説教要約(3月)

2021年3月28日(日)  説教題:「ロバに乗って」  聖書; マタイによる福音書28章1-11節
 イエス様はロバに乗ってエルサレムに入城されました。人々は救い主が来ると聞いて期待して出迎えます。ローマの支配から救ってくれる解放者を求めていたからです。しかし、やってきた救い主は期待した姿ではありませんでした。馬ではなくロバに乗ってやってきたからです。
 当時、王や兵隊が乗るのは馬でした。足も速く、人よりも高い目線になることができる馬は重宝されていました。それに対してロバは、安価な動物として家庭でも飼育されています。馬よりも弱く、みすぼらしいのがロバです。人々はそんなイエス様を見て「どういう人だ」と疑うことしかできなかったのです。これには、この当時の状況も関係しています。イエス様が入られたのはオリーブ山のある東側です。西側では別の行進が行われていました。それはローマ軍によるものです。ユダヤ地域を支配していた総督は祭りの時期になると、戦車や軍馬を伴ってエルサレムにやってきます。ここで強大な軍事力を見せつけることで、ユダヤ人の反乱を抑えてきました。
 エルサレムの西と東。地理的にも、意味も反対の人たちが同じ時期に入城してきました。馬に乗ってきた人と、ロバに乗って来た人。私たちはどちらを頼り、信じていくのでしょうか。私たちの信じるイエス様は、馬ではなくロバにやってきました。それは救いが強い者から与えられるのではない、というメッセージです。ローマの行進のようなこの世の力では、救われないことを示してくれました。私たちが信じるのは強さではありません。弱さです。だからこそイエス様はローマ軍の反対側からロバに乗って、人々の前に現れます。その弱い姿を人々の目に刻み込み、この弱さこそが救いとなることを示したのです。
 イエス様の弱さは十字架がその全てを物語っています。当時使われていた十字架は、いま教会に飾ってあるような立派で綺麗な作りではありません。太い木を二つ組み合わせた、粗削りで貧相なものでした。そこに架けられて死んでいくことは惨めで、痛くて、この世の弱さの全てを現わしたような出来事でした。ですが、この弱さを曝け出す十字架が、私たちの救いとなりました。これによって、イエス様が私たちの罪を贖ってくれます。私たち人間の弱さを全て背負ってくれます。そして、神様と私たちをずっと繋ぎとめてくれました。それが私たちの救いです。この世の強さによって吹き飛んでしまうような人間ではなく、神様に頼って生きていくことができます。ロバに示される、そして十字架に示される弱さによって生きることを、キリストは私たちに伝えてくれたのです。

2021年3月21日(日)  説教題:「       」  聖書; マタイによる福音書14章22-36節





2021年3月14日(日)  説教題:「       」  聖書; マタイによる福音書14章22-36節





2021年3月7日(日)  説教題:「あなたは神の子です」  聖書; マタイによる福音書14章22-36節

イエス様は湖の上を歩きました。ここでの「湖」は「海」と書かれています。旧約聖書で「海」は恐怖や混沌の象徴でした。そんな海で波風に戸惑う弟子たちのもとへイエス様は向かいました。そしてペトロはイエス様の救い主としての力を信じ、「自分も歩かせてください」とお願いしました。その思いは適ってペトロも水の上を歩くのですが、強風で不安になり、沈みかけてしまいます。イエス様は手を伸ばして捕まえてくれました。それによってペトロは助けられたのです。

この湖での出来事は、現代を生きる私たちにも通じるものがあります。私たちも不安や恐怖、混沌として海のような社会を漂っています。コロナウイルス感染に左右される状況という世界的に大きな事柄もありますし、介護や仕事、家族や友人との問題などの身の回りにある出来事まで様々です。また、これは自分の内側にもあるものです。心の内が混沌としているとき、暗闇に落ちてしまいそうなとき、自分の中の海に沈みかけてしまいます。海は私たちの外側と内側にあります。その海の中で私たちは、小さな船で漂っているのです。しかし、その水の上をイエス様は歩いてきてくれます。キリストは小さい舟で困っている私たちのもとに訪れて声をかけてくれます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。救い主が必要な私たちに、救い主は困難なものの上を歩いて来てくれるのです。

 しかし、それだけ大きな救いであったとしても、私たちには弱さがあります。まるでペトロのように順調にイエス様を信じて歩いていても、風が吹けば不安になりまた海へと沈んでしまいます。そんなときに手を伸ばして捕まえてくれるのがイエス様です。私たちのこれからの歩みでも、年齢や立場、状況に関わらず、暗い中へと沈みかけてしまうときがあります。そんなときに声をかけて頼ることができるのがイエス様です。イエス様は私たちに手を伸ばして捕まえてくれます。「主よ。助けてください」と叫ぶ人間を、キリストは捨てておかれません。そのために、イエス様は水の上を歩いていきました。弟子たちを助けるためだけではなく、今も海の上を生きていく私たちのために、今もキリストは水の上を歩いておられるのです。

声をかけられて信じ、沈みかけては捕まえられる。そんな救いの出来事が私たちにはあります。そして救われた人間はその度に気付かされていきます。「本当に、あなたは神の子だ。」と。私たちは救われた時に、そして救われる度に、キリストが神の子であると気づかされていくのです。