説教要約(8月)

2019年8月25(日)  説教題:「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」
        聖書;イザヤ書6章8節

       信徒奨励のため、説教要旨はありません。

  2019年8月18(日)  説教題:「共に喜び、共に泣き」  聖書;ローマの信徒への手紙Ⅰ2章9~21節

 この箇所は「キリスト教的生活の規範」と表題が付けられ、9節の愛に関する教えから始まっています。13節までにありますのは、「キリスト者であるあなたたちは、このような偽りのない愛によって生きるように、神様がしてくださるんだよ」という、パウロからの励ましの言葉です。これらは教会のメンバーに向かって、つまり内側に向けられています。14節からはその関係性が広がっていきます。教会の内側だけではなく外側。しかも迫害する者たちのために祝福を祈ることが言われています。自分たちの仲間が変えられていく恵みだけではなく、自分たちの外側にいる人たちとも共にありなさい、ということを神様は望んでいます。自分たちの想いだけでは、やはり内側にいる人たちのことを大事に想い、それだけとなってしまいます。しかも敵対する人たちのために、祝福を祈るなどできそうにもありません。神様はそんな私たちの心を見抜いておられるのでしょう。内側と外側、その全ての人たちと「せめてあなたがたは平和に暮らしなさい」と、神様は私たちに呼びかけているのです。
 その中にとても有名な聖句が書かれています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」これが書かれているのは15節です。つまり、その外側にいる人たちとの関係性の中で語られています。誰かが自分と一緒に喜んで、一緒に泣いてくれたら。そのいろんな気持ちを共感してくれたら。それだけで生きていく毎日が、とても楽になります。そのような人間関係を与えてくださった神様に、私たちは救われているのでありましょう。しかし、この共感してくれる関係性を、どこまで私たちは広げていけるのでしょうか。これは人間の力では限界があると思います。どれだけ努力してもそれが適えられていくことは、簡単ではありません。人間はそんなに良くできた生き物ではないからです。嫉妬もすれば根に持ち、誰かの悲しみを喜んでしまいます。嫌いな相手であれば、ますますそうなってしまいます。
 これは人間の努力や能力によって適えられていくのではありません。やはり、ただ神様に与えていただかなくては、適えられないことです。喜ぶ人と共に喜んで泣く人と共に泣くことは人間の努力ではなくて、神様によって与えていただくことで初めて実践されていきます。教会の内側に与えられる恵みも、そして外側や敵対する人たちとの関係性も、神様によって与えていただかなくては、私たちは適えていくことはできないのです。そしてその真ん中にイエス様がいてくださることによって、私たちは共に喜びながら、泣きながら歩んでいくことが適っていくのです。

  2019年8月11(日)  説教題:「家族の風景」    聖書;ペトロの手紙Ⅰ3章1~7節

 最初期のキリスト教会には女性たちが集い、伝道の働きを担っていました。しかし宗教的な現場も、政治の現場も、支配しているのは男性でありました。人前で話をするのも、一部の男性に限られています。そういった中で伝道の使命を与えられていった女性たちは、どこに伝道の現場を求めていったのでしょうか。それが家庭でありました。しかし家庭でも女性が男性に意見することは適いません。だからこそ、聖書は女性の伝道者たちに教えています。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。」意見することができない言葉を奪われた伝道者たちに、「行い」をもって伝道しなさいと聖書は説いていったのです。これは切なくもあり、また切実な光景です。同じ信仰を持つことを、そして同じ天国を想いながらも、ただ尽くしていくことしかできない、そんな姿です。キリスト教は使徒たちの伝道によって始まっていきました。使徒という役職のある者たちから、一般信徒の手に伝道が渡ったとき。そこにいる女性たちには、語る権利も、そして語る場所も与えられていませんでした。だからこそ、ここに書かれていますように、行いによって伝道をしていくしかなかったのです。
 これが、キリスト教の初期に行われていた伝道です。これは無言の行いであり、無言の祈りでありました。これらは2000年ほど前の社会の状況の中で記されたものです。それでは、現在はどうでしょうか。私はこの状況が今も改善されたとは言い難いと思っています。全国的に見てみましても、教会にいる人たちは、女性の方が多いと言われています。そしてパートナーが同じ信仰を持って欲しいと、ただただ無言の祈り捧げている姿も、どの教会でも見受けられる光景です。実際に私が伺ったこともありますし、キリスト教会が常に抱えている事柄です。無言の行いや、無言の祈りによって、じっと祈りながら耐えていく。この状況は決して聖書の書かれた当時だけではなく、今も続いているものなのです。
 そんな家庭訓の最後にはこのように書かれています。「あなたがたの祈りが妨げられることはありません。」神様が創られた家に、その家族に、お互いの命の恵みが、与えられていきます。それが同じ信仰を持つことに対しての無言の祈りであったとしても、それを人間に妨げることはできません。神様がそれを守ってくれているからです。親子であったり夫妻。それぞれに家族の風景があって、そこには祈りが与えられています。それぞれの祈りが、妨げられることはないのです。

  2019年8月4(日)  説教題:「光の中を」    聖書;イザヤ書2章1~5節

日本基督教団では8月の第1主日を平和聖日として定めています。74年前の戦争の出来事から私たちは何を学び、現代をどう生きているのでしょうか。私は今の日本が、再び戦争への道を歩みだしているように思えてなりません。戦争の方が良いように考えてしまう、そんなおかしな状況が続いています。

人間たちがおかしな状況になってしまったときに、かつてイスラエルでは預言者が与えられていました。その一人がイザヤです。イザヤは南ユダ王国にて遣わされた預言者です。彼は戦わないことを訴えた預言者でした。南ユダ王国が戦争に巻き込まれそうになったとき、イザヤは「落ち着いて静かにしている者が救われる」と政治家たちに助言していきました。預言者は神様に預けられた言葉を語っていきます。戦争に参加するのではなく落ち着いて静かにしている者が救われることが、神様によって預けられた語るべき御言葉でした。

本日のイザヤ書2章にも平和について記されています。終わりの日には、国々が大河のように、人が大きな川のように大挙して、神様のもとへと集います。人々は口々にこういっています。「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」終わりの日に神様は道を示してくださいます。その示された道が4節です。神様が国々の争いを裁くことで戦いは終わり戦いが終わったとき、人間たちに変化が起こります。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。」剣と槍は当時使われていた戦争の道具です。それらが鋤と鎌、農業に使う道具へと作り替えられます。農業は命を養う農作物を作るために不可欠な営みです。つまり人間たちは、命を奪う道具を捨て、命を育む道具を手にとります。武器を捨てて命を慈しむ営みに立ち帰った人々は宣言します。「もはや戦うことを学ばない。」これが神様によって示された道です。もはや戦うことを学ばないという平和へと、神様が示して導いてくださる道なのです。

南ユダ王国には「もはや戦うことを学ばない」道が示されました。これは約2700年前に与えられた言葉です。2700年前の御言葉と、70年前の出来事。これらから私たちは何を学んだのでしょうか。私たちが戦争の出来事から、そして神様の御言葉から学んだのも、戦わないということです。そのために武器を捨て、命を育む道を歩むことです。それが神様の示される道、光の中を歩む道です。武器を取って戦い、搾取し、奪い取る者の道は、主の光の中にありません。神様は「光の中を歩もう」と私たちに呼びかけてくれています。この光の中を共に歩んでまいりましょう。