説教要約(7月)

 2019年7月28(日)  説教題:「重荷」    聖書;ガラテアの使徒への手紙6章1~10節

 ここで言われている「重荷」とは人間の持つ「不完全さ」や「弱さ」です。ガラテヤの人々も、ある弱さの中にありました。それは自分を絶対化すること、そして宗教的な優越感に浸っていることです。自分の信仰が絶対に正しいのだ、という変な自信を持つことで他の人の信仰を否定してしまい、互いに争う出来事が起こっていました。ガラテヤ教会の持つ重荷は、共同体として負っているそのような弱さであったのです。

 それでは私たちはどのような重荷を負っているのでしょうか。それぞれに負っています弱さは、心や体が弱ってしまうような出来事や、日々抱えている問題、悩ましい課題など。これらも私たちが担っている重荷です。心のことや体のことなど、いろんな課題を抱えながら生きています。言葉に出来ないような、誰かに言えないような、そんな弱さを覚えながら私たちは生きています。「弱さ」という名の重荷を、そんな自分の重荷を、今を生きる私たちも抱えているのです。
 そして抱えていますのは、自分の重荷だけではありません。他者の重荷も、その肩へと乗っかってきます。一人で生きているわけではありませので、やはり自分のことだけしてれば良い、というわけにもいきません。他者の重荷、弱さを共に担わなければならない状況というのも、よく起こってまいります。仕事、家庭、そして教会などの様々な場面で、重荷を担い合うということは現実的に起こってくるわけです。
 弱い者同士がその弱さを知りながら共に歩んでいくことは、美談のように聞こえますが、そんなにきれいな話でもありません。人間の人間的なところ。汚かったり、泥臭かったり、卑劣だったり、それでもまだ美しさがあったり。そんな弱さを知って生きていくことを、聖書は私たちに教えています。互いの重荷を背負い合って生きていくのは、そんな道を行くことなのです。
 そのように考えてみますと、私たちの歩む道は重荷だらけです。ですがそんな私たちの重荷を軽くしてくれると、イエス様は言ってくれています。(マタイによる福音書112830節)私たちには自分の重荷があります。そして、互いに担い合う重荷もあります。二人で二つの、あるいはそれ以上の重荷を担っていきます。でも、その重荷を共に担ってくれるのがイエス様です。一人だけでも二人だけでもないんです。その重荷を共に背負っているのは、キリストです。誰にも言えなかったとしても、その弱さを神様だけは知ってくれています。そして神様が遣わしてくれたキリストが、私たちの負っている弱さを一緒に担い、軽くしてくれるのです。

 2019年7月21(日)  説教題:「脇役」    聖書;ヨハネによる福音書 3章22~30節

 この御言葉で語られていますのは、洗礼者ヨハネについてです。彼のもとには多くの人が洗礼を受けるために集まっていましたが、イエス様が来られたことで、そっちの方に人が流れていきました。それを弟子たちは心配しているのですが、ヨハネはこのように言います。「あの人は栄え、私は衰えなければならない。」私たちが「衰える」という言葉を聞くとき。それはネガティブな言葉として聞こえてくるかもしれません。しかしここでヨハネが語る「衰え」は悪い意味ではありません。自分のもとから人が離れていくことは、イエス様が栄えることとなります。それがヨハネに与えられた仕事なのです。ヨハネは喜びで満たされ、衰えていきました。ヨハネは自らの仕事をこなして、主役であるイエス様へと、譲っていきます。道を整えて、喜びと共に、衰えていったのです。
 ヨハネは自らが宣教の主役ではないことを、自覚していました。福音書で描かれるイエス様が宣教の主役であるならば、ヨハネはその助けをした脇役、中でも「名脇役」と呼べるのでは、ないでしょうか。名脇役といいますと笹野たかしさんという俳優がいまして、このような言葉を残されています。
 「よく『主役を食うにはどうしたらいいんですか?』なんて聞かれるんだけど、本当に主役を食っているとしたら、むしろ失敗ですよ。主役と脇役っていうのは、バランスよく存在しなくちゃいけないしね。
 主役を食うつもりではなく、おごり高ぶらずに、自らの与えられた役柄をこなしていく。主役を活かす働きをされています。ヨハネは主であるイエス様のために生き、まるで名脇役のようにその道を整えました。「脇役」は、「主役」を活かします。ヨハネは主を活かしたのです。
 教会という共同体の主役は誰でしょうか。教会は神様への礼拝を献げ、神様を賛美し、神様へ向けて祈っています。また、それぞれを執成して下さるのがイエス様です。主役は人間ではなく神様、そしてイエス様です。誰のための教会かと言いましたら信徒一人ひとり、そして人間が礼拝を献げるための場所であります。しかし礼拝の真ん中にいますのはイエス様です。人間が主役なのではありません。神様・イエス様が主役であり、私たちはそれを証しする脇役なのです。
良い主役は脇役をしっかりと活かし、全体を良いものとします。私たちの主役は、良い主役です。神様、イエス様です。活かされながら、神様の教会で、共に生きて参りましょう。

 2019年7月14(日)  説教題:「隔たりを超えて」    聖書;使徒言行録11章4~18節

 ペトロがエルサレムの教会に報告をしています。それはコルネリウスという異邦人の家で起こった出来事です。異邦人とユダヤ人の間には大きな隔たりがありました。しかし神様は幻とコルネリウスとの出会いを通して、主の救いが与えられるのは、ユダヤ人だけに限ったことではないことを示されます。そしてペトロはキリストを信じる異邦人たちに洗礼を授けます。どのような立場にあっても、どのような違いがあったとしても、それを妨げることは誰にもできません。聖霊は神様の御心のまま、人間に制限されることなく自由に与えられていきます。イエス・キリストが分け隔てなく宣教されたように、イエス・キリストの名による洗礼は与えられました。神様が分け隔てなく与えられたものを、人間がなぜ妨げるのでしょう。神様がペトロにコルネリウスとの出会いを与えられたことで、信じる者全てに、キリストを求める全ての人々に、その救いが与えられることが適っていったのです。
 隣人として生きていた「ユダヤ人」と「異邦人」。そこには宗教や生活文化、人種といった多くの隔たりがありました。私たちの世界にもこのような隔てが存在します。他の民族を貶めることで、自分たちが優位に立とうとすることが、「愛国」という名のもとに、まかり通っています。それによって、隣にいる人なのに、「異邦人」を傷つけています。隔てを作ることで、私たちはそれを喜ぶ人たちに利用されていくのです。それは民族に限っただけではありません。立場や性別、性的指向、住環境など、隔てを作られる機会に溢れています。私たちの心の奥底には、そのような良くない感情がくすぶっているのでしょう。集団心理として、見えないところに潜んでいるものが、ときに顔を出します。
 私たちもこの隔てを取り去る出会いを神様に与えていただかなくてはなりません。神様はコルネリウスとの出会いを、ペトロに与えられました。異邦人、違う民族であったとしても、そのコルネリウスたちに聖霊が降った出来事を目の当たりにします。この出会いの出来事を通して、ペトロは異邦人との隔たりが解消されました。それがエルサレムで報告され、彼らもまた隔たりを取り去られました。私たちの信じる神様は分け隔てをなさらない方です。人間は様々な区分を作って分け隔てます。ですが神様はそんなものを越えて人間に臨んでいかれます。神様によって与えられた出会いを通して、私たちも隔てを解消することが適うのです。

 2019年7月7日(日)  説教題:「寂しい道で」  聖書;使徒言行録8章5~12節

本日の御言葉は寂しい道で起こった出来事です。ここはかつての戦争によって荒れ果て、人気のない道でした。
 私たちも寂しい道を歩むことがあるでしょう。それは本当に人のいないような、暗い道だけではありません。それぞれに心の寂しさを抱えながら歩むとき、その道はきっと寂しい道であることでしょう。信仰生活を続けていく中でも、やはりその寂しさを感じるときがあると思います。どれだけ御言葉を求めても、どこか満たされない。何も自分の恵みとして感じることができない。それを「寂しさ」と言うのは正しいのか分かりませんが、この宦官のように一人で御言葉を読んでも理解できなくて苦しむ姿は、悩める信仰者の姿と重なってきます。

 神さまを信じていながらも、その中にも何かの寂しさを抱えておられる方もおられるのではないでしょうか。また、社会に生きる中での「寂しさ」も、人間は抱えて生きていきます。一人であったり、何者にも認めてもらえない、なんで生きているのか分からないとき、それは寂しさとなって心に影を落としていきます。人間にとって「寂しい」という気持ちや、それに関わる問題は根深いものがあるのだと思います。ここで私が挙げたのは、いくつかの場合ですが、それだけでは数えきれないほどの、または人の数だけの「寂しい」が、私たちの生きる中には存在しています。そんな寂しさの中で歩む道は「寂しい道」なのでありましょう。私たちもいろんな場面で、いろんな場所で、寂しい道を歩まなければならないような、そんな時もあるのです。
 本日与えられた御言葉は「寂しい道」に神様が人を遣わされた場面でした。これは心の寂しさを現わしたものではありませんが、環境としての寂しさを私たちの生活の置き換えますと、それはそれぞれが抱えていく寂しさに見えてきてなりません。私たちが抱えていく様々な寂しさ、その道を行くときに、神様は救いを遣わしてくださいます。ここでは、それがフィリポを通して与えられた福音でした。聖書の手引きと、それを通して与えられた洗礼を受けるタイミングでした。これは、この宦官にとって必要なもの、神様によって用意されたものです。私たちにも、寂しい道からの救いを、神様が必ず用意してくれています。それはフィリポみたいな人物かもしれません。また、いまはまだ思いもよらない、救いへの第一歩かもしれません。きっと神様は寂しさに喘ぐあなたへの救いを用意してくれています。どれだけ寂しい道を、寂しい場所を生きていようとも、その道を行く一人に、救いの御言葉を求める一人に、神様は目を留めてくださいました。私たちへも、その救いは与えられていきます。どれだけ寂しくとも、その苦しさを神様だけはご存知です。神様はその寂しさを知り、憐みをもって救いを遣わしてくださるのです。