説教要約(12月)

2021年12月26日(日)  説教題:「無力な者へ」    聖書;コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章26~31節
 先週は喜びのクリスマスの時を迎えました。キリストの誕生は煌びやかでもなく、華やかでもない場所、馬小屋で起こりました。人間的に見れば出産に適していないように思えますが、神様のみ心は人間の思いを超えて働いていかれます。キリストが誕生したことによって、そこは最も祝された場所になります。
 コリントの信徒たちに派閥争いが起きていました。その根拠となっていたのは、人間の知識や地位でした。そこでパウロはこのように書き送っています。「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」コリントの教会に集う人々は召されたとき、知恵のある者、能力のある者、家柄の良い者。そのような者たちではありませんでした。そしてこのように記しています。「世の無に等しい者」。この言葉は、「どこにも存在しない」という意味を持っています。社会の中で蔑まれていた者、身分の卑しい者や見下げられている者。そのような人たちは「どこにも存在しない」と見られていました。彼らのことを見る人はいませんでした。社会の中で「存在しないこと」にされていた人たちです。生きて、ここにいる人間である、と認められていない人たちです。召されたとき、キリストによって招かれ救われたとき。コリントの人たちはそのような状態であったのです。
 キリストが生まれた場所がそうであったように、私たちの考えつかないような場所で、神様の御心は働かれます。そして、キリストが生まれた場所のように、貧しく、けっして人間的に見れば良いと思えないような者たちへと、その福音は伝えられました。神様の御心は、私たちの思いもよらないところで、そして思いもよらない者たちへと、臨んでいきます。計り知れないところで働かれるのが、キリストの業であり、神様の御心なのです。
 クリスマスの出来事は神様の思いが人の思いを超えて働かれた出来事です。人間の知恵で「無に等しい」とされていても、神の知恵であるキリストは、その「無に等しい」の存在を、認めてくださいます。「無力」で「無に等しい」者を救ってくださるのがキリストです。このような救い主が、私たちには与えられています。救い主によって、私たちの存在が「無」から「有」へ、「無いに等しい者」から「神の前に存在する者」として選ばれ、その目に留められていくのです。


2021年12月19日(日)  説教題:「未来には希望が」    聖書;マタイによる福音書2章13~18節
 喜びのクリスマスが与えられました。しかし、私たちの現実には喜んでいられないような出来事もあります。ミャンマーで、アフガニスタンで、そしてこの日本で、争いや差別、搾取が確かに存在しています。権力による暴力の現実です。今日の聖書に書かれていたヘロデ王による虐殺もその一つでした。自分の地位を脅かす存在が生まれたことに恐怖したヘロデ王は、学者たちから救い主の誕生した具体的な場所を聞くことができませんでした。そこで恐怖は怒りに変わります。ヘロデ王はベツレヘム周辺に産まれた2歳以下の男の子を、全て殺すように命令しました。非常に痛ましい事件です。聖書の時代に起こった保身に走る権力の暴力は、私たちの時代にも起こっています。喜びの陰にある嘆きと悲しみの現実。これは今も存在しているのです。
 今日の聖書にはこの権力による暴力が、預言者エレミヤによってなされた預言の実現だったことが語られています。18節に書かれているのは、エレミヤ書3115節からの引用ですこのエレミヤ書の続きである1617節にはこう書かれています。
 「主はこう言われる。 泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。
 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
 息子たちは敵の国から帰って来る。
 あなたの未来には希望があると主は言われる。
 息子たちは自分の国に帰って来る。」
 絶望の中にある人たちに、私たち人間は語る言葉を知りません。ですが、神様によって与えられたみ言葉は力強く、そして大きな慰めを持って語ってくれます。人の力ではなく、人の言葉でもなく、神様の力と神様の言葉によって、私たちは慰められていきます。「あなたの未来には希望がある」と。
 
 クリスマスの喜びの陰で、泣いている人たちがいる。でも、そのような悲しみの世界に与えられたキリストが、全ての重荷を背負ってくれている。全ての小さい子どもたちが殺されるという、人間のどんな慰めも通用しないような聖書の言葉の背後には、神様の慰めという未来への希望が語られているのです。

2021年12月12日(日)  説教題:「全ての人に」    聖書;マタイによる福音書2章1~12節
 学者たちがキリストを訪ねてきたことは、現代を生きる私たちにも繋がる出来事です。
 この学者たちは星を読んで生活していました。これはユダヤでは律法によって禁止されている行いです。それにこの人たちはユダヤ人ではありません。「ユダヤ人の王」が生まれたことを聞いても、何か利益があるとは思えません。それにも関わらず彼らは、ヘロデ王にまで会いにきました。それは救い主の星を見たからです。学者たちはその星に導かれることで変えられました。それは「救い主を拝みたい」と願う者へと変えられる出来事です。自分ために星を見るのではなく、救い主を拝むため、彼らは星を読んでいきました。ここでの「拝む」という言葉は、礼拝することを意味しています。彼らが向かったのは、救い主の星に導かれて、イエス様を礼拝するためだったのです。しかし、彼らはヘロデのところまで着くことはできましたが、ベツレヘムまでたどり着けませんでした。そこでもう一つの導きがあります。それはみ言葉による導きです。ヘロデのもとにいた律法学者や祭司たちは、救い主が生まれた場所についてサムエル記のみ言葉を用いて説明しています。それは正しい預言であり、博士たちは救い主に辿り着くことができました。星読みという占いではなく、最後はみ言葉の力によって、彼らは救い主にたどり着くことができたのです。
 10節には救い主の星とみ言葉によって導かれた博士たちが、救い主の場所に導かれたことで「喜びにあふれた」と書かれています。私たちはいま、アドベントの時を過ごしています。アドベントはクリスマスを待ち望む喜びの時でもあるのですが、それと同じくらいの慌ただしさがあります。心安らかに、平安の内に過ごせない現実も目の前にはやってきます。喜びと言われても喜べない、そんな中でクリスマスを迎える方々もおられます。
 しかし、そんな状況であっても、私たちに与えられている礼拝は喜びです。それは「嬉しい」や「楽しい」という単純な「喜び」ではなく、救いがここにあることを知らせてくれる、根源的な喜びだからです。この喜びは希望に近いものかもしれません。笑顔になれなくても、楽しい気持ちになれなかったとしても、それでも私たちを救い、私たちを支え、そして苦しみを共有してくれる救い主の喜びは与えられています。この礼拝に招いてくれる救い主は、民族や国籍、階級や権威によらず、全ての人をこの喜びへと招いてくれるために産まれました。それだけではなく、喜べないような状況であったとしても、全ての人を救いへと招くための救い主が、私たちを根本的な喜びへと招いてくれているのです。


2021年12月5日(日)  説教題:「インマヌエルと呼ばれる」    聖書;マタイによる福音書1章18~25節
 ヨセフはマリアが身籠ったことを知り、悩んだ末に密かに縁を切ることを決断しました。そうすれば、マリアさんが殺されてしまうことはなかったからです。しかし夢で天使はヨセフに、マリアを受け入れ、子どもと共に生きていく道を示します。
 ここでヨセフさんには、その決心を覆す知らせが天使から与えられました。これは何もヨセフさんの決断を否定するために与えられたものではありません。救い主の誕生は、ヨセフさんにとっても大きな恵みになっていきます。そのことが書かれているのが、22節にありますイザヤ書の預言です。このインマヌエルとは、ここに書かれていますように、「神が共におられる」という意味です。これは他の知らない誰かではなく「あなた自身と共に神様いてくれますよ」ということを伝えています。ヨセフさんは、自分がマリアと共に産まれてくる子どもを育てることによって、そのインマヌエルの恵みが実現することを、天使から教えられました。
 これはヨセフさん自身が、インマヌエルの恵みを信じた出来事です。そのことはヨセフさんにとっても大きな慰めになりました。マリアさんが身籠ったことを知った時の悩み、苦しみ、迷い、そしてマリアが裏切ったのではないのかという疑い。私たちには想像も出来ないような状況だったことでありましょう。ついには全てを終わらせるための手段を決心しました。しかし、そんなヨセフさんに神様は天使を遣わして、マリアと子どもを受け入れることによって、インマヌエルの恵みが実現することを告げました。ヨセフさんはその夢のお告げを通して決心を覆して「悩み苦しむこの自分に、神様が一緒にいてくれるんだ」ということを信じます。それによってクリスマスの時に、インマヌエルの恵みは実現したのです。
 私たちもヨセフさんのように、苦しみや悩み、疑いに支配されるときがあります。それ以外にも、怒りや苛立ちなどによって、心が穏やかではいられないときがあります。そんな私たちのために神様は励まし、慰めるための言葉を用意してくれました。それがインマヌエル、「私が一緒にいるよ」というメッセージです。もちろん、神様が一緒にいるからと言って、全ての状況が良くなっていくわけではありません。相変わらず心は騒がしいままかもしれません。ですが、そんな悩む私たちの傍らに、神様が一緒にいてくださいます。何がどうなっていくか分かりませんが、最も良いことをしてくださいます。それを信じたのが今日の聖書に書かれているヨセフさんです。インマヌエルの実現を信じ、神様の言葉を信じて、委ねていっ