説教要約(9月)

2019年9月22(日)  説教題:「イエスの名によって」  聖書;コロサイの信徒への手紙3章12~17節
 この箇所ではコロサイ教会の人々が、どのような共同体であって欲しいのかが具体的に記されています。
 最初に示されているのは、神様と人、そして人と人の関係です。人が神様と繋がり、人と繋がっていくのはどこか。それは教会です。教会では「すべてを完全に結ぶ帯」であるキリストの愛によって、神と人、人と人が繋がっています。そして人間にとって都合のいい平和ではなく、キリストの平和を求め、キリストの言葉を心に豊かに宿し、御言葉を実践していきます。これらすべての大前提にありますのが、「すべてを主イエスの名によって行」うことです。そして、それが教会です。会堂があろうがなかろうが、そして会堂が新しくなっていこうとも、変わらずに営んでいく私たちの歩みです。キリストが神と人との繋がり、愛と平和、言葉と歌をもって礼拝する場、教会を備えてくださいました。これらは私たちを活かし、導かれていくために必要な場です。教会はこれらの項目以外にも、いろんなことを備えられていきます。いまの私たちでしたら、会堂建築に、記念誌の編纂、もっと長い目で見ていきますと、学校法人ひかり幼稚園との共にある歩みや、地域へとどのように奉仕していくのか。具体的なものもあれば、まだ先が見えないものもあります。いまはいろんな仕事もありますし、これからも、いろんな業が備えられていくことでしょう。時に社会と繋がって果たしていく、平和への業もあるかもしれません。地域と繋がっていく音楽の業もあるかもしれません。
 それら一つひとつが教会として、そして会堂という場所を通して与えられていくんですが、果たしてキリストの名によって行われているのか?そこに主が名を置いてくださっているのか。それらを御心に祈り求めていく必要があると思うのです。
 全てが「イエスの名によって」、勧められていく場こそ、そしてそのような歩みを祈り求めていく場こそが、教会です。新会堂であろうとも、旧会堂であろうとも、いずれの場、そしてどんな働きであろうとも、イエス様が名を置いてくださらなければ、それは空しいものになってしまいます。イエスの名によって行われる礼拝、各集会、諸行事こそが、私たちの集まりを教会として立たせてくださるのです。

2019年9月22(日)  説教題:「この軛」  聖書;コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章14~7章1節
 「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と記されています。その理由として書かれていますのが、「わたしたちは生ける神の神殿だから」ということです。かつて神殿が完成したときに、ソロモンが祈った言葉にはこのように書かれています。「ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。」神様が「わたしの名を置く」と言われた場所が神殿です。私たちには神様がその名を留めてくれています。そのような約束を受けているから「神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」とパウロは勧めています。完全に聖なる者となるために、不信仰な軛でつながれないようにと、パウロはここで語っているのです。
 しかし、私たちは本当に「聖なる者」なのでしょうか。自らのことを思い返せば信仰者が無条件で信仰を持っていない人より、優れているとは思えません。むしろ、聖書に証しされているように歩めない自分に悩み、葛藤し、それでも神様を求めていくのが、キリスト者の実態であるように思うのです。神様に恥ずかしくない者として歩めない、そんな罪人であるからこそ、教会で神様の御名を呼び求めていく。それが現実に教会に集うキリスト者たちの姿です。そんな私たちが神の民として生きていけますのは、ただ神の憐れみによって選ばれているからです。正しく、清くい者たちであるから、私たちは神の民として信仰が与えられたのではありません。ただ神様が、憐れみをもって私たちを選んでくれたのです。
 そんな私たちは「不釣り合いな軛につながれてはいけない」と教えられました。ここで使われています「不釣り合いな」という言葉は、「自分とは関係のない」と訳すことができます。私たちは「自分と関係のある軛」につながっていかなければなりません。私たちにとって「関係のある軛」とは、マタイによる福音書112829節で語られたイエス様の軛です。「わたしの軛は負いやすい」と、イエス様は私たちに言ってくださっています。負いやすい軛、キリストの軛によって歩むことで、私たちはキリストに繋がる者として歩むことができるのです。
 私たちは罪を負いながらも、弱いながらも、神様によって選ばれました。聖なる人などいません。聖と俗を分けてしまうことは、人間は排除を作り出す原因ともなってしまいます。私たちは等しく罪ある人間です。その人間を贖ってキリストは関係のある軛を用意してくれています。優秀であるから、信仰のない人たちより優れているから、私たちはキリストに繋がっているのではありません。神様が弱く貧しい私たちに信仰を与えて、イエス様が赦してくれるからこそ、私たちはこの軛に繋がっていくのです。
2019年9月15(日)  説教題:「癒す主」  聖書;出エジプト記15章22~26節
 「苦い」を意味する「マラ」。この言葉を聖書では味の苦さだけではなく、人生の苦さとしても記しています。(ルツ記1章21節)
 苦い水に木を投げ込むと甘く、飲める水に変えられた出来事が、この出エジプト記の御言葉には記されています。中世のキリスト者たちは、この出来事をキリストの十字架になぞらえて解釈してきました。苦くてとても飲めないようなものを、命へと代えてくださるのが十字架のキリストです。私たちが生きていくうえで、苦いものはたくさん訪れてきます。仕事場、家庭、生活の場など、それぞれが今を生きていく中で「苦い」想いをすることも多々あることでしょう。寂しさ、喪失感、またはどれだけ頑張っても報われない悲しさ。そこに木を投げ込めと、神様は言います。神様は私たちの世に、キリストを与えてくださいました。「私たちの世」という大きな全体だけではなくて、それぞれのマラ、苦い場所にも神様はキリストを遣わしてくださいました。お前の辛さ、寂しさに、そしてお前のマラに、キリストを呼べと神様は示してくださったのです。
 そして神様は「私はあなたを癒す主である。」と宣言されます。ここでの「癒す」という言葉には、「立ち直らせる」、「蘇らせる」という意味があります。私たちが倒れたとき、再び立ち直らせるため、そして蘇らせることが、神様が与えてくださる「癒し」です。倒れてしまうような出来事、心も体も疲れたときの癒し。それを与えてくださるのが神様です。これは、聖書にあります荒れ野での旅路だけではなく、私たちが生きていく人生の旅路でも一緒です。苦い水を飲んで、あるいはそれに浸かって、私たちはどうにかこうにか生きています。社会の状況はますます厳しいものとなってきました。そんな中で、私たち人間はどうしても疲れてしまします。体を通して、そして心を通して、どうしても疲れてしまうのです。それは、どれだけ体力があっても、どれだけ人間として優れていたとしても、変わりません。人間は疲れる生き物なのです。だからこそ、神様ははっきりと示してくれています。「わたしはあなたを癒す主である。」神様は疲れた私たちを、そして倒れた私たちを、癒す主です。神様は癒すため、私たちが再び立ち上がって世に出ていくために、イエス様を与えてくださいました。神様が癒してくださいます。イエス様が一緒にいます。私たちの信じる神様は、癒す主なのです。

2019年9月8(日)  説教題:「それぞれに、それなりに」 聖書;ローマの信徒への手紙14章1~9節
 ローマの教会には食べる人と食べない人がいました。食べない選択をしている人は、それが他の宗教の神殿に捧げられた肉だから食べない。食べる人は、神殿に捧げられていようとも神様が与えられた食物だから食べる。様々な宗教が入り混じるローマの中で、同じ教会の中でもそういった違いがありました。これは単に生活習慣の違いではなく、それぞれの信仰の問題です。「自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」であって、教会内でそのような違いがあることを受け入れることをパウロは教えています。信仰の強弱を人間が測り、仲間を裁いてはならないと勧めているのです。
 信仰が強い。信仰が弱い。この強弱が人間によって決められるように私は思えません。信仰についての評価、判断を下すということは、相手を裁いてしまうことになります。神に向かって教会に集う群れなのであれば、それぞれの心の確信、その信仰に強弱はないのです。それは会社やスポーツの世界にある価値観、競争とは違います。キリスト者の群れとは、勝ち負け、強い弱いで語られるべき共同体ではないのです。むしろ教会は、勝敗や強弱の価値観に疲れた者、その中に入ることの出来なかった人たちが集められて、癒されてまた、世の中へと派遣されていく場所です。それによって教会は、そこに集う人々が活かされていくのです。
 食べる人。食べない人。その他にも私たちにはいろんな違いがあります。それを受け入れることが難しいことは、争いと差別の歴史を見れば明らかです。ですが、信仰や国籍、他にもいろんな違いがありながらも、私たちは神様に向かっている群れです。6節後半にはこのように書いてあります。「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」神様に感謝することで、違いがありながらも心を向けています。神に向かっているそれぞれの確信、信仰には、違いがありますが、それを否定するのではなくその違いの奥にあるもの。多様な信仰の中にあって、神に向かっている姿勢を見ようとすることが和解への第一歩です。そして違いによって裁いてしまう悔い改めと共に、私たちは互いに愛し合いながら、神様によって和解を備えていただくことを祈っていきたいと思うのです。
 違いを持っている私たちは、それを受け入れることもできます。食べ方も、生き方も、それぞれに、それなりに違うのです。ですが、それぞれが神様に創られた者として、同じ世界で、そして同じ教会で生かされています。そのような違いの豊かさを見出したとき、神に向かう群れとしての歩みが、私たちに示されていくのです。

2019年9月1(日)  説教題:「行う人」   聖書;ヤコブの手紙1章19~27節
  一週間の休暇で京都に行き、京都駅で行っていた夜回り活動(京都駅で野宿生活をしている方々との関り)を思い出しました。安全な住環境にある自分と、路上生活をしている方とのギャップが、どこか偽善のようで私の葛藤でもありました。毎年、厳しい冬を超えることが適わないで死んでしまった方もいます。「おまえはどこまで関わっていけるのか。行えるのか。」常に問われていたように思います。その中で自分の活動を想うとその限界を感じることもありました。行う人としての歩みを、鏡に映った自分のように見たときに、その限界を感じざるを得なかったのです。
 ですが、聖書は「自分ばかりを見る」ことを教えてはいません。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。」鏡に映った自分、顧みて限界を覚える自分ではなく、その自分を自由にしてくれる神の律法、神様の方を見るんです。自分を見つめることは、自らの罪や、自らの限界、そして嫌いな自分を見つめてしまうことでもあります。そのような自分も確かにいるのですが、その罪深い、そして嫌いにしか思えない自分のことを、神様は好きでいてくれているのです。そして、こんなどうしようもない人間たちのために、イエス様は世にこられました。私たちと一緒にいてくださっています。「行い」によって救われることは、私たちが人間の価値基準で行っていくことではないんです。神様が与えてくださる行いを、キリストと共に果たしていく人が、私たちにとっての御言葉を行う人です。自分だけでしたら、それには限界があります。それは自分だけを見ているからです。自分を見つめたその先に、行っていくその先に、自由をもたらす御言葉を与えた神様がいてくださるのです。
 私たちが見つめるのは、鏡に映った弱い自分ではありません。そんな私たちを愛し御言葉を与えて、動かしてくださる神様です。「御言葉を行う人になりなさい」と、聖書は教えています。行う人は、委ねる人です。人間の限界を、そして罪深さを越えたところに、神様が私たちを見て動かしてくださいます。すべてが神様の御業、神様の恵みです。私たちの行いを神様に委ね、そして好きでいてくれている神様と共に、歩んでまいりましょう。