説教要約(4月)

*新型コロナウイルス感染予防対策の一環で、12日から教会堂における聖日礼拝を中止しています。聖日には、各自が家庭で礼拝を守っています。
2020年4月26(日)  説教題:「見ないのに信じる人」  聖書;ヨハネによる福音書20章24~29節
 本日の御言葉ではトマスがイエス様の復活を信じられない様子が書かれています。「疑り深い人」として有名なトマスですが、彼はイエス様に情熱を持ってついていく人であったように思います。だからこそ、他の弟子たちが「わたしは主を見ました」と言っても信じられなかったのでありましょう。復活のキリストが自分だけに姿を現してくれなかった、ということが、納得できなかったのかもしれません。
 弟子たちは再び州の始めの日に集まりました。そして再びキリストは姿を現し、トマスへ傷に触れるように促します。しかしトマスはもう、傷に触る必要はありません。キリストが自分のために来て、その傷に触れるように言ってくれたからです。十字架に限らず、傷は触れられると痛みます。その傷をトマスのために再び痛めようと、キリストは言ってくれました。疑い迷って失敗を繰り返す人間に、イエス様は何度でも十字架の傷を痛めてくれます。トマスはその愛に触れました。傷跡ではなくその愛に触れることで、トマスは復活のキリストを「私の主、私の神よ」と信じる者へと変えられたのです
 トマスがそうであったように、私たちもいま集まることができません。この自粛要請によって、全国で鬱のような症状になる方が増えておられるそうです。これは自宅待機が長引く中で「自分が社会にとって必要とされていない」、という思いにさせられてしまうことが原因だと言われています。世の中にとって自分の存在が不要不急であると考えてしまうのです。これはまるで、トマスさんのようです。私たちも一同に集まることができず、それぞれが一人でいます。ですが、そんな私たち一人ひとりのために、イエス様は現れてくれるんですね。「弟子たち」という集まりではなく、トマスという一人の人間のためにキリストは会いに来てくれました。いまこうして自宅での礼拝を守っているあなた個人のもとにキリストは来てくれるのです。そして何度でも私たちのために、十字架の痛みを負ってくださいます。私たちの苦しみを共に苦しんでくれます。愛する弟子の一人であるトマス、そして私たちのためにイエス様は何度でも来てくださり、必要な弟子の一人として慰めてくださるのです。
 トマスさんはイエス様の愛を見ないでは信じられませんでした。私たちも同じような弱さをもっています。しかも、ウイルスの脅威にさらされている昨今、見えないものは恐怖でしかありません。ですが、見えない恐怖と同じくらい、見えないものに私たちは守られています。姿の見えないイエス・キリストは、姿が見えないままで私たちのもとに現れてくださいます。この見えないキリストを信じる者は、幸いです。キリストと出会い、そして何度でも贖われていく、幸いな者です。私たちも一人で居て集まることはできませんが、見えないけれどもキリストが共にいてくださいます。見えない愛によって守ってくれています。見ないのに信じる人として、キリストと共に礼拝を守ってまいりましょう。


2020年4月19(日)  説教題:「あなたがたを遣わす」  聖書;ヨハネによる福音書20章19~23節

イエス様が十字架で死に埋葬された後、弟子たちは部屋に籠っていました。イエス様を処刑した権力の矛先が、自分たちに向かってくることが怖かったからです。それは「週の始めの日の夕方」です。この日の朝早く、イエス様は復活されました。マリアの前に姿を現し弟子たちは「私は主を見ました」と報告を聞きます。イエス様の復活を知るきっかけは与えられていました。しかし弟子たちは信じることができません。復活の知らせを信じるよりも、恐怖の方が勝っていたからです。弟子たちは恐怖に支配されています。それで家に籠り、復活を信じることができなかったのです。

しかし鍵のかかった家にイエス様が現れます。そして約束していた平安を与え、傷跡を見せました。弟子たちはそれを見て喜びました。贖いのしるしである傷と、「イエス様が私たちの真ん中にいる」という平和。復活のキリストによってこれを与えられ、弟子たちは喜んだのです。そして弟子たちは聖霊を与えられ、遣わされる者へと変えられました。赦しを告げる者として、救いを知らせる者として、弟子たちは遣わされていくのです。

恐怖に支配されている弟子たちの姿は、ウィルスの恐怖に支配されている今の世界と被ります。週の始めの日にも関わらず、私たちも鍵をかけて家にいることしかできません。ですが、私たちは集まっていなかったとしても「教会」という「共同体」です。神様に愛された湖山教会という「群れ」です。ウィルスや人間の恐怖など関係なしに、キリストは私たちの真ん中に現れます。そして何を言われるのか。この御言葉に書いてあるように、恐怖に生きる私たちの不安を和らげ、平安を与える約束を果たしてくれます。贖いのしるしを示してくれます。私たちはキリストによって与えられる平和によって、恐怖の支配から解放されて、和解への道を歩むことが適います。

教会ではなく家にいようが、そこに鍵がかかっていようが、そんなことは復活のキリストに関係ありません。恐怖の支配から解放するためにキリストは現れます。いま、それぞれの場所で礼拝をしているあなたのもとに、キリストは来てくれているのです。

キリストによって外に出ることの適わない私たちも、遣わされる者へと変えられます。このような状況で何が出来るのか、それはまだわかりません。ですがどこにいようとも、キリストが真ん中に立って平安を与え、赦しの証を示し、喜びを与えてくださる。そして遣わしてくださいます。私たちはどのような状況にあっても、弟子の一人としてキリストと出会い、遣わされていく者たちなのです。

2020年4月12(日)  説教題:「私は主を見ました」  聖書;ヨハネによる福音書20章11~18節
 マリアは泣いていました。イエス様の遺体が墓の中からなくなっていたからです。これは復活を意味するのですが、彼女はそのことをまだ知らず、泣く事しか出来ません。それほどまでに死に支配されていました。そのために墓と遺体にしか拠り所を見つけられなかったのです。
 そんな彼女を見つけイエス様は名前を呼びます。マリアは振り向きました。マリアが「振り向いた」ということは、イエス様が声をかけられたのは180度反対の位置です。これは立ち位置だけの問題だけではありません。マリアは死に支配され、その中を彷徨っています。その反対側、死の領域の外に立っているのがイエス様です。そこから振り向かせることで、死の中ではなく永遠の命の中にイエス様を探し出すことが出来ました。彼女が拠り所とするのは動かない遺体ではありません。永遠の命を生きるキリストです。復活のイエス様が姿を現されたのは、命への解放のためです。死の世界でしかイエス様を見ることのできなかった人たちへ、死の先にある永遠の命を示されました。これは命への呼びかけです。甦られたイエス様は死に支配されている人々に姿を見せて、涙を流す人を死の支配から解放し、命の中へと呼んでくれたのです。
 マリアは呼びかけられ、復活のキリストに出会いました。そして18節ではこのように話しています。「わたしは主を見ました」死の中にキリストを探し泣いていた彼女は、命の中に主を見ます。そして蘇りの命を、その恵みの喜びを伝える者として遣わされていきます。死の支配にあった一人の女性は、もうそこにはいません。呼びかけにより復活のキリストに出会いマリアは変えられました。永遠の命に祝されていることを知り、それを伝えていく一人へと変えられたのです。
 マリアは墓の前でキリストと出会い、主を見ました。キリストが姿を見せられるのはマリアにだけではありません。今を生きる私たちもキリストと出会います。教会の礼拝で、御言葉を通して、祈りや賛美の時を通して。あるいは神様が遣わされた信仰者や、何気ない日常の中で。私たちも主を見ます。
 マリアの名を呼んだイエス様は、あなたの名前も呼んでくれています。そこで私たちもマリアのように主を見て、また歩みだしていくことが適います。再び死に支配されそうになる時もあることでしょう。そんな私たちのために、何度でもその名を呼び、振り向かせてくれるのがキリストです。そして何度でも、わたしも主を見るのです。

2020年4月5(日)  説教題:「        」  聖書;