説教要約(2月)

2020年2月23(日)  説教題:「いっぱいのしるし」  聖書;ヨハネによる福音書6章1~15節
 5000人以上の人たちを前に、イエス様は弟子たちに尋ねました。「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか」弟子たちの答えは、金銭的にも物理的にも用意することは出来ない、というものでした。しかし、イエス様は少年の持っていた2匹の魚と5つのパンを、祈って分けていきます。そこに集まった人たちは、それで満足するまで食べることができました。
 これは聖書の中でも有名な奇跡物語です。各福音書にこの出来事は書かれているのですが、ヨハネによる福音書にしか書かれていないことがあります。それは「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と指示されている言葉です。弟子たちはこの言葉に従い、パン屑を拾い集めました。それは12の籠にいっぱいになります。彼らはどんな気持ちでパン屑を拾い集めたのでしょうか。最初は絶対に無理だ、と思っていたことが、イエス様によって変えられます。このパンと魚のしるしを通して、弟子たちも、そして集まった人たちも、信じる者へと変えられたのです。
 それでは私たちはどうでしょうか。二匹の魚と五つのパンを通して、5000人以上の人々が満たされると信じることができるでしょうか。それは難しいと思います。結局のところ、私たちもここでの弟子たちと同じです。イエス様の質問に対して、この世的な正論で答えてはぐらかしてしまうことでしょう。しかし、イエス様はしるしを示されます。人々が満たされるほどのしるしを、そして籠いっぱいのしるしを示して、それによって信じる者へと変えてくれます。私たちが思っている計算や思惑を超えた形で、神様が与えてくださる恵みをイエス様は示してくださるんですね。
 しるしに気付けない弟子たち、そして気付けない私たちです。そんな私たちにイエス様は言われます。「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」私たちが気付いていないだけで、じつはこの世はイエス様の示されたしるしで溢れています。ここに集まる一人ひとり、必要なものは違います。抱えている課題や、思い悩む出来事も違います。それらを恵みによって満たしてくれるのは神様です。人間の力ではなく神様です。その恵みに至るためのしるしは、何によって示されるのかは分かりません。ですが、神様はあなたへの救いの隠された計画を用意してくれています。パンと魚によって群衆の空腹は満たされました。心に寂しさを、足りない空虚さを思うとき、それは神様が満たしてくださいます。私たちの心も、そして体も、イエス様が示し、神様が与えてくださるものによって、満たされていくからです。足元を見ればそこに、キリストが用意されたパン屑が落ちているかもしれません。


2020年2月16(日)  説教題:「集まるところ」  聖書;マタイによる福音書18章18~20節
 マタイによる福音書18章には、イエス様が「教会」というものについて話されたことが書かれています。そこに書いてありますのは、理想的な共同体としての姿ではありません。誰が一番偉いかを競って対立し、「大きい者」、「小さい者」という力の差を生み出そうとします。それはつまづきへと繋がり、迷いでた一匹となってしまいます。それは主の御心ではない、とイエス様は言われました。ここまでで書かれていますのは、昔も今も変わらない、教会の持つ人間的な姿です。人が複数人集まることによって、このような問題が起こってきました。
 それでは、私たちは集まらない方が良いのでしょうか。そうではありません。私たちが集まるところには、罪深い人間の姿もありますが、そこにこそ赦しが備えられていくのです。15節以降の「兄弟の忠告」と題された箇所では、それが明らかになっていきます。教会の仲間が罪を犯した場合、最初は一人で、次に二人か三人で、さらに教会によって悔い改めを勧めることが言われています。それでもダメなら教会から除名しなさいと書かれています。しかしイエス様は赦しのためのその願いが、必ず聞き入れられることを19節にある「どんな願い事であれ」という言葉を通して示しています。つまり、ここには除名のことも書かれていますが、それ以上に必ず赦しが与えられるんだよ、ということを教えてくれているのです。私たちが集まるところには罪ある人間の姿もあります。争い、迷う、弱い人間の姿です。しかし、そのような場所にこそイエス様がいてくださいます。イエス様が共にいてくださる場に、罪からの赦しが、そして救いが与えられます。だから私たちはキリストの名によって集まり、その中にいるイエス様と共に神様を礼拝し、また新たにされて、共に生きていくのです。
 これが湖山教会で最初に読まれた御言葉です。私たちには神様からたくさんの恵みが備えられてきました。砂地に種が蒔かれ、今も神様によって生かされています。しかし、私たちの群れもまた、非の打ち所がない共同体ではありませんでした。私たちも70年の時の中で、痛みを、また罪を覚えて歩んできました。「誰かが悪い」、「誰かのせいだ」ということではありません。やはり私たちも18章に書かれていますように、イエス様が指摘しておられる人間の集まりとしての教会です。弱さを持っている、罪深さを持っている人間です。だからこそ、こんな人間たちの間にイエス様がいてくれるのだと思います。人間が集まるときに、対立やつまづき、誰かを小さくする動きがあるからこそ、ここにイエス様が一緒にいてくれるのです。その罪を赦すために執り成してくださるのは、キリストだけです。私たちはキリストの名によってここに集められています。このキリストの名によって私たちが集うからこそ、悔い改めへとイエス様が招いてくださって、赦しに与かることができるのです。私たちが共に集まって、御言葉に聞き、祈り、礼拝し、ここにいるイエス・キリストを信じるからこそ、救いが備えられていくのです。


2020年2月9(日)  説教題:「わたしはある」  聖書;ヨハネによる福音書8章21~30節
 「わたしはある」とは神様の名前です。出エジプト記に書かれているモーセが使わされる場面で、神様は「遣わした方の名前を聞かれたら『わたしはあるという者だ』と答えなさい」と言われました。この言葉はモーセを通して救いが実現することを約束してくれたものです。その神様はイエス様を遣わし、イエス様を通して「わたしはある」という言葉が再び示されます。神様は再び、人間のことを救おうとしているのです。それは「自分の罪のうちに死ぬことになる。」道から逃れるためです。罪の内に死ぬのではなく、赦されて永遠の命に入ることを神様は願っておられるのです。
 「わたしはある」ということを信じるにはどうすればよいのでしょうか。イエス様はこう言われます。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」人の子を上げるとは、十字架に架けることです。人間が人の子を十字架に架けること、でもそれによって信じる者へと変えられることを、イエス様は言われています。これは、理解できないユダヤ人たちに向けられた言葉です。しかし彼らを通して、イエス様は現代を生きる私たちに語りかけています。ここでの「あなたたち」は2020年の湖山教会で御言葉に聞く「私たち」です。私たちも2000年前のユダヤ人のように、「人の子をあげる」のです。実際に私たちがナザレのイエスを十字架に上げて殺したわけではありません。ですが、私たちも自らの罪を知り、十字架にキリストを上げるんです。そのときに「この人は本当に神の子だった。」と気付き、キリストが私たちのために十字架に上がった恵みを知ります。十字架のキリストを、「わたしはある」という救いの実現を、信じる者へと変えられます。理屈や考え方によって私たちは信じるのではありません。私たちは自らの罪を御言葉によって気付かされ、そして自ら人の子を十字架に上げたとき、信じる者へと変えられていくのです。
 湖山教会70年の歩みも十字架に人の子を上げる者たちが与えられたものでした。そして赦された者たちであることを覚え続けてきました。イエス様は今も私たちに「わたしはある」と語り続けてくれています。赦しを、そして救いを実現するためです。そして、70年間、赦されるために多くの人たちを、ここに招き続けてくれていました。私たちのこれからの歩みも、イエス様と共にあります。多くの人々がイエスを信じた。とあるように、私たちにも信じて歩む道が備えられていくのです。


2020年2月2(日)  説教題:「こちらのしるし」  聖書;ヨハネによる福音書2章13~22節
 イエス様は神殿を商売の家としている人たちに対して、怒りを露わにされました。これは「商売」というお金を稼ぐ営みを批判されたのではなく、神殿が賄賂や搾取などの巨大な利権として運営されていたからです。神殿が礼拝よりも、金儲けのために用いられていました。人々の価値観の中で礼拝よりもお金が第一になってしまったのです。
 そして人々はイエス様にしるしを求めます。カナでの婚礼に示されたしるしは、神様の祝福に満たされるものでした。しかし、こちらのしるしは人々が利益を求めるものです。「商売をやめる代わりに利益となるしるしをよこせ」と言っています。商売の家にしている人たちは、祝福を利益へ変えようとしています。金銭に代表されるこの世の物質が一番であると、考えているからです。人々は物質に支配され、それが第一となってしまっているのです。
 そんな人たちにイエス様は言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」イエス様が「壊してみよ」と言っているのは、商売の家としての神殿、つまり人間の心に巣食うこの世の物が一番である、という考え方です。お金、知識、権力。それらのものに頼り、私たちも生活しています。もちろん、これらはこの世で生きていくために必要なものです。しかしイエス様は一度それを「壊してみよ」と言われます。世にある物が全てだと、権威や金銭、知識が全てである」と考えることを、一度壊してくれるのがイエス様なんです。
 壊れた後のことを考えますと恐ろしいです。不安です。ですが壊れた後には、どうなるのか。「三日で建て直してみせる」と書かれています。この世のものが全てであると考える価値観、それらが壊れた後にイエス様は立て直してくれます。しかも、こんどはお金でもなく、権力でもないものを、もっと確かなものを、私たちは頼ることができます。それが神様とイエス様です。
 この世の物が全てであると考え、それらに委ねることを一度壊され、イエス様に立て直してもらい、イエス様に委ねる新たな者として、歩むことが適っていきます。死から蘇ったイエス様が、新しい歩みために、私たちを立て直してくれるんです。「三日目に建て直す」ために、イエス様は一度壊してみなさいと言われます。壊れた後に建て直してくれるのはイエス様なんです。私たちを新しく、そしてより確かなものを信じられるように、イエス様は建て直してくださるのです。