説教要約(1月)

2021年1月31日(日)  説教題:「祈りの家、強盗の巣 」  
                             聖書; マタイによる福音書21章12-16節

 イエス様は神殿にいた商人たちを追い出し、台や椅子を壊していきました。これは「宮清め」と呼ばれている出来事です。

神殿で行われていた商売は、一部の人たちが儲かるための利権にまみれていました。貧しい人の足元をみた価格設定であったり、祭司がそれを利用して儲けたりと、神殿全体が搾取の構造を作り上げていました。イエス様はそれをこんな風に言っています。「『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」強盗の巣は「盗賊の隠れ家」を意味しています。神様に心を向けて祈る神殿が、欲望を隠蔽する隠れ家となってしまいました。イエス様が本当に壊そうとしたのは、人間が神殿を強盗の巣にしている状況です。神殿に造られた差別と搾取の仕組みを壊し、祈りの家へと立ち帰ることを求めたのです。

宮清めの後には、人々が癒され、子どもたちが主を賛美したことが書かれています。この人々は当時の社会で数に数えられない人たちで、神殿の内部に入ることはできませんでした。しかしイエス様の出来事により、癒されて礼拝者へと変えられます。これまで神殿から排除されていた人たちが、祈りの家に帰っていくことが適いました。

イエス様は商売人たちを追い出し、そして癒し、神殿を本来の場所に戻していきました。商売をしたり、利益を追求する仕組みのために、神殿があるのではありません。礼拝をするために作られたのが神殿です。イエス様はそこを礼拝のための場所に戻して、人々を招いていかれます。強盗の巣をイエス様が壊したことによって、そこは全ての者たちが礼拝する場所、祈りの家へと変えられたのです。

 イエス様は強盗の巣を壊し、人々を癒し、祈りの家に招いていかれました。じつはこの宮清めは、毎週私たちに行われていることです。強盗の巣は私たちの中にもあります。それは教会が祈りの家であることを忘れ、欲望のままに動く私たちの隠れ家です。イエス様はそこを壊してくれます。そしてイエス様は癒されます。私たちは体や心だけではなく、礼拝者へと変えてくれます。一週間を過ごし、イエス様の癒しによって私たちは礼拝者へと変えられるのです。そして祈りの家に招いてくださいます。教会は私たちが神様と繋がって、私たちが神様と共に生きていることを思い出すための、祈りの家です。イエス様はいつでも、ここに帰れと招いてくれています。このキリストの招きがあるからこそ、私たちは帰ってくることが適うのです。

イエス様は壊し、癒し、招いてくださいます。そして帰ってくるための場所である、祈りの家を用意してくれました。それが適うのは、ただ神様の恵みだからです。


2021年1月24日(日)  説教題:「光が射し込んだ」    聖書; マタイによる福音書4章
  ここにはガリラヤで宣教を始められたキリストについて書かれています。エルサレムなどの都にいる人たちは、ガリラヤが救いから遠
 い場所と思っていました。それをガリラヤの人たちも認め、自分たちが救いから遠い者たちだと思っています。神様の救いを見失い、信
 仰生活が暗い状態になっていました。そんな場所に光が射し込みます。旧約聖書で預言されていたように、ガリラヤに救い主が与えられ
 たからです。
  イエス様は宣教の始まりに宣言されます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」ここの悔い改めとは、過去を振り返って心を入れ替え
 ることではありません。過去から離れて新しくなる出来事です。今までの価値観から180度方向転換し、自分を捨てていくことで新しい道
 が始まります。それは世の力ではなく、イエス様の赦しによって神様により頼む道です。キリストによって与えられた救いの出来事を想
 い起こし、新しく生きていくこの悔い改めが、キリストによって宣言されたのです。
  今を生きる私たちもガリラヤ人と同じです。私たち人間は救いを見失ってしまいます。そこが私たちの暗闇です。暗闇とは、単に日常
 生活が苦しいとか、悩みが多いというだけではありません。表情が暗い、明るい、雰囲気が暗い明るいということではありません。イエ ス様の救いを見失ってしまうことです。イエス様を通して神様が赦してくれた。そして今もこれからも一緒にイエス様がいてくれる。こ れを私たちは忘れてしまうのです。
  そんな私たちのために、神様は光を用意してくれました。私たちの暗闇に差し込む光がキリストです。神様はキリストを私たちのもと
 へと遣わして、何度でもその光を差し込ませてくれます。救いを見失って暗い中を歩むときに、光を差し込んで「救いは私にある」とい うことをまた教えてくれます。
  その光に気付かされて、その光にまた照らされていくときに、私たちはキリストの呼びかけを聞きます。「悔い改めよ。天の国は近づ
 いた」と。だから、私たちは神様の前に、何度も悔い改めることが必要なんです。宗教改革者のマルチン・ルターは、17節のイエス様の
 呼びかけについて、こう言っています。「キリストはこの言葉によって、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを欲している」
  暗闇にあるときに、悔い改めの光を神様が用意してくれます。全てを捨てて、あるいは世の力から解放されて、その度に新しくされて
 いきます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」これはイエス様によって、私たちに何度も何度も呼びかけられている光なのです。


2021年1月17日(日)  説教題:「網を捨てて」  聖書; マタイによる福音書4章18-25節 
 イエス様が四人の漁師を弟子にしたことが書かれています。それはガリラヤ湖のほとりでした。口語訳聖書ではここで「海」という言葉が使われています。旧約聖書で海は恐ろしい場所の象徴でした。イエス様と弟子たちが出会ったのはそんな場所です。
 四人の漁師はイエス様に声をかけられ、網と舟を捨てて従っていきました。彼らが捨てたのは仕事に必要な道具です。それだけではなく、彼らは「これまでの自分」を捨てました。魚を獲って生きていくことが当たり前だった自分。自分の力を信じていくことが当たり前だと思っていた自分。これまでの自分を捨ててイエス様に委ねていく道を歩み始めます。「わたしについてきなさい」と言われたイエス様を彼らは信じました。網を捨てて、これまでの自分を捨てて、彼らはイエス様に従っていったのです。
 そして漁師たちはイエス様に「人間をとる漁師にしよう」と言われます。これはどういう意味でしょうか。海は恐怖や混沌の象徴でした。そんな水の中を人間は漂っています。息が苦しくなってきますので、早く水から上がらなくてはいけません。人間をとる漁師は、そんな中から引き上げてくれます。それがイエス様によってもたらされる救いの出来事です。
 そのような意味で、最初に引き上げられたのは4人の漁師たちです。そして弟子となり、さらに多くの人たちがイエス様を信じていきます。多くの人たちが網を捨てていきました。
 これは現代を生きる私たちにも、かつて起こった出来事です。私たちも自分の力を信じて生きていました。海の中で漂っていました。そんな水の中から、人間をとる漁師を通してイエス様が引き上げてくれました。キリスト者として変えられた者は、一度それぞれが持っている網や舟を捨てて、イエス様に水の中から引き上げられた人間です。
 しかし、人は移ろいやすく、何度でもまた水の中へと戻っていってしまいます。疑い迷って、神様から離れてしまいます。すぐに一度は捨てた網をまた拾ってきて、そんな自分の力に頼ろうとしてしまいます。弟子たちがイエス様に従いきれなかったように、私たちも弱さを持っているのです。
 
 ですが復活のイエス様は弟子たちを責められませんでした。これと同じように、イエス様は何度でも私たちのことを引き上げてくれます。いつまでも私たちに呼びかけて待ってくれています。「わたしについてきなさい」と声をかけられていくそのたびに、私たちはその手に握っている網を、自分が頼っているイエス様以外のものを捨てて、またイエス様に従うことができます。水の中で迷い、水の中で苦しむ私たちを、何度でも何度でもイエス様は引き上げてくださるのです。


2021年1月10日(日)  説教題:「別の道」  聖書; マタイによる福音書2章1-15節
 博士たちは「ユダヤ人の王」に会うためにエルサレムに向かいました。そこにいたのはヘロデ王です。王に会うために王宮に向かうのは当然のことでしょう。しかしそこにいたのは王であって、救い主ではありませんでした。博士たちは星に導かれて救い主のもとへと向かいます。そして王宮とは全く違った場所に生まれた救い主と出会い、喜びに包まれたのでした。
 そして博士たちは来たときとは別の道を帰っていきます。イエス様と家族も故郷ではなく、エジプトへと逃げていきます。イエス様と博士たちは、これまでとは別の道を歩むこととなったのです。
 イエス様はヘロデの強大な殺意と権力の前に、逃げていくことしかできません。一人の弱い幼子でした。福音書に書かれているイエス様を見てみますと、大人になって活動を始めてイエス様も弱い者であったことが書かれています。その結実となったのが十字架でした。イエス様は鞭で打たれ、磔にされます。「ユダヤ人の王」と罵られていきました。しかし、この弱さが救い主であるイエス様の本質です。イエス様はこの世の権力に従って強い力を持っていなかったから、私達の救い主になってくれました。弱さを共感し、その中で人と歩んでくださいます。キリストの弱さがあるからこそ、私達弱い人間も神様の道を歩んでいくことができるのです。
 このキリストの弱さによって新しく歩み始めたのが博士たちです。彼らはこれまでとは別の道を通って帰っていきました。それはヘロデへの道ではありません。これは時の権力者の声に従っていたのであれば、考えられなかった道です。彼らはヘロデへの道を選びませんでした。そして王宮にいる王を選びませんでした。これまで歩んできた、この世の力に従う道から、弱さの中に生きる救い主と、共に生きる別の道を歩み始めたのです。
 イエス様を信じて生きることはこういう出来事なのだと思います。それまでの私たちもこの世の権威や、この世の力に支配される中で、疑うことなくその力に従ってきたことでしょう。または、自分の力だけを頼りに、生きていかなければならなかったかもしれません。
 しかし、私たちは弱さの中に生きたイエス様がいたことを知らされています。この良い知らせが与えられています。博士たちにも同じことが起こりました。そして私たちも権威から解放されて、イエス様と一緒に生きていくことができます。この弱さを持ちながら、共感してくれるイエス様と一緒に生きています。私たちもイエス様と出会うことを通して、これまでとは違った別の道を歩むことが与えられたのです。

2021年1月3日(日)  説教題:「共に食事をするであろう」   聖書;ヨハネの黙示録3章20-21節
 この箇所ではラオディキアという町の人々へ、主に立ちかえることが勧められています。主を受け入れた人に約束されている祝福が、イエス様の言われる「共に食事をするであろう」という約束です。食事をすることは神様を礼拝することであり、神様に繋がる仲間の営みでした。福音書にはイエス様が多様な人たちと食卓を囲まれたことが書かれています。この主の食卓に招かれることが、イエス様が約束してくださった祝福なのです。
 この出来事は現代でも愛餐会として守られています。最初のキリスト者たちも食べることを通してキリストを礼拝していきました。湖山教会でも学生や若者たちが食べることを通して、イエス様と出会ってきた歴史があります。キリスト教会では2000年間の間、食事の席を共にすることを通して、伝道や宣教が行われてきました。それは、その場にイエス様がいてくれるからです。そして私たちがそれを信じているからです。
 しかし、私たちはいま食事を共にすることはできません。コロナウイルスの影響により、マスクを手放すことができない状況だからです。マスクにより顔の半分が覆われている生活が当たり前の状況になってきました。私はマスクが嫌いだったのですが、不思議なものでマスク生活にも慣れてしまいました。マスクが手放せないこの状況では、食事を共にすることは適いません。
 この顔を隠している「覆い」が取り去られる日がくるのでしょうか。「黙示」という言葉には、「隠されたものを明らかにする」、「覆いを取り去る」という意味があります。新約聖書の黙示録は、イエス様が再び来るとき、その救いが完成するときの預言です。神様が用意してくれている救いの計画を、私たちはまだ知りません。それはまるで、布で覆いをするように隠されていました。これを知っているのは神様だけなのですが、その覆いをして隠されている救いの計画を、人間に教えてくれているのが黙示録です。
 神様の隠された救いの覆いと、私たちの顔を半分隠している覆い。この二つは、もちろん別のものです。ですが、神様が「覆いを取り去って救いを見せてくださる」ことを示す黙示録は、マスクが手放せなくなってしまった今の私たちを励ます御言葉のように私は思います。私たちには黙示録を通して約束されていることがあります。神様はイエス様を通して、この覆いをいつか、必ず取り去ってくださるんです。そして再び喜びと祝福に溢れた主の食卓に、招いてくださるんです。イエス様は「食事の席に着くであろう」と約束してくださいました。イエス様の約束は必ず果たされます。この覆いが取り去られる約束を信じて、共に待ってまいりましょう。