説教要約(11月)

2021年11月28日(日)  説教題:「キリストへ」    聖書;マタイによる福音書16~17節
 アドベントを迎えました。これは言い換えればキリストが与えられるまでの歴史を追体験していく出来事です。
 この系図はアブラハムから始まっています。アブラハムは神様から祝福を約束された人でした。それは土地や国家の成立という形で成就していったのではなく、救い主の誕生を通して叶えられていきます。第一にこの系図は、救い主という祝福の出来事が長い歴史の中で備えられたことを示しているのです。
 続いてこの系図は、救い主がどのような存在なのかを教えてくれています。46節には4人の女性が書かれています。16節のマリアを含めると女性の名前は5名です。この人たちに共通しているのは、ユダヤ人の出身ではない、ということです。また、それぞれに事情を抱えていました。この事情を抱えた人たちは、当時の社会の中で多数側にいる人たちではありません。ですが、このキリストに至るまでの系図には、その名前が記されています。それは、どのような人間的な事情を抱えていても、神様の前には関係ないからです。イエス様は「普通」とか「一般的」と呼ばれる社会的な枠組みをはるかに超えて、共にいてくれます。それを伝えるために、この女性たちの名前は系図に刻まれました。そしてイエス様もまた、その流れの中で誕生していきました。救い主という祝福は全ての人たちに与えられていくのです。
 全ての人に与えられる祝福があることを、この系図は私たちに教えてくれました。しかし、この系図に書かれているのは、善いことだけではありません。715節には厳しい時代があったことを教えています。しかし暗闇の中に光が射し込みます。それが書かれているのが16節です。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」メシアが与えられたのは、どん底ともいえる暗闇の中です。罪によって暗闇を歩んでいた人間が、その罪を赦されるため、そして新たな光によって歩むために、神様は救い主を遣わしてくださったのです。
 キリストに至るまでの歴史を私たちは読み解いてきました。この歴史を追体験していくのがアドベントです。それは過去を振り返ることだけではありません。この流れの先に繋がっている自分への救いを想い起こすことです。祝福や様々な事情、そして暗い歴史を超えた先に、救い主の誕生はありました。私たち一人ひとりも、このイスラエルのように祝福を受け、いろんな事情の中で生きて、時には暗い歴史を過ごすこともありました。しかし、いまこうしてこの礼拝に繋がっていることは、間違いなくキリストの救いがあるからです。長く大きな歴史を見ている神様が、それと同じように、あなたに、そして私自身に目を留めて見ていてくれたからです。このキリストへ繋がる救いの歴史の先には、確かに私たちがいます。この救いの歴史を追体験する待つことを通して、私たちはじつは無自覚に待っていた、与えられたキリストへと導かれた救いの出来事を覚えていくのです。

2021年11月21日(日)  説教題:「生ける神に」    聖書;使徒言行録14章8~18節
 本日の御言葉には、パウロが伝道旅行で立ち寄った、とある町の様子が描かれています。パウロが活動していた時代、またその場所は、唯一の神やキリストの福音を信じる人たちよりも、別の神々を信仰している人たちがたくさんいました。パウロが訪れましたのは、「リストラ」という町です。そこで男性を癒したのですが、その後が問題でした。癒しの奇跡を目撃した人々は、パウロたちを人の姿になって表れた神だと勘違いしてしまいます。パウロたちはこの状況をはっきりと否定します。神だと言われ、神と同一視されることは、偶像を礼拝することを同じです。そして自分たちが、町の人々と同じ人間であることを言い表します。彼は他の神々を信じる人々に、キリストを世に与えた神がおられることを宣べ伝えていきます。世界を創られた神様からたくさんの恵みが与えられています。雨によって実りを与え、食べ物を与え、心を喜びで満たしてこられました。他の神を信じている中にあっても、神様を知らない中にあっても、神様は恵みを与えてこられた。そのことをパウロは知らせました。世界を創られた神様が、じつは自分たちのことを養ってくれていたことを、パウロは人々に伝えたのです。
 パウロは人々に、人間が神として崇められることを、否定しました。そして、もっと大きな神様がいることを伝えていきます。それを「生ける神に立ち帰るように」と言っています。それは「神のようなもの」という風に表現される神ではありません。この世界を創り、今もなお生きて働いておられる神、生ける神です。はっきりとパウロは、神がいることを伝えています。キリストの福音を通して、そして人間に与えられている様々な恵みを通して、私たちには神様がいる。神が生きて働いておられる。そのことを宣べ伝えていきました。
 それは、リストラの町だけではなく、いまをこうして生きている私たちにも働いておられる神様です。奇跡のような出来事を前に、神様の存在を感じることもできるでしょう。しかし私たちの日常の中でも、神様は生きて働いています。私たちが朝起きて、食事を食べ、生活をし、また夜を迎える。その日々の繰り返しの一つひとつが、神様の与えられる恵みです。パウロがここで語っていますように、私たちが神様を意識する前から、既に神様はその恵みを与えてくれていました。私たちが信じる前から、既に神様は働いて恵みを与えてくださっていたのです。

2021年11月14日(日)  説教題:「大切な掟」    聖書;マルコによる福音書12章28~34節
 「律法の中で最も大切なのはどれですか」という質問にイエス様は答えました。「神を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」という二つの愛について語られています。これがイエス様の教えた最も大切な掟なのです。
 一つ目は「神様を愛しなさい」と言われていました。これは「あなたが、あなたの主を愛しなさい」ということです。それはもちろん、自分で作り上げた神様ではありません。私たち一人ひとりのことを造り、日々愛してくれている主なる神様です。自分と神様。神様と自分。この二人の関係には、誰も割り込むことができません。どれだけ周りにたくさんの人がいたとしても、神様と繋がっている自分自身は他にいません。神様と向き合うとき、私たちは一人です。結局は自分が神様と向き合っていくしかありません。あなた自身。そして私自身が、神様と向き合い、自分と神様との関係の中で神様を愛しなさいと、イエス様は言われたのです。
 続いてイエス様は第二の掟を伝えます。それは隣り人を愛しなさい、という隣人愛の勧めでした。神様を愛する自分と神様、という関係は、信仰に生きるうえで第一に大切なものです。しかし、それだけではありません。自分と神様、という二つだけの関係で終わってしまえば、もはや教会という共同体は不必要になってしまいます。たった一人だけの信仰者であっても構わないのですが、そこに他者への愛が加わることによって、より潤いが与えられていきます。だからイエス様は、第一だけではなく、第二の掟も教えました。それが、神様が与えた律法に示されている、神様のみ心であったからです。
 ここで語られていた「愛する」とはどういうことなのでしょうか。これただ「好き」とか「好意的に思っている」ということで済まされるものではありません。それぐらい生ぬるい関係であれば楽なのですが、もっと根深いものです。自分と相手とが、時としてぶつかるような事態もある関係性です。「好き」や「優しい」よりも、もっと激しい関係にあるのが愛だと思います。人間と神様も、その愛によってぶつかってきました。私たちは神様を疑います。私たちは願いを叶えてくれない神に怒りをぶつけます。そんな歩みを続けてきたのが人間です。そして神様も人間のことを容赦なく裁いてきました。お互いが時にぶつかり、時に慈しみ合い、それでも共に生きてきました。ですが、これがなければ神様を愛して歩むことはできませんでした。人間が神様にぶつけることの先にあるのが、神様を信じる愛です。この愛によって、人は神様を信じながら歩んできたのです。
私たちは時にややこしく、そして貴い愛の中を生きています。愛のいろんな面を知っているからこそ、イエス様はこの愛を大切な掟として語られました。ややこしいのが愛ですが、この愛に生きてまいりましょう。そのために、イエス様は愛にいきる大切な掟を与えられたのです。


2021年11月7日(日)  説教題:「楽園にいる」    聖書;ルカによる福音書23章39~43節
 今日の聖書に書かれていますのは、イエス様が死ぬ直前、十字架に架けられた後の場面です。群衆や役人、そして同じく十字架に架けられた罪人までもがイエス様を罵ります。
 ここでのイエス様の姿を思えば、そんな嘲りの言葉が出てくるのも分かる気がします。かつては神の子と名乗り、多くの人々に教えて来た人が、今や傷ついて惨めな姿になって十字架に架かっている。「あなた方を救う」と言っていた人が、自分のことも救えない状況です。その姿は多くの人に、惨めな敗北者として映りました。
 しかし、罵る人の反対側には別の思いを持つ人がいました。イエス様の隣にいたもう一人の罪人です。彼は罵った罪人をたしなめ、「わたしを思い出してください」と言って、自分のことも委ねました。これはイエスがキリストであると気付いた人だから話せる言葉です。なぜ彼は、ここでそんな言葉を言えたのでしょうか。
 それは、この十字架で死んでいく惨めなイエスの姿に、キリストを見たからです。イエス様が十字架に架けられている姿は、決して美しいものではありません。身体も顔も傷つき、自分と同じように犯罪者として、これから惨めに死んでいく姿です。そんな姿を晒している人が救い主だと、多くの人は気付けませんでした。それでも、もう一人の罪人はそんなイエスの姿に神の子を見ました。
 私はこのもう一人の罪人の姿を見て、「神様を信じて死んでいく」とは、こういうことなのだと思いました。人間はこの世で生きているうちにいろんなものを手に入れていきます。しかしながら、人は死んでいくときに何も持っていません。どれだけの地位や名誉があったとしても、どれだけ多くの財産を持っていたとしても、それは地上に置いていきます。私たちは何をどれだけ持っていたとしても、結局はこの十字架に架かった三人のように、何も持たずに神様のもとに行くしかありません。このもう一人の罪人は、十字架のうえでそのことを知りました。それは隣りに何一つ持たないで、栄光の面影すら残っていないイエス様がいたからです。
 神様を信じて死んでいく罪人は、何も持っていませんでした。私たち人間も同じく、何も持たずに天へと帰っていきます。全てを失って死んでいくことは、非常に恐ろしく感じるかもしれません。しかしながら、今日の聖書にはそんな私たちを慰める言葉が書かれています。それはイエス様がもう一人の罪人へ語った言葉です。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」死んでいくときに、人は全てを手放していきます。しかし、そんな人間にイエス様は「わたしも一緒に楽園にいるよ」と言ってくれました。何も持たずに旅立っていくのですが、そんな人間と一緒に楽園にいてくれるのがイエス様です。死後の世界を見て知っている人はいません。ですが、そこがどんなところであろうとも、イエス様は一緒にいてくれます。地上から何も持っていくことはできませんが、そこがどこであろうとも、イエス様が一緒にいてくれる楽園なのです。