説教要約(8月)

2020年8月30(日)  説教題:「あいさつ」  聖書;コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1~9節
 私たちは誰かに出会ったときに「あいさつ」をします。それは口だけではなく手紙でも同じことです。それは聖書に書かれている手紙でも同じです。今日の御言葉はパウロからコリントの教会に送られたあいさつです。ユダヤ人であるパウロとギリシア文化圏にあるコリントの教会は、あいさつで交わす言葉が違う文化の者同士でした。両者に共通しているのは信仰です。パウロによって伝道され、コリントの町にはキリストを信じる者たちが誕生しました。コリントの人たちとパウロに共通する信仰。それは、キリストを信じ、待ち望み、それを告白する信仰でした。キリストを信じる者同士だからこそ交わされたあいさつが、ここには記されています。
 この手紙のあて先は「コリントの教会にいる人たち」です。そこから「ソステネ」と呼ばれる人物の名前が出てきます。これはパウロと行動を共にした伝道の仲間の一人です。さらに、その両者を繋ぐのが神様とキリストであることが語られています。人から人へ、そして神様とイエス様へ。この手紙で交わされたあいさつは、そのように広がりを見せていきます。
 そして、これは私たちにも届いています。パウロは「召されて」、「使徒」となった者たちへとこの手紙のあいさつを送りました。現代を生きる私たちも、キリストに召されて働いていく一人ひとりです。これはコリントの人たちから私たちまで、神様とキリストによって繋がり、広がっていったあいさつなのです。
 あいさつには、応えが必要です。私たちは言葉や儀礼としてのあいさつではなく、キリストを信じることで、このあいさつに応えていきましょう。キリストを信じ、キリストを待ち望むこと。それが示されているあいさつへの応えは、信じて待ち望むことです。キリストが執成し、与えられていく神様の恵みは、終わることがありません。私たちはそのキリストと神様を信じ、それに応えていくのです。そして、その道は一人ではありません。あいさつは、一人ではできないからです。パウロがそうであったように、私たちも一人ではありません。共にあいさつを交わし、返し、共に礼拝の恵みに与る、信仰の友たちがいます。一緒に礼拝や教会生活を送る仲間がいます。それは、同じキリストを信じ、同じ神様を見上げる仲間たちです。これが、いまこうして礼拝のときを過ごす私たちに与えられている、最も良いもの、賜物なのです。

2020年8月23(日)  説教題:「世に打ち勝つ人」  聖書;ヨハネの手紙Ⅰ 5章1~5節
 私たちが普段何気なく使っている言葉は状況や文脈によっていろんな意味を持つことになります。本日の御言葉に書かれている「打ち勝つ」という言葉。これを「不正や差別に打ち勝つ」と平和の言葉として使う人もいれば、「他国に打ち勝つ」と戦争の言葉として使う人もいます。言葉にはいろんな意味があるからこそ、私たちキリスト者はどのように聞いて、どのように話していくのか。戦争の言葉と平和の言葉を、御言葉に聞いてまいりましょう。
 このヨハネの手紙が書かれた当時は、キリスト教が迫害されていました。その迫害に打ち勝って生き延びるために書かれたものです。そのために「打ち勝つ」、「勝利」という言葉が並べられています。しかし、そのような背景を踏まえずにこの箇所を読むと、信仰が勝利至上主義のように聞こえてしまいます。それは今の世の中で盛んに勇ましい言葉が並べられているからかもしれません。コロナの世になり「コロナという敵からの勝利を目指して」ということが声高に言われるようになりました。これらは戦争を想定されている言葉です。このような状況を見過ごしていれば「戦う」こと、「打ち勝つ」ことが日常の言葉として浸透してきます。これに慣れてしまう状況は非常に危険であると私は思っています。言葉の使い方を日常的に刷り込まれていくなかで、仮想敵の病気から他者を排除することを教え込まれ、戦う道へとなだれ込んでいってしまうのです。これは聖書が悪い、聖書が間違っているのではありません。あくまでも争いを重ねてきた人間の問題です。だからこそ、私たちも言葉を吟味して使う必要があるのではないでしょうか。戦争の言葉ではなく、平和の言葉を。為政者の言葉ではなくキリストの言葉を求めていきたいと思うのです。
 そして本日の御言葉には戦争の言葉を使って争うのではなく、平和の御言葉によって愛し合うことも教えられています。それは「神の掟」についてです。この掟はヨハネの手紙3章23節に書かれています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」私たちに与えられた掟は争うことではなく、互いに愛し合うことです。こんな世の中ですが、それでもキリストは愛し合うことを私たちに教えてくれています。これが平和の言葉です。言葉はいろんな意味を持っています。それが命を奪い、助けを求める声を封じるような戦争の言葉になるのか。キリストの慰めと愛によって生きる平和の言葉になるのか。世に打ち勝つ人と言われた私たちキリスト者は、どのような言葉を使っていくのでしょうか。イエス様は互いに愛し合うことを教えてくれました。私たちも平和の言葉によって互いに愛し合うことが赦されています。御言葉の力は大きなものです。私たちは平和の言葉を聞き、平和の言葉を使い、平和のために遣わされてまいりましょう。

2020年8月17(日)  説教題:「行きなさい」聖書; マタイによる福音書9章35~10章15節
 キリストの働きは教え、宣べ伝え、癒すというものでした。これはイエスの権能と呼ばれています。これが出来るのはイエス様だけでした。まだイエス様に会っていない人たちは、教えられず、宣べ伝えられず、癒されていません。それをイエス様は「飼い主のいない羊」のようであると言われています。ですので、弟子たちに「働き手が与えられるように祈りなさい」と語っていました。ここで9章は終わっています。10章になるとイエス様は弟子たちを集めて、イエスの権能を与えられました。そして派遣していきます。イエス様と同じような者として、行きなさいと遣わしていかれました。
 少し前まで祈りなさいと言われた弟子たちが、今度は派遣される者となりました。イエス様が天に上げられた後、弟子たちはこの言葉に従って教え、宣べ伝え、癒していきます。それは最初の使徒からキリスト者たちへと遣わされて行き、現在まで受け継がれています。ここでのイエス様が遣わす「行きない」という命令は、今も響いているのです。 
 キリストは私たちを「行きなさい」と遣わしています。しかし、現在は他者との接触を避けるために、これまでのように伝道に遣わされていくことが適いません。これから先はどうなってしまうのでしょうか。そんな伝道への道が閉ざされているように思うこの時に、この御言葉は与えられました。弟子たちは「祈りなさい」と言われた後に遣わされました。まず祈って、それから出ていくことを言われています。イエス様に与えられた働きを成していくことは、祈ってから出ていくことによって適っていきます。自分たちが出ていきたいときに出ていくのではなく、祈りによって示された時の中で、初めて出ていくことが適うのです。伝道へと出ていくことは、人の生きたいタイミングで行くのではありません。祈ってその時が与えられたときにイエス様が命令してくれます。「行きなさい」と。イエス様が遣わすのは、人間の思っているようなタイミングではありません。人間にとっては思いもよらないタイミングです。神様だけが知る、神様が良しとされた時の中で、人は遣わされていきます。弟子達がそうであったように、人間に「行きなさい」と言われ、必要なところで、必要なことを行っていく。そのためにイエス様は人を遣わされるのです。「行きなさい」と言われ、私たちは遣わされていきます。いまは祈り待つときです。湖山教会にも祈る時がこうして備えられています。そしていつかキリストが「行きなさい」と私たちに命じられたとき。キリストのために働いてまいりましょう。


2020年8月10(日)  説教題:「主の死を知らせる」聖書;コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23~26節
 この御言葉は聖餐式で「制定語」として読まれる言葉です。聖餐式を制定されたのは、ここに書かれているようにイエス様です。イエス様が制定された聖餐式には目的があります。一つは「わたしの記念としてこれを行いなさい」。もう一つは「主の死を告げ知らせるのです」。これは現代の聖餐式にも受け継がれています。
 一つ目の目的で言われています「記念」とは、「想い起こす」という意味の言葉です。聖餐式ではパンとぶどう酒をもってイエス様の体と血を想い起こします。十字架での死と受難によって裂かれた体が、裂いて分けるパンです。流された血がぶどう酒です。このぶどう酒によってこれまでの人間と神様との関係も洗い流されました。イエス様の流された血が新しい契約となり、血縁や家柄、民族ではなく信仰で結ばれることが適います。この血による新しい契約により、神と人、人と人とが結ばれます。そのような意味の込められたパンとぶどう酒を、私たちはイエス様の記念として味わうのです。
 もう一つは「主の死を告げ知らせる」ことだと書かれています。「キリストが全ての人の罪を背負って十字架に架かり、人間と同じように苦しんで死んでくれた」。これが主の死に現わされているのは私たちへの救いです。ですが、これは壮大な出来事ですので、「全ての人のために」と聞けば自分がその中で埋もれているように感じることもあるでしょう。しかし、これは間違いなくあなたのためです。この「あなたのために死なれた」という恵みを聖餐式は知らせていきます。誰に知らせるのでしょう。それは広く世に伝えると同時に、自分自身に改めて告げ知らせていきます。誰かに行いとして聖餐を伝えていくと同時に、私たちは自らが記念することで自身へと主の死を、そこで現わされた赦しの恵みを知ります。そのために、主の死を告げ知らせていくのです。
 これが聖餐式の目的です。しかし、いま私たちはコロナ禍によって聖餐を守ることが困難な状態です。これは変化を求められているのかもしれません。聖餐式も時代に合わせて変化してきました。世界ではアルコール依存症や免疫力の低下する感染症をお持ちの方も聖餐に与かれるよう、既に共用のぶどう酒やパンを取りやめている教会もあります。聖餐の形は変わっていないように見えて、じつは少しずつ変化してきました。それは聖餐がこれからも信仰者にとって必要な営みとして守られていくようになるためです。キリストは新たな聖餐の形も、御言葉や御心を通して制定してくださいます。大切なのはキリストを記念し、主の死を告げ知らせ続けていくことです。この確かにされた目的を忘れない限り、どのような形であってもそれは神様に与えられていくはずです。キリストに委ね、神様の御心に尋ねながら、主の死を告げ知らせていくために祈り備えてまいりましょう。


2020年8月3(日)  説教題:「虹の約束」   聖書;創世記9章8~17節

「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記656節)これによって起こった洪水の出来事の中で、ノアとその家族、動物たちは生かされました。洪水が引いて地上へと戻っていくとき、神様は契約を与えられます。「契約」とは神様が人間と交わしてくれた約束です。神様と交わされた契約の目的は、人間への救いでした。それは神様との良い関係によって与えられます。神様と人、人と人とが和解するために、神様は救い主や十戒など様々な形で人間と契約を結んでくださいました。この契約にはしるしが置かれます。それは雲の中に置かれた虹です。神様は和解のしるしに、なぜ虹を置かれたのでしょうか。

虹は英語で「rainbow」です。「rain」は雨、「bow」は弓でありまして、雨に架かる弓という意味になります。「rainbow」は弓と関わりの深い言葉なんです。それは旧約聖書の原典であるヘブライ語でも一緒です。「虹」を意味する言葉は「弓」を意味する言葉から派生していきました。そして古代の神話やヨハネ黙示録で「弓」は神の武器として登場しています。神様はもともと武器であった「弓」を「虹」として雲の中に置き、それを和解の契約のしるしにされました。人を殺める武器は和解のしるしに変えられます。全ての命が虹を通して神様と和解していただくことが適います。敵意という武器を和解へと変えるために、神様は虹を契約のしるしとして置かれたのです。

武器を和解へと変えてくださるのは神様です。人間は物質としての武器だけではなく、創世記の時代の人間と同じように、その内側に悪意という武器を持っています。特に最近の日本ではコロナウイルスへの恐怖から、その悪意が簡単に人へと向けられるようになってきました。自分とは違いのある他者への悪意が積み重なり、差別と戦争へと発展していきます。私たちの持っているこの武器も、神様によって和解へと変えていただかなければなりません。和解へと招いてくれるのは、強固な軍事力ではありません。強弁をふるう政治家でもありません。雲の中に虹を置き、私たちと約束を交わしてくれた神様です。この神様に立ち帰るとき、人間は悪意という武器を和解へと変えられ、共に平和へと歩んでいくことが適います。それが神様と人間との間に置かれた永遠の契約、虹の約束なのです。

虹の約束は神様が人間に与えてくれた和解のしるしです。いまでも虹は雨の後、私たちにその美しい姿を見せてくれます。その虹が弓となって世界を滅ぼされることは決してありません。だから私たちは、安心して美しい虹を眺めることができるんです。そして、それを眺める私たちは、平和へと想いを馳せ、キリストと共に祈る平和を作り出すものです。虹の約束をしてくださった神様は、武器を和解へと変えくださいます。私たちのもつ武器を和解へと変えてくださるは、神様です。この神様に心を向けて、平和を祈り求めてまいりましょう。