説教要約(3月)

2020年3月29(日)  説教題:「光」   聖書;ヨハネによる福音書12章27~36節
 受難節第5主日を迎え、受難日と復活日が近づいてきました。イエス様はエルサレムに入り、人々に十字架の時が近づいたことを語っていかれます。
 27節でキリストは「今、わたしは心騒ぐ。」と言っています。これはイエスが迷い、弱さを覚えている一言です。他の福音書に書かれているゲツセマネの祈りに似た場面となっています。十字架の死が迫る中でイエス様は死に恐怖し、弱さを覚えました。その姿はまるで人間のようです。キリストは神であると同時に人間でありました。神であり人。その両面を持っていたからこそ、人間の悩み苦しみを知ることができます。完全無欠の神様だったら、それは出来ません。人として生まれてくれたからこそ、人間の弱さを知って、弱い人間と共に歩む救い主となることができたのです。
 そんなイエス様は35節以降、自らを光に例えて語っています。イエス様の光とはどんな光なのでしょうか。建築の際に大工さんに聞いたのですが、場所によって光の強さを調整して家を建てるのだそうです。例えば会堂でしたら、聖書や讃美歌などの字を読むのに必要な光の強さがあります。反対にトイレやお風呂は、そこまで強い光は必要ありません。窓の大きさや壁の色も関わってきます。光の強さは目的によって変わってきます。この聖書で示されている光は、ギラギラとした眩しい、強い光とは思えません。イエス様は「心騒ぐ」と言われ、死への迷いや弱さを示されました。それでも「しかし」と言って、神様の救いの業が完成するために、十字架へと向かいます。弱さを持ちながらも、確かなもの。強く、まぶしくはないけれど、確実に私たちを照らしている温かい光。吹けば消えるような、ロウソクの光に近いのかもしれません。ろうそくの光は、小さく弱いものです。ですが、それは確実に光っています。そして、手を近づけると温もりを感じることができます。私たちに示された光はきっと、そんな光です。弱さや迷いの暗闇を全て消し飛ばしてしまうような、目的で光っているのではありません。暗闇も知り、それでも信仰者が共に歩んでいけるように光っています。世を歩んでいくキリスト者のために、弱くても確実に歩けるように光っているのです。そんな光のキリストが、今も私たちを照らし、共にあって道を照らし続けてくれているのです。


2020年3月22(日)  説教題:「たてられたもの」  聖書;詩編127編1節
 湖山教会では10年以上会堂建築について話し合ってきました。多くの方の祈りと働き、献げものを通して2019年度に新会堂が与えられました。
 建築に関わる一つひとつの出来事を通して、教会を作るのは人間ではない、ということを思わされます。この会堂を建てるために働いたのは人間です。計画を作っていったのも人間です。しかし、これを導き教会として建ててくださったのは神様です。建物を作ることは、図面と資金と土地があればできます。しかし、教会は神様が建ててくださるものです。詩編127編にありますように、神様が建ててくださるものでなければただの空しい建物です。神様が守ってくださるのでなければ、どれだけ立派な建物でも空しいものとなってしまいます。「教会堂」という建物が礼拝を通して「教会」になり、みなさんが集まることで「湖山教会」とされました。献金や仕事量に関係なく、ここは間違いなく皆さんの教会です。その真ん中にいてくださるのは、キリストです。神様の導きによって、新しい湖山教会が、与えられたのです。
 私たちには新しい器が私たちに備えられました。これを用いて私たちはどのように群れとして歩んでいくのでしょうか。1節に書かれている「建てる」という言葉には「回復する」という意味があります。これは壊された神殿や建物が回復したこと、「再建された」という意味での「回復」です。しかし、神殿が回復されることで回復させられるのは、建物ばかりではありません。そこに集う一人ひとりも、その建物に集まることでキリストと共に礼拝し、回復が与えられて出ていきます。最初に建築を協議し始めてから、13年以上の月日が流れました。この期間に働き、知恵を重ね、またいろんな意見をぶつけ、いろんな意味での「疲れ」を覚えられたことでありましょう。これから神様が回復のときを備えてくださいます。またイエス様は神殿を「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」と言われました。ここは祈りと礼拝、そして交流を通してイエス様と出会い回復して出ていく場所です。この場所を通して私たちは神様の群れとして歩んでいくのです。
 そのために、この会堂を献堂、神様にお献げします。神様にこの会堂を献げることで、この場所が神様の御心のために用いられていきます。人間が建てて人間がやりたいことをやっていく建物でしたら、それは人の思いつく範疇でしか活用できません。やはり、人間の力には限界があります。人の思いや計画を越えた形で働いてくださるのが神様です。これからこの会堂を用いて礼拝を守り、伝道し、そして回復が与えられていきます。この会堂を通して与えられる御業と、会堂を通して全ての人に与えられる恵みを、神様に委ねるのです。そして私たちは神様の御心のままに、委ねて、示された道を、自分たちの歩む道を心に留めてこれからも歩んでいくのです。


2020年3月15(日)  説教題:「パンの枚数」  聖書;ヨハネによる福音書6章22~40節
 私たちは今まで何枚のパンを食べてきたのでしょうか。そしてこれから、何枚のパンを食べれば満ち足りるのでしょう。食べても食べてもお腹は減ります。食べる物を求めて働き、命を繋いでいきます。食べてもなくならない食べ物があるとすれば、それは夢のような話です。そんな奇跡に遭遇した人たちがいました。それはイエス様がパンと魚を分けて5千人を満たしたとき、その場に居合わせた人たちです。人々は食べてもなくならないパン、その不思議なしるしを求めました。そのために移動するイエス様について行きます。
 そんな人々とイエス様の会話は、埒が明かないものとなっています。イエス様が「パンではなくそれを与えてくださる神様を信じなさい」と言っても、人々はパンを求めています。彼らが信じていたのはイエス様と神様ではなく、パンを増やす奇跡です。空腹を満たすパンと、それを可能にする奇跡の業を人々は求めていきました。人々が欲しかったのは御言葉ではなく、刺激的な奇跡や熱狂的な業の一つひとつであったのです。
 こんな人間たちに、イエス様は何をしてくれたでしょうか。埒があかなかったとしても、イエス様は人々を見放すことはしませんでした。何度も何度も語りかけていきました。ただただ語り続けていかれたのです。
 イエス様はその言葉を人々が信じられるように、このように語り続けながら、待っててくれているのです。信じることができない人の弱さを知り、私たちが信じることが出来ように、ただ、待ってくれているのです。37節には「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」とあり、39節には「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」と記されています。信じることが出来る人を、一人でも失うことは神様の御心ではないのです。信じられない弱さを持っているのが人間です。しかしながら、イエス様はそれを否定し、追い出したりはしないのです。埒があかない人間を、パンばかり気になる人間を、待っててくれているのです。そして十字架での受難と復活を通して、赦してくれているのです。
 私たちは満足のいくパンの枚数を覚えていくことはできません。どれだけ食べても、次のパンを求めていきます。これからのパンの枚数が気になり、それを与えてくださる方を忘れてしまうこともあります。しかしながら、そんな私たちをイエス様は待ってくれています。私たちはパンの枚数を覚えるのではなく、満たして下さる神様の恵みと、待っていて下さるイエス様の愛を覚えて生きていけたらいいですね。


2020年3月8(日)  説教題:「信じて帰る」  聖書;ヨハネによる福音書4章43~54節
 本日の御言葉の主題となっていますのは48節にあります「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というイエス様の言葉です。見て信じるのか、聞いて信じるのか。聖書は私たちにも問いかけています。
 イエス様は故郷であるガリラヤで歓迎されました。それは人々が癒しの業を期待し、奇跡を見せて欲しかったからです。カファルナウムから来た役人もその一人でした。彼は息子が病気で苦しんでいました。もうイエス様しか頼る人がいなかったのでありましょう。イエス様に家まで来て癒してもらいたいと願いました。イエス様は48節にあるように言われた後、父親にこのように言っています。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その言葉が与えられたのと同時刻に息子は癒されました。信じて帰ったときに、この家族に救いが訪れたのです。
 父親は見て信じる人であり、奇跡の業を求めていました。しかし、イエス様との出会いによって聞いて信じる人へと変えられます。イエス様によって変えられたのです。そして救いが訪れます。これは「イエスの言葉によって生かされる」という救いを体験した出来事です。父親は聞いて信じる者へと変えられ、イエスが私たちを生かすということを、信じて帰りました。息子が生かされたのは、イエス様の言葉が与えられたのと同時刻です。それは父親がイエスを信じたのと同時刻。イエスによって生かされていることを知り、信じて帰ったのと同時刻でした。この父親が変えられたように、私たちは「聞いて信じよう、聞いて信じよう」と努力して、信じられるのではありません。イエス様によって新しくされたときに、その御言葉によって生かされていることを知り聞いて信じる者へと変えられるのです。
 この父親だけではなく教会に集う私たちも、そんな歩みを続けているのだと私は思います。週に一度教会に集まって帰っていく。当たり前のように私たちが続けている営みです。ですが、最近ではこれが当たり前ではない状況になってきました。新型コロナウィルスに纏わる騒動が激化しています。集まらない方が良い状況の中で「集まる」ということを問い直す必要があるのかもしれません。現代では集まることへの代替手段がたくさんあります。それではなぜ、教会に集まるのでしょうか。それは信じて帰るためです。それぞれが自分の意志だけで教会に来るのではありません。神様によって招かれて教会に集まることができます。そして御言葉に聞き、賛美し、また出ていきます。それによって私たちは再び「イエスに生かされている」このことを実感していくのです。見えない神様が、そしてイエス様が私たちと共にいてくださることを知り、私たちはそれを信じて帰っていきます。この礼拝のただ中にもキリストが居てくださることを、私たちは身をもって知るんです。御言葉に、イエスとの賛美に、イエスとの交わりに、これらのために私たちは教会に来て、そして信じて帰っていきます。私たちは信じて帰るため、教会に集うのです。


2020年3月1(日)  説教題:「荒れ野の誘惑」  聖書;マタイによる福音書4章1~11節
 受難節を迎えました。イエス様が荒れ野で誘惑を受けられた40日間を覚えて、私たちは受難節の40日を過ごします。
 「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」と書かれています。神様は霊によってイエス様を導き、誘惑を受けさせました。人間が誘惑を受けて苦しむように、イエス様も同じ苦しみを受けてくれたのです。
 そして悪魔は三つの誘惑をイエス様に行います。パンいう「食糧」、飛び降りても助かるという「安全」、そしてこの世の全てという「財産」。これらを悪魔はイエス様に示してきました。どれも、人間が欲しくてしょうがないものばかりです。これらは今でも私たちを誘惑してきます。食糧に財産、安全を得るために、争っていきます。
 そして、ここで誘惑しているのは「悪魔」と書かれています。聖書の中で「悪魔」は、「神様から離れさせようとする存在」として書かれてきました。決して角が生えていたりとか、しっぽが生えているものだけが、悪魔ではないんです。悪魔は聖書の時代だけではなく、今も私たちの周りにいます。「神様から離れてしまえ」と、いろんな「欲しい物」を示して、誘惑してきます。イエス様が荒れ野で受けた誘惑は、私たち人間が同じように受けている誘惑です。「神様を信じられるか?」、「神様を試してみろ」と問いかけ、今でも私たちを誘惑してくるのです。
 イエス様は悪魔とどのように向き合ったでしょうか。イエス様の答えは言葉を持って悪魔を去らせます。それは自分の言葉によってではありません。全て聖書の言葉を引用しています。
 イエス様は人間と同じように苦しまれました。荒れ野での誘惑も、私たちが誘惑によって苦しめられるのと同じようにです。そのような苦しみだけではなく、イエス様はここで、私たちが同じように立ち向かうことが出来ることを教えてくれています。私たちが自分の言葉や自分の力で、悪魔に立ち向かうことは厳しいかもしれません。でも私たちは一人ではありません。神様が一緒にいます。神様が授けてくれた御言葉があります。どんなに激しい誘惑に遭おうとも、または打ちひしがれているときにも、御言葉によって私たちは支えられているのです。神様は目には見えません。なかなか、直接語り掛けてもくれません。でも私たちには聖書があります。聖書に書かれている神様の言葉は、私たちを励まして、私たちを慰めてくれます。主が味方なら、私たちはこれからも神様に繋がって生きていくことができるのです。