説教要約(10月)

2021年10月31日(日)  説教題:「生きる者へ」    聖書;創世記2章4~9節
 今日の聖書に書かれているのは、最初の人間が造られた様子です。この第二の創造物語は、地上の管理者としての役割が与えられた人間とは別の姿が書かれています。神様は土(アダマ)から人(アダム)を造られました。ご存知のように、最初の人間であるアダムです。ですが、このアダムは最初に造られた人の名前というだけではなく「人間」全体を現わすときにも使われます。ですので、アダムとは最初の人間であると同時に、全ての人間を現わします。そしてこのアダムという言葉は、ここで書かれていますように土を示す「アダマ」からできました。全ての人間は土の塵から造られた。ここに第二の創造物語の根本的な人間理解が書かれています。それは「人間の本質は土の塵でしかない」ということです。人間は土の塵のように弱く、脆く、儚い存在でしかないのです。
 このみ言葉は現代を生きる私たちに何を語っているのでしょう。現代を生きる私たちは豊かになりました。しかしこの二年ほどは新型コロナウイルスの大流行により、これまでの常識が覆されるような日々を過ごしてきました。いろんなメッキが剥がされて、右往左往してきた二年だったように思います。少しずつ日常が取り戻されようとしていますが、やはり不安が残ります。
 これは、本当に人間の根本的な弱さが浮き彫りになったような出来事です。これまで当たり前のように自分の力でやってきたと思うことが、崩れ去りました。そんな毎日の中で、人間は脆く、儚く、弱いことを思い知らされます。
 しかし、人間の弱さを知った私たちは、同じように知ることができるはずです。「神様が命の息を吹切いれてくれたから、私たちは生きている。」弱さを知った人間は、命の息を吹き入れてくれた神様の恵みを知るのです。私たちはこうして当たり前のように生きています。自分の命を改めて感じることなく息をしています。そもそも私たちは、自分で息をしているように思いがちです。ですが、私たちが呼吸している一つひとつの息は、実は神様から与えられたもの、神様がこの瞬間も働いてくださって、私たちに吹き入れてくれているものです。これは生きる者としてくれた神様が、ずっとこの命を守ってくれている証なのです。
 私たちの命は、神様が吹き入れてくれました。それは今も、そしてこれからも続いていきます。弱く、脆く、そして儚い存在でしかない人間です。けれども、そんな人間のことを愛して神様は、生きる者としてくれました。この命の息吹を感じて、明日もまた生かされていきましょう。

2021年10月24日(日)  説教題:「その日その時」    聖書;マタイによる福音書25章1~13節
 キリスト教は「待つ」宗教だと思います。旧約聖書の時代から救い主の誕生を待ってきました。現代を生きる私たちは日々、神様から与えられる恵みを待って生きています。そして再び与えられるイエス様を待っています。神様を信じる信仰生活は、待つことの連続です。そんな日々待ち続けている私たちなのですが、今日の聖書にも待っている人たちのことが書かれています。この十人のおとめの例え話は、待っている人間に向けて、どのように待っていくのかをイエス様が話しています。
 十人の結婚式スタッフの内、5人が準備不足であった。これはイエス様が再び来る時を待っている人間たちのことを意味しています。イエス様は「その日、その時」を知らない私たちに、「目を覚ましていなさい」と言われました。これは準備不足であったスタッフに現わされる、私たち人間への言葉です。私たちは何を準備していけば良いのでしょう。
 それは、こうして信仰生活を続けていくことです。祈り、賛美し、み言葉に聞く。そして神様に感謝する。何か特別に派手なこと、豪華なことをするのが目を覚まして準備していくことではありません。地味かもしれませんが、こうして続けている信仰生活の一つひとつが、イエス様が再び来られるのを待つ私たちの準備期間です。
 この日々続けている信仰生活は、それぞれが神様と繋がって、イエス様と一緒にいるためにあります。信じてこの社会の中で生きていくためです。そうやって神様に心を向けていった先に待っているのが、再びイエス様が世に来られて、救いが完成する時です。それはもしかしたら、もう私たちの地上での命が終わってしまった後かもしれません。ですが、イエス様が来られる時、私たちも永遠の命の中で復活を果たします。それぞれが信じたイエス様とまた、顔と顔を通して出会い、全ての命が蘇りの恵みに与かります。生きていようとも、死んでいようとも。私たち一人ひとりの命が復活する。そんな救いの完成のために、私たちは日々、準備していくのです。
 待って。待って。待った先に与えられるのが救いです。それは地上での癒しという形かもしれません。あるいは、地上での命が終わった後に訪れる復活かもしれません。いずれにせよ、待っている私たちにあるのは、希望だけです。神様が救ってくださるという、大きな希望です。そんな希望に生きるために、イエス様は「その日、その時」が用意されていることを伝えてくれたのです。

2021年10月17(日)  説教題:「信じて祈るならば」    聖書;マタイによる福音書21章18~22節
 イエス様がいちじくの木を枯らしたエピソードが書かれています。なぜそんなことをしたのか。読む者を混乱させるような物語です。ですが、これはイエス様が八つ当たりをした話を収録したものではありません。いちじくの木は象徴として書かれています。
 たいそうに葉っぱばかり付けて、実のりのない木。これはイエス様から見た人間の姿にそっくりでした。エルサレムに入ったとき。人々はイエス様を賛美して歓迎しました。口でイエス様を褒めたたえ、行動では歩くための道を造り、文字通りの大歓迎です。しかし、この数日後に人々の様子は一変します。「この人を十字架に架けて殺してしまえ」。口では罵り、行動では石を投げていきました。イエス様を大歓迎したのと、同じ人たちの変わりようです。そんな見た目では立派に見えても、そこに実りがない人たちは、まるで葉っぱばかりで実のついていないイチジクのようにイエス様には映りました。見た目ばかりは立派だけれども、そこに何の実りもない。これがイチジクの木が象徴していて、私たちに気付かせようとしている人間の姿なのです。
 このイチジクの木を枯らした出来事を見た弟子たちは驚きました。目の前で奇跡が起こったのですから、それは当然でありましょう。もしかしたら、この時の弟子たちは「この奇跡の力が欲しい」と思ったかもしれません。ですが、イエス様が弟子たちに求めたのは、この奇跡の力ではありません。弟子たちにも実を結んで欲しいと願っていました。つまりは、神様のみ心に従う者、神様に喜ばれる行いをして欲しいということです。そのためにイエス様が言ったのが22節「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」という言葉です。イエス様は真に実を結ぶ信仰について弟子たちに語りました。
 祈ること。これは人間の力ではなく、もっと大きな神様の力に頼ることです。人間の力、例えば財力や知識、科学などの力に頼れば、それはそれで何とかなるかもしれません。ですが、いつかそれには限界がやってきます。そして私たちのことを本当に救ってくれるものではありません。人間の力は有限です。そして競争して手に入れるものです。全員がそれを満遍なく受け入れられるわけではありません。どこかで誰かが切り捨てられてしまいます。
 そんな人間の力をどれだけ手入れたとしても、それは葉ばかりのいちじくのように、見た目だけは立派なものになってしまうことでしょう。そこに実りを与えてくれるのは神様です。神様を信じて祈ることによって、私たちにより大きな実りが与えられます。私たちの毎日を支えて、守ってくれる、いつも見守ってくれる神様の大きな実りが、信じて祈るところには与えられるのです。


2021年10月10日(日)  説教題:「たゆまずに」    聖書;テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章6~13節
 「働かざる者 食うべからず」という言葉があります。これは正当なことを言っているように聞こえますが、その影でとても辛い現実を多く生み出してきた言葉です。この言葉の原点は聖書にあります。聖書はそんなに厳しいことを言っているのでしょうか。私たちを養い、慰め、生かしてくれるのが聖書の言葉です。今日はこのみ言葉を通して、聖書とどう向き合っていくのかを共に聞いてまいります。
 パウロはテサロニケの人々にキリストの福音を伝えました。それは既に来た十字架のキリストによってもたらされた救いと、これから来るキリストによってもたらされる救いの完成です。もう一度キリストが来られるとき、今ある世界が終わりを告げます。そこで全ての命が復活し、救いが完成するのです。これを聞いた人々はイエス様を信じる者へと変えられました。ですが、一部で誤解した人たちがいました。「世界はもう終わるのだから、今更働いても仕方がない」そう考えて、働くことをやめてしまいました。そんな人たちに向けられたのが、「働きたくない者は、食べてはならない」です。この言葉には「キリストが来るからと言って、今を生きることを放棄してはならない」というパウロの意図が込められています。そして聖書は「働けない者は食べる資格がない」とは決して伝えていません。むしろ旧約聖書から新約聖書に至るまで、働けない状況にある人たちは、持っている者が食べ物を分け与えなさいと書かれています。このみ言葉が誕生した意味を理解することによって、伝えたかったことの真意が見えてくるのです。
 聖書が人間に伝えたかったみ言葉は、そのような意味が込められていました。それは、今与えられたこの命を生きることの大切さです。働けても、働くことができなくても、神様に与えられたこの命は、何物にも代えがたい大切なものです。聖書はその命を祝福し、励まし、そして慰めて生きるための言葉が書かれています。これらは決して人間を殺すための言葉ではありません。それが神様の思い、み心だからです。
 今日の聖書箇所の最後にはこう書かれています。「あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。」この「たゆまず」とは、「ゆるめることなく」という意味になります。このみ言葉では「あなたがたは、ゆるめることなく善いことをしなさい。」という意味になります。神様から与えられたみ言葉は人間の勝手な解釈によってたゆませてはいけないものです。だから私たちはみ言葉を学ぶ必要があるのでありましょう。現代を生きる私たちが受け入れられないようなことも、確かに聖書には書かれています。ですが、それを文字通りに受けることによって人を傷つけるのは、明らかに間違いです。そして「善いこと」ではありません。聖書は私たちを生かすために与えられたものです。聖書は私たちを慰めて励まし、そして救いへと導くものです。いろんなことが聖書には書かれているのですが、そのどれもが誰かを傷つけるための言葉ではないのです。

2021年10月3日(日)  説教題:「新しくされる」     聖書;エフェソの信徒への手紙4章17~24節

今日はエフェソの信徒への手紙が与えられました。ここに書かれていますのは、「新しい人間にされたことを思い起す」ということです。教会では洗礼を受けることを通してキリスト者、つまりはキリスト教信徒に新しく変えられます。その出来事を思い出させるのが今日与えられたみ言です。そして聖餐式です。世界聖餐日のこの主日に、イエス様の定められた聖餐と私たちが変えられた出来事に、思いを馳せていきましょう。

20節からは以前の生き方から変わったことを伝えています。キリスト者として歩み始めた頃を思い出させるための言葉です。それをパウロは服を「脱ぐ」、服を「着る」という表現を使って現わしています。ここでは服を脱ぎ捨てることが言われています。これは布で造られた服を捨てることだけではありません。服に象徴される社会での立場や、それに従って生きてきた古い自分を脱ぎ捨てることです。神様の前に、私たちの社会的な立場や建前は関係ありません。丸裸にされた人間その人を神様は見ています。神様を信じる者へと変えられることは、役職や権威に従って生きるのではなく、ただ神様に救われたその恵みに従って生きることです。私たちは古い自分を捨て、キリストによって生きる者へと変えられていくのです。

もちろん、これは「以前までの社会生活を全て捨てなさい」という意味ではありません。キリスト者に変えられた後も社会での生活は続いていきます。変わるのは、その社会での生き方です。古い自分にとっての生きる糧は財産や権威でした。自分の力で手に入れたものが全てでした。そんな自分が変えられて、新しい自分が始まります。新しい自分の生きる糧となるのは、神様のみ言葉です。一緒にいてくれるイエス様です。これまで自分の力で手に入れたものを信じてきた自分を捨てて、イエス様と一緒に生きていく新しい自分を着ることになるのです。

そのことを想い起こすのが聖餐式です。しかしながら私たちはいま、このパンとぶどうに与かることが出来ません。コロナ感染防止のために、これはやむを得ないことです。そんな状況の中で迎えた世界聖餐日です。恐らく私たちだけではなく、多くの教会でパンとぶどうによる聖餐に与かれない状況が続いていることでありましょう。ですが、こんな時だからこそ、私たちは聖餐式についてみ言葉に聞く必要があると思うのです。私たちはパンとぶどうに与かることはできませんが、それを想い起こすことはできます。今日共にみ言葉に聞いてきた主の食卓に招かれた一人であることは、取って食べる物がなかったとしても変わりません。私たちは新しくされた一人であることに、変わりはありません。私たちは聖餐を覚え続けることを通して、イエス様を想い起こしていくことが適うのです。