説教要約(6月)

2020年6月28(日)  説教題:「揺れ動く」  聖書;ヘブライ人への手紙12章18~29節
 ヘブライ人への手紙は迫害の中にあったキリスト者へと送られたものです。受け取った人たちはこれによって励まされました。この箇所では旧約聖書をもとに書かれています。モーセの時代、神の民は救いの契約を受け取りました。しかし、人々はそれを破ってしまいます。そこで神様はキリストを世に送られました。これによって人の罪は赦され、新しい契約が結ばれます。そして神様は再び天と地を揺り動かすことを約束されました。キリストに結ばれている者は、揺り動いても消え去らない御国を受け継いでいます。だから喜びなさいと、手紙には書かれています。これが迫害の中にある者たちへと送られた励ましです。強大な力が自分や仲間たちを攻撃してきます。それでも、自分たちは良いものを受け継いでいる。この希望に励まされて、揺れ動く自らがキリストに留まることができたのです
 ここでの「揺れ動く」とは、終末が訪れることを指していました。天や地が揺れ動くのは、壮大な出来事です。それだけではなく、私たち自身も揺れ動くことが訪れていきます。
 キリスト者であれば様々な要因で信仰が揺れ動くときが訪れてまいります。どれだけ固くキリストを信じることを決めたとしても、人間の決意は弱く、揺らいでしまいます。また、キリスト者でなかったとしても、揺れ動く時は訪れます。自分に自信が持てなかったり、必要とされていないと感じてしまったり。自らの存在が揺らいでしまうことも訪れます。私たちは年齢や立場に関係なく、いろんな場面で揺れ動いていくのです。
 揺れ動いているときは、不安定になり心が騒ぎます。しかし、揺れ動いた後には残されていくものがあると聖書には書かれています。(27節)全てが消え去るのではなく、それぞれに必要なものを神様が残してくださるのです。そして揺れ動く私たちを支え、そして共にあるのがイエス様です。揺れ動く私たちを支えてくださいます。そして揺れ動いた後にキリストもその内側に残されていくのです。
 迫害にあるキリスト者たちは、揺れ動かない救いがあることを伝えられて、励まされました。私たちにも、神様は揺れ動かないものを用意してくれています。神様は揺れ動く私たちを確かに支え、導いてくれているのです。


2020年6月21(日)  説教題:「内にある油」  聖書;ヨハネの手紙Ⅰ 2章22~29節         
 本日の御言葉には「反キリストに惑わされないため、御子から注がれた内なる油によって、キリストに留まりなさい。」と書かれています。
 聖書の時代、油が注がれることは特別な意味がありました。王様、預言者、祭司など特別な仕事に就く人は、頭に油が注がれる儀式を経て任職されます。それは人々を救う者として立てられるためです。そして「キリスト」という言葉は「油注がれた者」という意味を持っています。人間の役職から救い主を指すことへ、油注ぎは変化していったのです。
 この油が「あなた方の内に」注がれていると、聖書は示しています。キリストが私たちに注がれた油は、どのような意味を持つのでしょうか。キリストは私たちをこの油注ぎを通して、キリスト者へと新しくされます。どこで何をしていても、私たち一人ひとりはキリスト者です。教会に関係していても、関係していなくても、キリストに油注がれた者として世で生きています。その歩みはキリストに任職されたものです。キリストに油注がれることは、「自分が何者であるか」ということを導かれる出来事です。これは「職業をキリストによって導かれる」という話ではありません。キリストの任職は、あなたがどんな人間で、どんな生き方をしていくのか。キリスト者として油注がれ、どう歩んでいくのか、ということを導かれる出来事です。これは「何か教会のために特別なことをしなければならない」ということでありません。あなたへとキリストが必要な働きを示し、これまでのように導いてくれる出来事です。私たちはキリストによって油注がれ、何者かへと生きる道が備えられ、その道をキリスト者として歩んでいくのです。
 この歩みは言葉で明確に示されるものではありません。迷い、不安になるとき現れてくるのが、反キリストです。反キリストは外部からくる他者だけではありません。自分の内側から現れ、キリストの任職とキリストと出会った出来事を否定してしまいます。これは自分の否定にも繋がる恐ろしいことです。そういった事態に陥ってしまわないため、聖書は「キリストにとどまっていなさい」と教えています。人間は惑わされて反キリストとなってしまう弱さを持っています。しかし、その弱さを知るキリストは、その内に留まることを赦してくれました。その中で生きる歩みは、キリストがその油注ぎによって任職してくださいます。この導きに委ねて歩んでまいりましょう。

2020年6月14(日)  説教題:「あなたの近くに」  聖書;ローマの信徒への手紙10章5~17節
 ローマの信徒への手紙は伝道者パウロによって書かれました。彼はこの手紙で、努力などではなく、ただキリストを信じる信仰によって救われることを教えています。
 それまでは律法を守れる状況にある人こそが救われると考えられていました。しかしイエス様もパウロも、律法を廃止しようとしたわけではありません。神様から与えられた律法を破棄するのではなく、その律法によって、キリストを信じる人が救われることを証しようとしました。律法が悪なのではなく、それを解釈する視点を変更することを教えています。
 「律法を守ること」という行為ではなく、「キリストを信じること」によって救われることを、パウロは示しました。それによって救われるのは誰でしょうか。こまれまで「救われない人たち」として扱われてきた、律法を守る生活を送ることができない人たちです。あるいは、ユダヤ人ではない外国人です。民族や立場に関係なく、神様は人を救おうとしている。この恵み深い神様の業は、聖書を通して現代でも伝えられているのです。
 12.13節にはこう書かれています。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」肌の色や民族。私たちは世界的にも多くの違いを持っています。そして身近な部分では、教会の中でも一人ひとりに違いがあります。しかし、その違いがあったとしても、神様はどの人も救おうと計画してくれていました。その救いに与かる者を、神様は民族や考え方の違いで制限されることはありません。私たちは一人ひとり、神様によって救われる者たちなのです。
 そんな救いの福音、御言葉が私たちの近くには置かれています。(108節)。この御言葉によって違いがある者たちが、同じ神様を信じるために導かれました。いろんな「違い」を持つ私たちですが、私たちも、そして違いを持つ誰かもまた、神様に愛されている一人です。神様によって和解と、共に生きるための道を備えていただくことが適います。御言葉によって歩んでまいりましょう。


2020年6月7(日)  説教題:「その先」  聖書;ヨヘブライ人への手紙7章20~28節
 ヘブライ人への手紙にはイエス様が「永遠の大祭司」として記されています。大祭司とは当時の神殿で動物や穀物などの生贄を捧げることで、神様に赦しを祈り求める仕事をする人です。神様と人間とが関係を持ち続けられるよう、働いていました。しかし、イエス様は「永遠の」大祭司とここでは呼ばれています。人間の大祭司は死によって代替わりがされてきました。しかし、イエス様は天にあってずっと大祭司として働いてくれています。ですので、代替わりをする必要がありません。そして決まった時期に贖罪の生贄を捧げる必要もありません。人間の大祭司は生贄の動物や穀物を捧げていきますが、永遠の大祭司はただ一度きりの生贄を捧げました。それはイエス様ご自身です。十字架によりイエス様が死んだことで、全ての人間の罪を赦す贖罪の捧げ物になりました。それは永遠の大祭司が捧げる、永遠の捧げものです。これにより、神様と人間の関係が執り成され、もう人は生贄の動物を燃やさなくても良く成りました。永遠の大祭司によって、神様との関係は修復されていったのです。
 人間には限界があり、その地上での命はいつか終わりを迎えます。ですが、そこを越えた永遠の中にいるのがイエス様です。永遠でない私たちが、永遠のイエス様へと託していくことの出来るようにして下さるのです。私たちの限界、その先を保証して下さる方。それが永遠の大祭司として働いておられるイエス様なのです。
 イエス様は今を生きる私たちのことも、執り成してくれています。その営みは終わることがありません。永遠の大祭司の働きに、終わりはないからです。いま、ここにいる私たちにも、終わりの時は必ずやってきます。ですが、終わるけど、それで終わりではないんです。私たちの終わり、その先には、イエス様がいます。ずっと執り成し続けているイエス様が、私たちの地上での命が終わった後も働いてくださっています。
 そして私たちも永遠の命に与かり、私たちもまた、その先の中を、イエス様と共に生きていきます。
 人には限界があり、終わりがあることを恐れます。そんな弱さを持っています。ですが、イエス様は、その先で待っていてくれています。限界の、終わりの先を示されるキリストに委ねてまいりましょう。