説教要約(2月)

2021年2月28日(日)  説教題:「あなたは神の子です」  聖書; マタイによる福音書14章22-36節
 イエス様は湖の上を歩きました。ここでの「湖」は「海」と書かれています。旧約聖書で「海」は恐怖や混沌の象徴でした。そんな海で波風に戸惑う弟子たちのもとへイエス様は向かいました。そしてペトロはイエス様の救い主としての力を信じ、「自分も歩かせてください」とお願いしました。その思いは適ってペトロも水の上を歩くのですが、強風で不安になり、沈みかけてしまいます。イエス様は手を伸ばして捕まえてくれました。それによってペトロは助けられたのです。
 この湖での出来事は、現代を生きる私たちにも通じるものがあります。私たちも不安や恐怖、混沌として海のような社会を漂っています。コロナウイルス感染に左右される状況という世界的に大きな事柄もありますし、介護や仕事、家族や友人との問題などの身の回りにある出来事まで様々です。また、これは自分の内側にもあるものです。心の内が混沌としているとき、暗闇に落ちてしまいそうなとき、自分の中の海に沈みかけてしまいます。海は私たちの外側と内側にあります。その海の中で私たちは、小さな船で漂っているのです。しかし、その水の上をイエス様は歩いてきてくれます。キリストは小さい舟で困っている私たちのもとに訪れて声をかけてくれます。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と。救い主が必要な私たちに、救い主は困難なものの上を歩いて来てくれるのです。
 しかし、それだけ大きな救いであったとしても、私たちには弱さがあります。まるでペトロのように順調にイエス様を信じて歩いていても、風が吹けば不安になりまた海へと沈んでしまいます。そんなときに手を伸ばして捕まえてくれるのがイエス様です。私たちのこれからの歩みでも、年齢や立場、状況に関わらず、暗い中へと沈みかけてしまうときがあります。そんなときに声をかけて頼ることができるのがイエス様です。イエス様は私たちに手を伸ばして捕まえてくれます。「主よ。助けてください」と叫ぶ人間を、キリストは捨てておかれません。そのために、イエス様は水の上を歩いていきました。弟子たちを助けるためだけではなく、今も海の上を生きていく私たちのために、今もキリストは水の上を歩いておられるのです。
声をかけられて信じ、沈みかけては捕まえられる。そんな救いの出来事が私たちにはあります。そして救われた人間はその度に気付かされていきます。「本当に、あなたは神の子だ。」と。私たちは救われた時に、そして救われる度に、キリストが神の子であると気づかされていくので


2020年2月21日(日)  説教題:「 憐れんでください」  聖書; マタイによる福音書15章21-31節

イエス様は人間と同じように苦しみ、同じように死んでいきました。十字架は神であるキリストが人間と同じものになったことを示しています。受難節になり「カナンの女の信仰」と題された御言葉が与えられました。ここにもイエス様がどのように「人間と同じ者になったのか」について書かれています。

 イエス様は外国人の土地へと向かいました。そこでカナン人の女性に出会います。この人は娘のために助けを求めてきました。しかしイエス様は沈黙しています。そして二度断りました。それはこの女性が外国人であったからです。当時のユダヤ社会では外国人と交わることは、良くないこととされていました。イエス様もユダヤ社会で生きてきましたので、この女性をすぐに助けることを躊躇していたのではないかと私は思います。それを変えたのがこの女性の信仰です。パン屑ほどの恵みでも助けることが出来るとイエス様を固く信じていました。その信仰に動かされ、娘の命は助けられたのです。

 イエス様は迷っていました。「外国人を救っても良いものか」と迷っていました。人間イエスの中にも外国人とユダヤ人とを分け、差別する気持ちがあったのだと私は思います。キリストにそんなことを言うのは失礼なことだと思われるかもしれません。私はキリスト教批判やイエス個人を非難したいわけではありません。これはイエス様が人間の持っている差別心までをも負ってくれたことを示しているからです。人間と同じ者になったイエス様は生まれてから死ぬまで、体に覚える全ての苦しみを経験してくれました。それと同じように人間の心に必ずある差別心を、イエス様も負ってくれました。その罪をもキリストは背負ってくれたのです。

当時のユダヤ社会から今の日本社会に至るまで、人間の心に巣くっている差別心は変わっていません。どれだけ文明が発達してもなくなっていきません。民族だけではなく性差や出身地など、様々な場面で人は差別を繰り返していきます。これは人間が絶対に振り払えないものだと思います。私もあります。誰もがあります。そしてキリストもそんな人間の感情を持ってくださいました。イエス様が「人間と同じ者になった」のは、肉体だけではありません。そういった心の奥底までしっかりと人間と同じ者になってくれたのです。そのために神様はこの女性との出会いを、イエス様にお与えになりました。そして「神を信じるのに民族は関係ない」とイエス様自身も気付かされます。この女性はマタイによる福音書で初めて癒された外国人女性です。この出来事からイエス様の救いは特定の民族に限定されたものだけではなく、全ての人たちへと広がっていきました。


2020年2月14日(日)   説教題:「集まるところ」  聖書; マタイによる福音書18章18-20節

          (創立記念礼拝)

 湖山教会は集まることを通して誕生し、変化しながら成長させられてきた共同体です。多くの教会と同じく、湖山教会にも人が集められて誕生しました。そして時代と共に変化していきます。30周年記念誌と70周年記念誌を比べてみますと、変化してきたことがよく分かります。教会の販売する物品から、集まる若者たちの特徴など、時代の求めに応じて教会は変わってきました。それでは、いまはどんな時代なのでしょうか。「集まる」ということが困難な時代になっています。昨年の創立記念礼拝でも「集まるところ」と題してお話をさせていただきました。ですが、昨年と今とでは状況が違います。「集まる」という言葉は、危険な意味を持つようになりました。私たちはそんな現状を生きているのです。
 この「集まる」ということが困難な時代にあって、私たちはまた一つ変わらなければならない時代に来ているのかもしれません。具体的に何を変えていくのかはまだ分かりません。ですが「時代が変わって教会も変わってきたのだ。」という歴史を知ることは、私たちの助けになっていきます。まずは「変わってきた」という過去をしることから始まっていくのです。
 そして「変わってきた」ことを知ると「変わらなかった」ものが見えてきます。それは変えてはいけないものです。表面が変わっても私たちには変わらなかった大切なものがあります。それはそれぞれの記念誌の最初に書かれているもの、神様から与えられた御言葉です。御言葉はどれも私たちになくてはならないものですが、やはり今日の聖書の言葉は、私たちに与えられた代えがたいものでありましょう。いまは「集まる」ことが困難な時代です。ですが、それぞれが祈りを通して心を集めるとき、そこには必ずイエス様が一緒にいてくれます。そして必要なものは必ず与えられていきます。聖書を通してキリストと出会い、そして赦されて新しくされる。そんなキリスト者としての営みは、御言葉から与えられた、変えてはいけないものです。この教会が変わっていくとき。それは必ずやってきます。ですが、この御言葉によって砂地に育まれてきた営みだけは、変えてはいけないものなのです。
 71周年を迎える湖山教会は、どうなっていくのでしょうか。それはまだ、具体的には分かりません。ですが、神様がきっと良いものを与えてくださるはずです。「集まる」ことを通して誕生し、変化しながら育てられてきました。変わったことと、変わらなかったことがあります。これを覚え続け、新たな71周年の時を歩んでまいりましょう。


2020年2月7日(日)   説教題:「蒔かれた土地」  聖書; マタイによる福音書13章10-17節

    イエス様のたとえ話は分かりにくいものばかりでした。当時の群衆はそれが理解できません。弟子たちはイエス様に「なぜたとえ話をするの
   ですか?」と質問をしました。今日の箇所ではそれが説明されています。

 イエス様は「天の国の秘密」について語られました。

   ここでの「天の国」とは死後の世界ではなく、神様の支配の中を生きる道のことを意味しています。神様の支配は、一切を神様に委ねること
   です。自分の良いところも、良くない罪人であることも含めて、その全てを神様に任せることができます。それが人間への救いとなるのです。
   そんな「天の国」が「秘密」であると言われています。神様の救いはまだ、人間には秘密にされています。その真相を知っているのは神様だけ
   です。キリストが生まれ、十字架で死んでいった出来事は、秘密にされている救いの始まりです。最初はたとえ話が理解できなかった人たちも
   、救いが完成する時にキリストの言葉が実現したことを知ります。今は分からなくても、いつかはその救いを知ることができるので、イエス様
   はたとえ話を話されていったのです。

   この御言葉は「種を蒔く人のたとえ」の後に書かれています。イエス様はなぜここで、説明をされたのでしょうか。それは天の国の秘密が種
   に似ているからだと私は思います。湖山教会旧会堂の前に、ちゅうりっぷが植えられています。ちゅうりっぷが球根のうちは、何色の花になる
   か、そしてどんな形になるのか、まだ私たちは知りません。ですが、一つだけ知っていることがあります。それはきっと素敵な花が咲くという
   ことです。天の国の秘密もこれに似ています。私たちは神様が用意してくれている秘密が、まだ分かりません。これからどんな救いが用意され
   ているのかを、まだ知りません。それぞれに用意された救いは、違った形で実現していくからです。でも、一つだけ分かっていることがありま
   す。それは神様の救いが良いものである、ということです。今の世の中の状況も、そして、その影響を受けて弱っている個人の心の内も、なぜ
   このようになってしまったのかは、まだ分かりません。その真っ只中を生きている私たちには、理解できないことがたくさんあります。でも、
   この困難な時代を生きる私たちにも、一つだけ知っていることがあります。それは、神様が救いを用意してくれている、ということです。時期
   がくれば芽が出て色づく花のように、私たち一人ひとりには、素敵な計画が用意されているのです。

   神様は天の国の秘密を、救いを用意してくれています。私たちはこの救いの種が蒔かれた土地です。天の国の秘密はそれぞれに蒔かれて、い
   つか必ず実を結んでいきます。必ず時が満ちて花開いていきます。その時を待ってまいりましょう。