説教要約(1月)

2020年1月26(日)  説教題:「最初のしるし」  聖書;ヨハネによる福音書2章1~11節
 イエス様は近しい関係性の人の結婚式に出席していたのですが、ここで一つのハプニングが起こります。ぶどう酒が足りなくなってしまったのです。ぶどうから作られたぶどう酒は、神様の祝福を現わす意味を持っています。ぶどう酒は神様の祝福の象徴として婚礼の場では分かち合われていたのです。しかし、イエス様によって不思議な奇跡が行われました。水がめに入っていた水がぶどう酒に変えられます。婚礼の場でぶどう酒が足りなくなる、という事態は避けられました。しかもそれを「良いぶどう酒を取っておいてくれた」と喜んでくれる人もいます。婚礼の祝いの席は無事に守られました。この様子を知っていた弟子たちはイエス様を信じました。この喜びの席で示された奇跡の業によって、信じる者へと変えられた人たちがいたのです。
 イエス様がこの婚礼の席におられたことによって、ここは祝いの席となりました。それにはもちろん、ぶどう酒が間に合った、という事情もあることでしょう。それだけではなく、信じる者も与えられました。ぶどう酒に象徴される神様の祝福も満たされ、ここに喜びが完成します。ここが喜びの場となるためにイエス様が来られる必要がありました。だからこそ、しるしによって信じる者も生まれ、祝福で満たされたのです。ここで変えられたのは水だけではありません。弟子たち自身も同じく変えられました。イエス様と食事の席に着く、その喜びの席で、弟子たち自身もまた、イエス様を信じる者へと変えられていったのです。
 イエス様は私たちが祝される席にも、招きに応じて来てくださいます。イエス様によって招かれて、私たちは教会に集っています。それだけではありません。私たちもまた、喜びの場にイエス様をお招きするんです。キリストに招かれるのと同時に、私たちも喜びの場にイエス様をお招きするのです。こうして守られている礼拝も、祈祷会も、行事や集会の一つひとつも、キリストに招かれているのと同時に、私たちも「主よ共にあってください」と祈り、キリストを招き入れていくことによって、その場が祝福によって満たされていきます。婚礼の場で、伝道の場で、そして教会によって守られる礼拝の場で、キリストは招きに応じて来て下さるのです。
 11節には「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで弟子たちはイエスを信じた」と記されています。このカナで行われたのが、最初のしるしです。この喜びの場を通して、最初のしるしによって、弟子たちはイエス様を信じる者へと変えられました。このしるしを行う方がその場にいなければ、しるしは与えられません。イエス様がおられるところで最初のしるし、信じる者へと変えられるサインは示されました。私たちの祈るところにも、喜びの場にも悲しみの場にも、招く人のもとへとキリストは来てくださいます。そのしるしにより、人は信じる者へと変えられていきます。キリストに招かれ、キリストを招き、伝道の業へと導かれていくのです。

2020年1月19(日)  説教題:「拭われた涙」  聖書;ヨハネの黙示録21章1~4節
 ここでは悲しみの涙が拭われることについて記されています。それは新しい世界の中で行われます。いまの世界が過ぎ去った後に、神様が造られる新しい世界が新しい天と新しい地です。終末のときに新しい世界が創造されることが予告されています。新しい世界の様子は3節に書かれています。荒れ野で旅をしていたイスラエルの民の生活のように、人の中心に神の幕屋がある。あなたと一緒にいつでも神様が共にいますよ、ということです。人と人の間に、神様がいて下さるのです。そこで、涙を拭い去って下さいます。人が悲しみや苦しみを思うとき。どうしようもないとき。苦しみ、弱さ、悲しみ、その涙を。神様は拭って下さいます。これが新しい世界なんです。
 三好達治という人の書いたた「涙を拭って働こう」という一編の詩があります。
 「みんなで希望をとりもどして 涙をぬぐって働こう
 忘れがたい悲しみは 忘れがたいままにしておこう 苦しい心は苦しいままに」
 これは1946年、敗戦後に初めて迎えるお正月に作られたものです。敗戦のショックや焼かれた家。それらを目の前にしたとき、言葉では例えきれないほどの不安と悲しみがありました。そのような状況にあって、それでも希望を取り戻して、涙を拭っていこう。新しい世界を信じて、歩んでいこう。そのようなメッセージの込められた詩です。
 私たちの生きているこの世界はまだ新しいものではありません。悲しも苦しみもあります。この世界から涙がなくなることはないでしょう。

 しかしながら、忘れられない悲しみは、悲しいままでいいのです。その苦しみ心は、苦しいままでいいのです。それらを無理に拭い去ろうとする、必要はありません。イエス様は私たちのそのような悲しみに、流す涙に気づいて下さいます。その涙を拭って下さいます。人には理解されなくても、または解決できなくても、私たちを重荷から解放して下さるのです。拭われた涙の後に、新しい世界を、新しい生き方を信じて生きていくことができるのです。
 先ほどの「涙を拭って働こう」。この詩の最後の部分はこのようになっています。
 「希望は一心に働く者の呼び声にこたえて それは新しい帆布をかかげて
 明日の水平線にあらわれる ああその遠くから しずかに来るものを信じよう
 みんなで一心につつましく   心をあつめて信じよう
 みんなで希望をとりもどして  涙をぬぐって働こう」
 神様はイエス様が再び来られて、新しい世界を与えて下さることを私たちに約束されました。遠くから来るものを信じましょう。苦しい日が良い日に変えられます。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」このような世界を神様は私たちに約束してくださったのです。それまでの間、私たちが最初のこの世界を生きている間は、イエス様が私たちの涙を拭って臨んで下さるのです。


2020年1月12(日)  説教題:「神の子羊」  聖書;ヨハネによる福音書1章29~34節
 ヨハネはイエス様のことを「神の小羊」と言い現わしています。当時の礼拝では小羊を贖いの献げ物として捧げていました。私たちも生きている限り、神様の前には罪人です。しかし贖いの生贄を礼拝で捧げることはありません。それは、ただ一度だけの、そして何物にも代えがたい贖いの捧げものがあったからです。ヨハネの言葉にありますように、イエス様はこの生贄の小羊でした。イエス様は十字架での死を通して、人の罪を贖われました。それまでは礼拝のたびに小羊を捧げていたのですが、イエス様が小羊として捧げられたので、もう私たちに生贄の小羊は必要ないのです。
 そして、ヨハネは自分が洗礼を授けたのは、イエス様が来られるためであったと証してます。そしてイエス様が洗礼を受けられたときのことを「霊が鳩のように降ってきた」と語っています。私も洗礼を受けました。また、授ける際の司式をさせていただきました。しかし、その時に鳩が降ってくる、ということは残念ながらありませんでした。鳩のように降ってくる霊も、聖霊が何かの形によって、現れるということも、私は見たことがありません。しかしヨハネさんは34節で「私はそれを見た」とはっきりとした形で語っています。そのようなことがあったのかもしれませんが、私たちにはそれを確かめる術はありません。ここでヨハネさんは確信があって「見た」と強く言っています。決して嘘を本当と言い張るために、「見た」と言っているわけではありません。この強い確信は、イエスが神の子、キリストであることへの確信です。ヨハネさんはイエス様の姿に、小羊として生きられて死なれた姿に、聖霊の働きを見ました。ヨハネさんは「見た」のです。キリストを、神の小羊として与えられたキリストを見たのです。「この人が救い主だ」という確信をヨハネさんは与えられたのです。
 ヨハネさんには確信が与えられました。私たちも様々な方法を通して、キリストが救い主である、という確信が備えられていきます。その時も、その手段も、神様にしか分かりません。今日の29節には「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。」とあります。ヨハネさんが見たように、私たちのところにも、イエスが来られるんです。「この人が救い主なんだ」と信じる者へ変えるために、イエス様が来られるんです。すでに洗礼を受けられた方には、あなたの元へとイエス様が来てくれました。そして信じる者へと変えてくださりました。まだお受けでない方は、これからキリストが来てくれるときがやってくることでありましょう。気付いていないだけで、既に来ておられるかもしれません。時も手段も含めた、いろいろな形で、イエス様を求める者はイエス様を信じる者へと変えられていきます。鳩でもなかったとしても、また何も目には見えなくとも、あなたのもとへと、聖霊は備えられていくのです。
2020年1月5(日)  説教題:「どんなときも」  聖書;ヤコブの手紙5章13~16節

祈る」ということは、神様に心を向け、神様と対話をすることです。その中で、人は様々に願いや感謝を伝え、神様と対話していきます。そのようにして、祈りの先におられる、神様に祈り、神様と繋がっていきます。ヤコブの手紙の中では、その祈ることへの勧めが記されています。

聖書は「苦しんでいる人は祈りなさい」と示しています。また「喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい」ともあります。苦しみのときと、喜びのとき。自らの信仰生活の中にある苦しみと喜びです。自分のことだけではなく、誰かを覚えて祈る。または誰かに祈ってもらう。そのような祈りもあります。自分のことを、そして誰かのことを、キリスト者は祈りながら信仰生活を送っていくのです。

 その営み中で大切なのは「誰が祈るか」ということではなく、「誰に祈るか」ということです。人間が祈るのは、祈る人間の力に頼るためではありません。神様に頼るためです。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせて下さいます。」とありますように、誰が祈ろうともその人を救い、起き上がらせて下さるのは主なる神様です。祈りを執成して下さるイエス様が、癒して下さいます。その祈りの先におられる神様が、回復を与えて下さいます。力のない人間が、ただ神様の癒しの力を信じるのです。それによって神様は救い、起き上がらせて下さいます。私たちが祈るときは、その祈りの先におられる神様を信頼して、祈っていくのです。

神様は祈る人に、そして祈られる人に、癒しと平安を与えて下さいます。私たちには、魔法のように病や痛みを癒す力はありません。しかし、祈ることが許されています。悲しみのときも、喜びのときも。苦しさの中にあっても、嬉しさの中にあっても。どんなときも祈っていきましょう。どんなときも祈られていきましょう。その祈りは、イエス様が執成しておられます。神様が臨んで下さいます。苦しみには癒しを、喜びにはより一層の祝福を、与えて下さいます。言葉で祈れないときもあるでしょうが、祈りとは神様に心を向けることです。うめきのような祈りも、喜びの笑みを携えた祈りも、心が神様に向けられているとき。それは祈りとして、神様が聞き届けて下さいます。どんなときも、神様に心を向けるのです。どんなときも、神様を信頼し、祈ってまいりましょう。