説教要約(11月)

2020年11月29(日)  説教題:「エッサイの株から」  聖書;イザヤ書11章1-10節
 アドベントを迎え、新会堂へと引っ越し1年が経過しました。また教会暦でもアドベントから新しい一年が始まります。今日から湖山教会にとって新しい一年です。この一年は喜びのクリスマスに始まり、いろんな出来事が起こりました。4月からは礼拝自粛も経験し、いままで経験したことがない一年でした。今年はどんな年になるのでしょうか。
 そんな時に当たられましたのがイザヤ書11章です。ここはイスラエルが神様を離れて、裁きによって倒れた姿から始まります。大木のように祝福を受けた神の民は切り倒された切り株しか残っていません。しかし、そこから新しい芽が出てきます。その芽は若枝をつけて成長し、神様の霊によって働きます。この芽はイエス様が与えられる預言です。何も残っていないように見える切り株からでも、神様は新しく救いの芽を与えてくださいます。そのことを約束してくれていたのです。
 この預言がなされてからイエス様が産まれるまで約800年です。世代も国の様子も変わっていくなかで、ずっと救い主が与えられるのを待っていました。クリスマスに現わされた救いの芽となる出来事を、人々はずっと待っていたのです。
 私たちも待っています。クリスマスを待つアドベントを過ごしながら、この世界的に困難な状況が良くなる時を待っています。待っているうちにアドベントになり、新しい年を迎えました。このアドベントから始まる新しい一年は、どんな年になっていくのでしょうか。それは全て神様の御心次第です。人間の知識や力ではどうあっても予測しきれません。全ては神様に委ねるしかありません。それは不安定な歩みでありましょう。イスラエルほどではありませんが、私たちも初めて経験する激動の一年を過ごしました。これから先のことを考えれば不安です。まだ出口は見えなく、先に何が待っているのか分かりません。ですが神様はこうして聖書を通して私たちに希望を示してくれています。神様は切り株のように倒されたものから、一つの希望の芽としてキリストを与えてくださいました。その芽は育ち、私たちに今なお平和を示し続けてくれています。何もないように見えても、倒されて力尽きたように見えても、そこから新たな希望を与えてくださるのが、神様の導きなのです。神様はいまの私たちの状態からも、きっと新しい芽を出してくださいます。そんな希望であるキリストが与えられたのがクリスマスです。クリスマスを待つアドベントを迎えました。キリストの誕生と、そして救いを待ち望んでまいりましょう。
2020年11月22(日)  説教題:「もっとも小さいもの」  聖書;マタイによる福音書25章31-46節
 この聖書では「もっとも小さいもの」を通してなされた行いが、キリストへの奉仕であることが言われています。
 教会では礼拝を通して献金を献げていきます。この献金は建物の維持や必要な物品の購入、牧師の謝儀などへと使われていきます。しかし献金は人や物へと献げているのではありません。献金は神様へと献げられていきます。献金だけではありません。教会には皆さんが働いてくださる奉仕の業があります。見える奉仕、見えにくい奉仕がそれぞれにありますが、その一つひとつは人や物に仕えていくのではありません。神様へと献げる奉仕です。
 私たちはお金や体、そして時間など様々なものを献げていきます。それらの目に見える行き先は、人や物かもしれません。ですが、それらは教会で止まってしまうものではありません。その一つひとつが教会を通して、その先におられる神様へと献げられていきます。小さいものの一人を通して、キリストへと献げていきましたように、献げものは全てキリストへと繋がっています。私たちが献げるものは全て教会を通して、人を通して、そしてイエス様を通して、神様が喜んで受け取ってくださるのです。
 献げものについてお話してきましたが、私たちは生活状況が違いますし、多くを献金できる人もいれば、それができない人たちもおられます。また、奉仕をすることが難しい人もおられます。そのような人たちが、裁かれて終わりの日に救いに入ることができないわけではありません。今日の聖書で裁きのときに人々はこう言っています。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」右側にいる人たちも、左側にいる人たちも同じようなことを言っています。何をしたのか、何をしなかったのか。その二つについて気付いていません。「私はこれだけのことをした」とか、「私はこれだけのことをできなかった」などと、人が思うようなことでイエス様は救いを決められるわけではないからです。そして自分たちが「こんなこともできない。」、「あんなこともできない」と思っているその人にこそ、キリストは「わたしにしてくれたではないか」と言い、「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言ってくれます。自らを卑下するのではなく、自らを誇るのでもなく、ただ神様を信じ、神様に仕えて献げる者にキリストは神の国を受け継ぐことを言われています。人間の世界で考える金額の多い少ない、量の多い少ないではなく、ただ神様を信じて献げる人に、キリストは報いてくださいます。いろんなものを通して祈りながら献げる全ての人を、神様は喜んでくださるのです


2020年11月15(日)  説教題:「変身」  聖書;エフェソの信徒への手紙2章14-18節
 今日の聖書にはこう書いてありました。「キリストはわたしたちの平和であります」イエス様が私たちの平和です。そのために、「隔ての壁を取り壊す」って書いています。戦っている人たちの間には、壁があります。その壁を取り除いてもう一度仲良くできるようにしてくれるのがイエス様です。自分と違う人たちをいじめたり、戦っている人たちを平和に変えてくれるのがイエス様なのです。
 人間は戦いをしたがります。誰かに勝ちたがります。そういう気持ちが誰でもどこかにあります。絶対にそんなことしないよって思っても、やっぱり誰かを傷つけたりしてしまうんです。「戦いたい」、「誰かに負けたくない」そんな気持ちがたくさんになると、戦争をしたり、誰かを倒したくなってしまいます。そのために、他の人たちにいじわるをしたくなります。それが「自分の国が一番だ」と思うようになると戦争が起こります。これはみんなが心のどこかに持っているものです。
だから、そんな気持ちをイエス様に預けて、平和に変えてもらいましょう。僕たちの気持ちを平和にしてくれるのは、イエス様だけなんです。仲の良い平和にしてくれるのは、イエス様が必要なんです。


2020年11月8(日)  説教題:「安息の主」  聖書;マルコによる福音書2章23-28節
 今日の聖書には安息日に麦の穂を摘んだことを、咎められた出来事について書かれています。これは律法違反だと文句を言われたのですが、イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と反論しました。人を殺すのではなく生かすためにあるのが安息日なのです。
 この「安息」という言葉で何を思い浮かべますか?私でしたら「落ち着く」、「安心できる」などのホッとすることを思い浮かべます。これらは教会にとっても大切なことです。来会した人たちがホッとしてまた出ていけるような教会でありたいと願っています。しかし、それだけが安息ではないように思います。教会に繋がることによって得られる安息は、ホッとすることだけではありません。気付かされてハッとするような出来事を通しても与えられます。教会的な安息とはキリストによって平安を得ることです。それらはいろんな気付きを通して与えられます。その中には厳しい言葉もあるでしょう。今日の聖書箇所でのように、自らが「ファリサイ派の人たちのようだ…」と思ってしまうときもあります。神様やイエス様に怒られているようなときもあります。自らが罪ある一人であることを覚え、悔い改めることが言われているからです。気付かされていくその度に私たちは、キリストによって新しくされていきます。そうして今までの常識や規則、社会の在り方。それらが当たり前であると思っていた生き方から、キリストに繋がるより自由な生き方を与えられていきます。これらのハッとすることを通して、ホッとすることができるんですね。ホッとするためにハッと気づかされる。これがキリストによって備えられていく平安です。そして私たちにとっての安息なのです。
 イエス様を繋がることを通して、人は真に休むことができます。キリストのもとに集うことを通して、私たちは安らぎを得られます。それが私たちにとっての安息です。だから「人の子は安息日の主」なのです。神様は安息日を定められました。心を神様に向けてキリストによって新しくされていくためです。安息日の主が今も共にいて私たちに安らぎを得られるようにしてくださいます。イエス様を通して与えられる安息が、私たちにとっての安らぎです。私たちには安息日の主が必要なのです。


2020年11月1(日)  説教題:「安息日の主」  聖書;マルコによる福音書2章23-28節

 今日の聖書には安息日に麦の穂を摘んだことを、咎められた出来事について書かれています。これは律法違反だと文句を言われたのですが、イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と反論しました。人を殺すのではなく生かすためにあるのが安息日なのです。

 この「安息」という言葉で何を思い浮かべますか?私でしたら「落ち着く」、「安心できる」などのホッとすることを思い浮かべます。これらは教会にとっても大切なことです。来会した人たちがホッとしてまた出ていけるような教会でありたいと願っています。しかし、それだけが安息ではないように思います。教会に繋がることによって得られる安息は、ホッとすることだけではありません。気付かされてハッとするような出来事を通しても与えられます。教会的な安息とはキリストによって平安を得ることです。それらはいろんな気付きを通して与えられます。その中には厳しい言葉もあるでしょう。今日の聖書箇所でのように、自らが「ファリサイ派の人たちのようだ…」と思ってしまうときもあります。神様やイエス様に怒られているようなときもあります。自らが罪ある一人であることを覚え、悔い改めることが言われているからです。気付かされていくその度に私たちは、キリストによって新しくされていきます。そうして今までの常識や規則、社会の在り方。それらが当たり前であると思っていた生き方から、キリストに繋がるより自由な生き方を与えられていきます。これらのハッとすることを通して、ホッとすることができるんですね。ホッとするためにハッと気づかされる。これがキリストによって備えられていく平安です。そして私たちにとっての安息なのです。

 イエス様を繋がることを通して、人は真に休むことができます。キリストのもとに集うことを通して、私たちは安らぎを得られます。それが私たちにとっての安息です。だから「人の子は安息日の主」なのです。神様は安息日を定められました。心を神様に向けてキリストによって新しくされていくためです。安息日の主が今も共にいて私たちに安らぎを得られるようにしてくださいます。イエス様を通して与えられる安息が、私たちにとっての安らぎです。私たちには安息日の主が必要なのです。