とは神々の像を作って信仰の対象とすることです。主なる神様はそれを禁止していました。ですが、人々は見える形での神を求めます。その方が信じやすく、また分かりやすいご利益があったからです。しるしを求めることは、偶像礼拝とよく似ていました。見える形で「神の子と証明してみろ」というよこしまな思惑を、イエス様は見抜かれたのです。

 ここで言われているのはイエス様に敵対する人たちです。ですが、今を生きる私たちも見えないものには不安になります。恵み、御心、救い。どれも目に見えなく、聞くこともできません。それらを信じられない弱さを人は持っています。頭では「きっと神様がなんとかしてくれるから大丈夫」と分かっていても、それを心から人間が信じるのは簡単ではありません。いつの時代に生きていたとしても、私たち人間は見えるしるしを求めてしまう。そんな弱い存在なのです。だからこそ、ここで言われているヨナや南の女王のように、神様によって信じられる者へと変えていただくことが適います。信じるということは、自分の力や鍛錬でどうにかなるものではありません。神様に変えていただくことでしか、成しえないことです。神様によって変えてもらうことで、見ないで信じる者に私たちは変えられていくのです。

 そんな私たちに神様は何よりもまさるしるしを与えてくださいました。それが40節に書かれていますように、イエス様が三日後に果たされた復活です。私たちにも復活の希望が与えられていることを教えています。人間が死で全て終わってしまうのではなく、再び会えることをイエス様は教えてくださいました。死からの勝利、死からの解放。この大きな喜びが約束されています。

これは、目に見える形でのメリットではありません。権力や繁栄、財産といった現代社会で役立つようなものには感じられません。ですが、これが何よりもまさる「しるし」です。イエス様が復活して今も生きて働いてくれている。そして私たちにも復活の希望が示されている。この救いの約束が、ヨナよりも、そしてソロモンよりもまさるしるしなのです。


2021年4月11日(日)  説教題:「生きた証」   聖書; 使徒言行録13章26-31節
 今日の聖書に書かれているのは、パウロの最初の説教です。そこでパウロはイスラエルの歴史を語りました。そこに書かれているのは、人間が神様から離れても、神様は赦し続けてくれていたことです。その集大成として救い主、キリストが与えられました。キリストは十字架で死んで復活します。これが福音である「救いの言葉」です。イエス様に与えられた救いの言葉を伝えるために、パウロは語っていきました。
 この救いの言葉は現代を生きる私たちにも届けられています。その証は、死んでしまっている過去の遺物ではありません。これは生きた証です。死から復活された方が、今も働いてくれている。その生きた証なのです。
 私たちにもそれぞれの人生があります。どのような時間、どのような内容の生き方であったとしても、それぞれに与えられた道を歩んでいます。歩まれてきた道も違えば、考え方、思っていること、信仰のありかたも、違ったものがあることでありましょう。一人ひとりに、今までの与えられた人生を生きてきました。そんな私たちはバラバラの人間ですが、その中でこうして集うことを赦されました。そこで私たちも、復活のキリストと出会っています。救いの言葉は今やパウロや弟子達だけではなく、ユダヤ人やギリシア人だけでもなく。今を生きる私たちにまで与えられています。私たちもイエス様と出会っているのです。それは目に見える形ではなかったことでしょう。ですが生きた証しによって、復活のイエス様はその姿を示してくださっています。私たちに伝えられた、この生きた証しによって、私たちにもイエス様と出会う機会が与えられているのです。
 私たちも救いの言葉を与えられて、こうして生きています。その言葉によって救われたことが、それぞれの生きた証しです。救いの言葉によってイエスに励まされ、慰められ、生きています。救いの言葉へと至る歴史は、それぞれが違ったものを備えられたことでありましょう。
 その、救いに至るまでの歴史が、イエス様の生きた証しを知って歩む私たちの、生きている証しです。命を活かして下さる方によって生きる、この命の証明が、一人ひとりの生きた証しが、与えられているのです。
 イエス様の「生きた証し」、救われたパウロの「生きた証し」、そして、私たちが救われて生きている、この「命が生きた証し」。それぞれが、与えられています。それぞれの「救いの言葉によって生きた証し」に励まされ、慰められながら、この与えられました道を歩んでまいりましょう


2021年4月4日(日)  説教題:「わたしに会うであろう」   聖書; マタイによる福音書28章1-10節
 キリストの蘇りを伝える聖書には二つのことが書かれています。一つ目は墓が空であったこと。二つ目はイエス様が生きた方として、人間に出会ったことです。これは「キリストは墓におられず、生きた存在として私たちに出会ってくれる」ことを示しています。
 復活の朝、二人の女性が墓を見に行きました。この「見る」という言葉は「じっと見つめる」という意味があり、愛する人の死を嘆き悲しんでいる様子を現わしています。墓は死の支配がある場所です。女性たちも逃れようのない死の悲しみに支配されています。そこで天使たちが現れ、石の蓋がどかされました。そこで女性たちは空の墓を見せられます。イエス様の墓は空っぽです。天使たちはもう死の支配がここにはないことを見せてくれました。遺体の置いてあった場所を見せることで、そこに悲しみがないことを、空の墓は人間に伝えているのです。
 そこで天使たちの言葉を聞き、恐れていた女性たちはイエス様の復活を伝える者へと変えられました。そしてイエス様に出会います。復活のキリストが現れるのは、信じて変えられた者の前です。良い知らせを聞いて、それを伝える人の前にイエス様は現れます。そしてイエス様は「おはよう」と言われました。これは「喜べ」という意味です。キリストの復活、死からの勝利。その全ては復活のキリストと出会うことで示されることです。これをキリストは喜べと言ってくれているのです。
 女性たちは復活のキリストと出会いました。「わたしと会うことになる」とのイエス様の言葉のとおり、弟子たちもキリストと再び出会っていきます。そしてこの御言葉を聞く私たちもまた、復活のキリストと出会いました。ここに集められた人、そしてそれの適わなかった人。その全てと復活の主は出会ってくださいます。これは自分たちの努力や力によって出会っていくのではありません。ただ神様がキリストと出会うように恵みを持って臨んでくれたから、出会うのです。
 それはこれから、何度でも続いていきます。私たちが出会っていくキリストは、死んで墓に眠っている過去のキリストではありません。死んだ人を美化してしまっている、そんなお守りのようなものではありません。蘇って、今も働いてくれているキリストです。私たちは御言葉や礼拝、そして祈りを通して、これからもキリストに出会っていきます。いまここにも、確実に復活のキリストがいて働いてくれているからです。