説教要約(5月)

*新型コロナウイルス感染予防対策の一環で、4月12日から礼拝堂における聖日礼拝を中止し、各自が家庭で礼拝を守っていましたが、5月31日
  から礼拝堂での礼拝を再開しています。
2020年5月31(日)   説教題:「枯れた骨の復活」  聖書;エゼキエル書37章1~14節
 エゼキエルはバビロン捕囚の時期に活動した預言者です。バビロニアに捕虜として連れていかれたユダの人々の生活は、ある程度の自由が保障され、商売や集会も認められていました。しかし、神殿が破壊されそこで礼拝できないことによって、大きな喪失感を覚えています。そしてバビロニアに連れていかれた人たちは「神様に見放された」と嘆き、神様との繋がりがなくなったと思っていました。そんな人たちへの言葉を預けるために、神様はエゼキエルを遣わしました。「裁きとしてのバビロン捕囚が終わると、その罪が赦されて再び故郷に帰ることができる。」人々のことを神様は見捨てていないと、神様はエゼキエルを通して語られたのです。
 37章にはそのことが「枯れた骨の復活」を通して記されています。ここでの枯れた骨は神様との繋がりを見出せずにいる人たちです。肉も筋もない骨にエゼキエルが預言すると、体が復活しました。しかし霊が入っていないので、まだ復活は完成していません。神様の息吹である霊により命が吹き込まれ、枯れた骨に回復が与えられます。霊によって命が与えられ、人々は再び神様との繋がりを持つことができたのです
 捕囚の中にある人々は、生活には困っていないけれども神殿での礼拝が出来ずに枯れてしまっていました。この様子はまるで、礼拝を自粛している私たちのようです。もちろん、コロナウイルスの世界的流行は神様の罰ではありません。しかし、私たちも神様に与えられた会堂での礼拝をする機会を失われてしまいました。全国の教会と同じく初めての事態です。未曽有の事態を前に、礼拝を通して養われてきたことを痛感しています。
 ペンテコスはキリストの約束してくれていた聖霊が人々に降ったことを記念する日です。枯れた骨が霊により復活させられたように、私たちもイエス様の名による聖霊を通して、命が与えられます。この聖霊が与えられたことを覚える日に、礼拝を再開することができました。私たちにも聖霊を通して神様は、回復の時を備えてくれています。必要な営みとしての礼拝に、神様は私たちのことを再び招いてくださいました。内側に生きた水を通してイエス様が潤いを与えてくださったように、キリストが約束してくれた聖霊が、私たちの命の霊として、これからも養ってくれるのです。
2020年5月24(日)   説教題:「来ることができない」  聖書;ヨハネによる福音書7章32~39節
 信仰生活が厳しい状態にあることを「信仰の渇き」と呼ぶことがあります。礼拝が自粛している7週間。渇きを覚えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。本日の御言葉にはこのように書かれています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」ユダヤ人たちの前で語られたこの言葉は、私たちにお向けられています。サマリアの女性が渇きを満たされた出来事のように、私たちにも生きた水を通してイエス様は臨んでくれているんです。
 渇きを潤す生きた水は“霊”であると、39節には書かれています。ここで言われているのは、キリストが降ることを約束してくれた聖霊です。渇く者たちへ、イエス様は霊を通して満たしてくれることを、このよう約束してくれていました。聖霊はイエス様が昇天されてから再臨されるまで、「わたしは共にいる」という約束のもとに与えてくれたものです。この聖霊を通して、私たちもイエス様と出会っていきます。サマリアの女性がイエス様と出会い、そして受け入れられたように、聖霊を通して私たちはイエス様が共にいてくださる道を歩むことができるのです。
 渇きを癒してくださるのは、人間の力ではありません。キリストの名による聖霊です。イエス様は聖霊を通して私たちを満たしてくださいます。来週はその霊がくだったペンテコステです。このペンテコステから礼拝を再開しようと計画しています。コロナウイルスという目に見えない脅威によって、私たちは集まることができませんでした。しかし、そのような力によって礼拝が出来ない期間も明けようとしています。目に見えない脅威に恐怖しましたが、今度は目に見えない聖霊によって、その渇きが癒されていきます。
 ユダヤ人たちが「来ることができない」と言われたように、イエス様の救いの業は、疫病が流行ろうとも止められるものではありません。渇きを潤し、救いへと招くイエス様の業は、再び進められます。どれだけ渇きを覚えたとしても、私たちはいつまでも渇いたままではないのです。
 そして「来ることができない」と言われた人間たちは、十字架と復活の出来事を通して赦されました。聖霊により渇きは潤いを与えられ、いまでもキリストは人間と共に歩んでくださっています。かつて「来ることができない」と言われた者たちは、キリストによって救いへと招かれることが赦されました。私たちもまた、自粛の期間を越えて、キリストによって招かれて渇きを満たしていただけます。どのような場所であっても、そしてイエス様を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになるのです。


2020年5月17(日)   説教題:「世の光」   聖書;ヨハネによる福音書8章12~20節
 仮庵の祭りでイエス様は人々に語り掛けます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」イエス様は仮庵の祭での大きな燭台の光の前で、自らが世を照らす光であることを言い現わしました。これを聞いた人々は反発します。イエス様を遣わしたのが神様であることを信じられなかったからです。
 今まで常識であった律法を越える者が現れ、それを信じられない人々の気持ちも分かります。人間はこのようなときに脆いものです。律法の言葉の通りに生活をしていれば、私は大丈夫。私は救われる。そう思っている人たちとして、ファリサイ派、律法学者、祭司と呼ばれる人たちが新約聖書には記されています。これは「私たちの救い」ではなく「私の救い」。自分だけが救われること、罰せられないことばかりに気が向いてしまっているのです。人間は律法を利用して、イエス様だけに限らず他人を攻撃してしまいました。神様の御心ではないことを、神様の与えられた律法によって行ってしまったのです。
 そこに和解をもたらす者がイエス様です。「私」を「私たち」にする者として、イエス様は遣わされました。人々は自己保身に走り、律法を使って違反者を咎めようとしています。イエス様にも、他の人にも、憎しみが向けられているのが「世」です。しかし、神様が律法を与えたのは、神様を信じる者たちに、救いの約束をするためです。誰かを裁くのではなく、救いと和解のための歩みが始まります。その道を通して「私」が「私たち」へと変えられるのです。「私だけ」が救われるのではなく、「私たち」が救われるように、イエス様は世を照らす光として来られたのです。
 イエス様は「世の光」として来られました。それは世を照らす光であります。イエス様が「世に勝っている」「世の光となる」言われるときの「世」、「この世」はイエス様を敵とした「この世」であります。イエス様を殺し、十字架に架けた「世」です。しかし、神様はこの世を愛し、イエス様を遣わされました。イエス様はそんな「世」の光として、時に大きく、時に小さく、照らしてくれています。その光を信じ、導かれながら、歩んでまいりましょう。


2020年5月10(日)   説教題:「世の憎しみ」   聖書;ヨハネによる福音書15章18~27節

イエス様は15章の前半で「愛」について語られました。私に繋がって愛を受け、互いに愛し合いなさいと、弟子たちに語ります。18節からは一転して、「憎しみ」について語られます。憎むのは「世」です。

「世」はヨハネ福音書の中で二面性をもって語られます。神様は「世」を愛しているがために、イエス様を遣わされました。イエス様にとってこの世は伝道する相手であり、愛する対象です。しかし世はイエス様を知りません。イエス様を憎みます。イエス様は世を愛しているのですが、世はイエス様を憎んでいる。そのような中でイエス様は活動していかれました。

「憎む」という言葉にはいくつかの意味があり、それは聖書の中で異教徒を軽蔑するときに使われてきました。この場合の異教徒は他の神様を信じている人、自分たちと考えの違う人たちです。イエス様がユダヤ人たちに憎まれる原因となったのは、自分が神の子であると言ったこと、そして人々の罪を白日のもとに晒して悔い改めを告げたことです。このようなイエス様の言うことを受け入れられない世は、イエス様を憎みました。「自分たちが信じている神様が絶対に正しい」とする考えの中に隠された、権威や力、そして財産を求める欲望です。それを否定し悔い改めを告げるイエス様は、世と対峙しました。そして「世」は「憎む」ことでしか、対処できなかったのです。

憎しみの世は現代も続いています。特に最近は憎しみが市民の分断を招き、国が責任を放棄しています。そんな中で私たちキリスト者に求められるのはどのような生き方でしょうか。2627節でイエス様は、真理の霊を受けて証をすることを言われています。真理の霊である聖霊は、イエス様のことをことごとく思い起こすものです。(1426節)イエス様は憎しみを向ける世を愛し、互いに愛し合いなさいと言われました。世の憎しみは大きく、時に私たちも飲み込まれそうになってしまいます。しかし私たちはキリストによって選びだされ救われた、キリストに属する者です。私たちが属するのは、世の憎しみではありません。愛を持って繋がってくれているキリストです。世の憎しみによって押しつぶされそうな時。そんな時にも、真理の霊が私たちに臨んでくれています。世の憎しみではなく、愛のキリストによって生きるために。私たちはキリストに属することが、赦されているのです。


2020年5月3日(日) 説教題:「わたしの羊を飼いなさい」 聖書;ヨハネによる福音書21章15~19節
 イエス様はペトロに言われました。「わたしの羊を飼いなさい」イエス様にとっての羊とはイエス様を信じる人たちと、その集まりである教会です。地上を去って天に上るイエス様は、羊飼いとしての役割をペトロに任せようとしています。そのためにイエス様は「わたしを愛しているか」とペトロに問いかけました。三回も聞かれたことでペトロは、悲しくなりました。しかしここで三回聞くことは、羊飼いとして立てられていくうえで必要なことでした。それはペトロがかつてイエス様のことを3回「知らない」と言ったからです。
 イエス様が捕らえられる前の晩、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と固い決意をもっていました。ですがその決意は崩れ去り、イエス様の弟子であることを三回否定しまいます。この三回の否認をイエス様は三回愛しているかと聞くことで赦そうとしたのです。過去の否認を変えることはできません。しかし、その弱さを赦されることは適います。イエス様によって導かれた三回の愛の証明によって、三回知らないと言った弱さは赦されました。三度「知らない」と言った人は、三度「愛している」と言うことで赦されたのです。ペトロはその赦しと共に羊飼いとして遣わされていきます。ペトロの犯した罪も、その弱さも、イエス様は受け入れてくれました。そして羊を飼う働きを委託されたのです。
 イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして「わたしに従いなさい」と言っておられます。羊飼いとしての働きをペトロに譲ったのですが、私たちがイエス様のものであることに変わりはありません。伝道への働きを委託される信徒も牧師も、そして教会も、ペトロのように弱さをもっています。しかし、その弱さをキリストは知り、世へと遣わしてくださいます。いまの私たちは会堂に集まることができません。あまり積極的に世に出ていくことも適いません。ですが、イエス様にとっての私たちは「わたしの羊」です。それはどのような状況であっても変わりません。不安な世を生きていますが、世で生きることはキリストによって世で生かされていることです。キリストの羊である私たちは、どんなときでもイエス様によって養われているのです。