説教要約(9月)

2020年9月27(日)  説教題:「言葉」  聖書;ヨハネの黙示録19章11~16節
 ヨハネの黙示録には、一見すると奇想天外なことが書かれています。しかし、その一つひとつには意味があります。今日の聖書箇所には白馬に乗った人が天から軍勢と共にやってくることが書かれていました。頭にはいくつもの冠が付けられています。これの白馬に乗ってくるのはキリストです。白馬は勝利者の象徴でしたので、勝利者キリストが再び世にやってくることを表しています。
 天から来られるキリストは武器を持って戦います。それは「この方の口からは、鋭い剣が出ている。」と書かれているものです。これは「言葉」を意味しています。キリストは剣や弓、そして兵器をもって戦うのではありません。神の言葉をもって戦っていかれます。その戦いは敵を打ち滅ぼすためのものではありません。黙示録が書かれた時代は、キリスト者が迫害されていました。そのキリスト者を迫害する者を救うための戦いです。イエス様は救いのために、言葉をもって再び世に来てくださるのです。
 福音書に書かれているイエス様も、言葉によって人を救っていかれました。悔い改めを迫る言葉は厳しくもありましたが、それも含めまして、人を赦しや、癒しへと導くものです。人々と出会っていく中で、食事を共にしたり、慰めの業をイエス様は行っていきました。黙示録のこの箇所で書かれているイエス様は「迫害から救い出してくれる方」としてのイメージが強いために勇ましく強い者のように書かれています。しかし、このイエス様は私たちが知らない方ではありません。私たちが聖書を通して出会わせていただいたイエス様と一緒です。白馬に乗って天から降りて来られる方も、ロバに乗ってエルサレムへと入城された方も、本質的には同じです。私たちをその福音によって守り導いてくださっているイエス様と同じ方。言葉を持って私たちを導かれる方なのです。
 厳しくもあり、優しくもある、言葉のイエス様。私たちはそれによって生かされていきます。それが、ここでは勝利者として記されていた、イエス様の口によって臨まれる「神の言葉」なのです。求める者の声を、それぞれの羊の声を、羊飼いであられるイエス様は、聞き分けて下さっています。信じて待つものに様々な形で、必要な時に「言葉」が与えられます。その言葉に聞き従い、励まされながら、歩んでまいりましょう

2020年9月20(日)  説教題:「はるかに超えて」  聖書;エフェソの信徒への手紙3章14~21節
 私たちはいろんな場面でお祈りをします。自分や家族、教会の仲間の健康や、平安を願って祈りを献げていくのですが、その祈りはいつ聞かれるのでしょうか。祈っても祈っても適えられないとき、人は不安になってしまいます。この御言葉も祈りが書かれています。パウロはエフェソの人たちを覚えて祈りました。ここに書かれているのは、祈りを待つ人を励ます御言葉です。
 祈られているのは三つのことです。自分たちは神様の支配の中にあること。内側が強められるのはキリストが宿り、弱さを共に担ってくださるということ。そして教会に集う一人ひとりがキリストの愛に満たされますように、ということです。
 祈りが実現されるか、実現されないのか。それは全て神様の御心です。私たちの思いをはるかに超えて、神様の御心は働いていかれます。そんな神様に頼って生きていく私たちは、神様の支配の中にあります。全ては神様の内にあり、その中で祈り合っていくのです。
 御心が聞かれないと待つとき。それは苦しい不安な時です。しかし、その待つときに、私たちは一人ではありません。内側に宿るキリストが苦しむ苦しみの中に、悩む悩みの中に共にいてくださいます。それこそが、広く、長く、高く、そして深い、キリストの愛です。人の知識をはるかに超えたキリストの愛が、御心を待つ私たちに注がれているんです。
 そして、祈りが聞かれるまで待つ私たちには、共に待ってくれる存在があります。それは教会です。2021節には、神様への祈りが、イエス様によって、そして教会によって献げられています。教会は共に祈り合いながら御心を待つ共同体です。自分のための祈りも、そして誰かのための祈りも、それぞれの心の内にある祈りに合わせて、全てが神様に献げられていくのです。
 神様の支配を生きる私たちには、内側にキリストが宿り、その愛によって満たされています。パウロがアーメンと祈ったこの祈りは適えられ、私たちがそんな一人ひとりとして祈り合うことが適っているのでありましょう。
 祈りを待つ私たちは、一人ではありません。その内側にはイエス様がいます。教会があります。それらを備えてくれた神様の支配の内にあります。私たちの思いをはるかに超えて、神様が働いてくださいました。これからも共に祈り、そして待ちながら歩んでまいりましょう。

2020年9月13(日)  説教題:「それは偽りだ」  聖書;エレミヤ書28章
 この御言葉には預言者エレミヤが偽預言者ハナンヤと対決する場面が書かれています。エレミヤは首に軛を付け「バビロンの軛を受けなさい」と人々に語っていました。それに対してハナンヤが語ったことは「バビロンの軛を神様が砕かれる」というものでした。ハナンヤはエレミヤの首の軛を打ち砕き、バビロンに勝利することを高らかに宣言します。何事も派手な強い言葉を使う方が支持されます。人々の目にはハナンヤの方が頼りになる預言者に見えたのです。
 しかし、ハナンヤが語った言葉は偽物です。彼は神様の言葉に聞いているのではなく、人間にとって都合の良いことを語る者だったからです。偽預言者が語っているのは、人間にとって都合の良いことです。そして本物の預言者が語っているのは、都合の悪い真実です。この二つは「人の言葉と神の言葉」という風に分けることができます。都合の良いことだけを語り、それで支持を集めていくのが人の言葉です。人間にとって都合が悪くても神様の真実を語るのが神の言葉です。人の言葉は王様や役人、そして民衆にも都合の良いように語られて、そして聞かれていきます。それは人間が満足していくためです。神の言葉はそんなに甘くありません。それは人間の都合によって語られていないからです。できれば聞きたいことだけを聞き、語りたいことだけを語って生きていきたいものです。しかし人が都合の良いことばかりを語っていくのであれば、それは偽りです。優しい言葉も、そして厳しい言葉も含めて、それが御言葉だからです。
 エレミヤだけではなくイエス・キリストも、決して都合の良い言葉を語られたわけではありませんでした。当時の宗教者が差別や不正を働いていることに対して、神様の御心に反していること、そして神様に立ち返りなさいと言い続けました。聖書に出てくる人たちは、そんな言葉を語っていきました。キリストは、本当に人間にとって都合の悪い、神の言葉を語り続けたのです。
 人間にとって都合のよいこと。それを語り、そして聞き続けていくのであれば、それは偽りです。信仰者が歩む真実の道は、御言葉によって、そして祈りによって与えられていきます。神様の言葉に生きて、神様の言葉に救われて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。



2020年9月6(日)  説教題:「光の子」  聖書;エフェソの信徒への手紙 5章6~20節
 エフェソの信徒への手紙は4章以下から「古い生き方を捨て、新しい生き方を生きる」ことが言われています。なので8節には「以前」と「今」という過去と現在を表す言葉を使い、新しくされた今を生きていることが語られています。その新しい生き方は「主に結ばれた」歩みです。これを広く捉えるのであれば、「キリストに出会う」と解釈できます。キリストに出会う前の生き方は「暗闇」、キリストに出会った後が「光」です。イエス様に出会った自分、私たちは「光となっています」と書かれています。
 光という言葉には、プラスのものが詰まっているように感じます。「あなた自身が光である」と言われたとき、どうでしょうか。私でしたら、自分が光っている、光としてある、とは、あまり自信を持って言えません。聖書に書かれているような光の存在とは、どこか遠く思ってしまいます。
 ですがこの「光」、そして「光の子」とは、自分たちが思っているような理想像としての光、人間の側からイメージする光ではありません。「こういうキリスト者像が正しいのだ」、「こういう子ども像が正しいのだ」と自分たちで決めておいて、そこに向かって努力していくというあり方ではないんですね。14節には「キリストはあなたを照らされる。」とあります。私たちは自分の力、自助努力で暗闇を克服していくのではありません。イエス様が私たちを照らしてくれて、主に結ばれて光になることができるのです。だから自分に自信がなくても、私たちは光なのです。
 私はこども園でお話をするときに「イエス様がみんなのことを好きで、一緒にいてくれています」ということを伝えています。それは子どもだけではなく、大人たちも一緒です。照らしてくれるイエス様が一緒にいて、自信がない自分であっても光として生きることができる。このことを感じて欲しいからです。だからこそ保育現場では長年「光の子として歩みなさい」の御言葉が大事にされてきたのでありましょう。子どもたちだけではなく、大人たちも「愛されている」ということ、「一緒にいてくれている方がいる」と知ることは必要なんです。園に関わる子どもたち、そして大人たち、全ての人たちに、神様によって一人ひとりが大切な存在として目を留めてくれていることを、知って欲しいと願い、そんな救いがあることを伝えさせていただいています。私たちはキリストに照らされている光の子です。どれだけ世の中が暗くても、そして私たちの心が暗闇のように沈んでいても、私たちは照らされている光の子です。イエス様の光に照らされて、光の子として歩んでまいりましょう。