説教要約(10月)

2020年10月25(日)  説教題:「知恵は真珠に優る」 聖書;箴言 8章1~8節
 箴言には当時の人が生きるために活用された知恵が書かれています。この知恵をパウロはキリストであると判断しました。神の知恵として救い主が与えられたからです。この知恵が語り掛けているのが本日の箇所です。
 知恵はこのように教えています。「知恵は真珠にまさり/どのような財宝も比べることはできない。」銀や金、そして真珠は、とても高価な物です。しかしそんな財宝よりも知恵が優ると言われています。つまりは、どれだけの財宝であっても、キリストには代えられない、ということです。どれだけの財宝があろうとも、それは人の罪を赦してくれません。真珠のように綺麗な物があったとしても、それは導いて一緒にいてはくれません。それらに優ること、代わりのないキリストが神の知恵として与えられている、ということなのです。
 金銀財宝よりもキリストが優ることを聖書は教えています。これは単に格言ではなく救いへと繋がる御言葉です。ただの知識ではなく、血肉として身についていくものが知恵なのでありましょう。
 湖山教会は70周年記念誌を発送することができました。各執筆者の生の声が一冊にまとまり、良い物が与えられたと思っています。金や銀、真珠があれば、もっと豪華な物が完成したことでしょう。しかし、そんなものでは記念誌は完成しません。ここにはそれに優るものがありました。それは、イエス様によって導かれた、この教会に繋がるお一人おひとりがおられたからです。神様の知恵によって与えられたイエス様によって救われた一人ひとりが、心からの文章を寄せてくれたからこそ、この良い物が出来上がりました。
 頭で「キリストは真珠に優る」と聞き、それを知ることは簡単です。ですがそれは単に人の「知っていること」でしかありません。それらの知識は実際に体験していくことで、知恵に代えられていきます。この「体験していく」ということが、キリストによって導かれた結果です。一人ひとりが金銀財宝よりも救い主によって導かれたからこそ、そしてキリストの体である教会に繋がってきたからこそ、記念誌を作って届けていくことができたのです。
 「知恵は真珠にまさる」イエス様は真珠よりも大切である、というこの言葉は、私たちの血となり肉となり、神様の導きによって知恵になっていきました。金銀財宝があっても、人は赦されていきません。そして救われていきません。キリストには代えられないことを、幸いなことに記念誌という目に見える形で体験してきました。旧約の時代に与えられた言葉は、新約の時代にキリストへと解釈され、現代の私たちにも生きた力として届いています。


2020年10月18(日)  説教題:「衰えて、新しく」 聖書;コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16~18節
 敬老礼拝を迎えました。ある教会では「恵み」に「老いる」と書いて「恵老礼拝」と呼んでいました。これは「老いるまでの長い間、神様の恵みに与かってこられたことに感謝する」という意味があるそうです。年をとっていくことを恵みとして捉えています。老いることには「衰え」がつきものです。それを果たして恵みとして捉えていくことができるのでしょうか。
 今日の御言葉には「内なる人」と「外なる人」について書かれています。「外なる人」はこの箇所の前の部分に書かれている「土の器」です。丈夫ではない土の器は、いずれは衰えて壊れてしまいます。しかし外なる人は衰えても内なる人は衰えていきません。この内なる人は土の器に入れられた宝、イエス様の福音です。これがあるから「落胆しません」と書かれています。それはこの福音が蘇りと永遠の命の約束だからです。キリストの福音はそれを私たちに伝えてくれました。だから老いること、そして衰えることがあっても、それは恐れる必要はないのです。
 死も、老いも、衰えも、土の器である人間にはつきものです。でも、福音があるから落胆する必要はない。聖書はそのように私たちに語り掛けてくれています。しかし現実は厳しいものです。死や衰えへの恐怖は、なかなか消えてなくなりません。「復活がありますよ」と言われても、やはりこの世に未練が残りいろいろと考えてしまいます。しかし、そんな思いを持つ人間だからこそ、この「内なる人」は日々新しくされていくのでありましょう。死や老い、そして衰えを思えば、不安になります。怖くなります。でも、その怖さや不安を和らげて、そして希望を与えてくれるのが、イエス様の福音です。その福音が書かれている聖書です。死や衰えを思って不安になる気持ちは「わたしたちの一時の軽い艱難」です。これは正直なところ軽くはありません。でもその艱難以上に「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光」があります。「死んで終わりではない」という復活。そして「また会えますよ」という再会。一日一日、死へと向かっていく私たちは、この福音を通して内なる人を日々、新たにさせられていくのです。
 私たちは体の衰えを止めることはできません。人によってスピードは違いますが、目に見える私たちの体は、誰もが衰えていきます。しかしその衰えと共に、神様は私たちの内なる人を新しくしてくれています。衰えて、新しくされる。この大きな恵みが約束されています。老いる中で手放したり、出来なくなっていくことも多いのですが、その中でしか与えられていかない恵みがあります。そんな新しい恵みに満ちています。だからこそ、「恵み」に「老い」と書き、それを「けいろう」と呼ぶことができるのです。



2020年10月11(日)  説教題:「あまりの素晴らしさ」 聖書;フィリピの信徒への手紙 3章7~21節
 今日の聖書にはパウロに「あまりの素晴らしさ」が与えられたと書かれています。それはキリストと出会い、キリストを知ったことでした。それは「わたしにとって有利であったこれらのこと」を捨てても良いと思えるほどです。それは生まれた民族と宗教的な立場でした。ユダヤ人であって、律法にも精通していることは、社会の多数側に属することになります。宗教界だけではなく社会の中でも有利なことでした。ですが、それを「損失とみなす」ようになります。パウロはこの手紙を投獄された中で書いたと言われています。実際に全てを失っても、キリストを知って生きていくことを選び、パウロは手紙を書いていったのです。
 皆さんはどうでしょうか。イエス様を信じることは素晴らしいですか?キリストを知って教会に来るようになって、それは素晴らしかったですか?今年はそれを痛感する時期を私たちは過ごしました。今年は三回の礼拝自粛期間があったからです。毎週礼拝をして、帰っていく営みを続けてきた教会にとって、これは本当に大きな出来事でした。会堂いっぱいの礼拝を目指し続けてきた教会が、会堂で間隔を空けての礼拝を心がけるようになるなんて誰が予想したでしょうか。湖山教会では説教原稿や式次第を手分けして配る、という形で自宅礼拝を守っていったのですが、それはこうやって教会で守る礼拝に代えられるものではありません。オンラインでの礼拝も、集まってそして帰っていく礼拝に代えられるものではありません。「礼拝がある日常」は何物にも代えられないものだったのだと気付かされました。
 礼拝に来て帰っていくこと。それはキリストを知り、イエス様と出会ったから毎週できることです。これは派手でもなく、何か目に見える特典があるわけでもありません。それでも私たちにとって、代えがたく素晴らしいものだったのです。この日常の中をイエス様と一緒に過ごしていけることは、あまりの素晴らしさの中にあるのです。
 本当に素晴らしいことは、派手な演出やドラマのような出来事ではなく、地味で何の変哲もないこと、でもその中にイエス様がいてくれることです。この営みも慣れてしまえば、変わらない日常の一部に感じられてしまうかもしれません。しかし、こうして礼拝を一緒にすること。同じ神様を信じている人たちが出会い、そしてまたそれぞれの場所に帰っていくこと。こうやって集まって顔を合わせ、祈り合ったり、賛美を合せたりできる日常は、じつは素晴らしいものです。そんな私たちの間に、イエス様は一緒にいてくれています。目に見えなくても、この素晴らしさの中で生きていくことが、私たちには赦されているのです。


2020年10月4(日)  説教題:「神の知恵、神の定め」 聖書;ローマの信徒への手紙11章33~36節

昨年の世界聖餐日には一人の方が洗礼を受けられました。洗礼を受けるタイミングや理由は、一人ひとりが違います。牧師や信徒に勧められたり、ふとした出会いで決断をされたりと様々です。ですが、これは人間の努力や計画では予測できません。洗礼を受けるタイミングは、神様にしか分かりません。これだけは本当に、神様に与えていただくしかありません。人の知恵では測れない、神様の知恵と定めによって決められていることだからです。

今日の御言葉には、そんな神の知恵と定めについて書かれています。人の知恵をはるかに超えた神の知恵によって定められた計画は、人間には知ることができません。その壮大な豊かさについて喜びをもって書かれています。この箇所は1111節の表題「異邦人の救い」という文脈の中で語られています。かつて異邦人が神様の救いに与かるなど、誰も思っていませんでした。人の知恵では、「特定の民族しか救われない」とまでしか思い至りませんでした。しかしそれを超えていくのが神の知恵です。人の知恵、定めには、限界があります。それ超えていくのが神の知恵と定めなのです。

これを聞けば、人間の限界に悲しくなってしまうかもしれません。しかしこの限界を知ることは、悲しみではなく喜びです。人の限界を知ることが、神の知恵の始まりです。人の知恵ではなくそれよりもはるかに大きな神の知恵がある。これを知ることによって、私たちは人の知恵では考え付かないような、神の知恵に委ねていくことができます。そのために、人の知恵の限界を知ることから始まるのです。

人の知恵の限界を知ったとき、そこから神の知恵に委ねていく生き方が始まります。ここからきっと、人ではなく神の知恵によって定められた救いの計画が始まっていきます。人間のできる範囲のその先には神様の領域が広がっています。私たちはそこへと委ねることができるから、人の知恵の限界を知ることは悲しみでなく喜びなのです。私たちの想像を超えた大きな、そして豊かな、神の知恵によって生きていくことができるのです。

 洗礼や伝道だけではなく、私たちの日常も同じことです。子育てや介護、近所づきあいや職場などの人間関係。解決しようと頭を捻りますが、なかなか良い案は浮かんできません。私たちの持つ人の知恵には限界があり、その重さに押しつぶされてしまいそうになることもあるでしょう。しかしそれぞれの抱える問題への救いの計画も、確かに用意されています。だから、この神様の知恵に委ねていくしかないのです。人を超えた神様に、その知恵と定めに委ねていくことができます。神様に委ねることが適うから、人の限界を知ることは、大きな喜びなのです。