説教要約(5月)

2019年5月26日(日)  説教題:「これほどの信仰」  聖書;ルカによる福音書7章1~10節

 本日の御言葉では、百人隊長と呼ばれている人からの使いがやってきます。彼は異邦人でしたが、部下の病を癒すという救いを与えることができるのはイエス様だと信じています。だからこそ、彼は病を癒してもらうため、イエス様のもとに使者を送りました。
 そんな百人隊長のことをイエス様はこのようにおっしゃっています。「これほどの信仰をみたことがない。」神の民ではなく異邦人の中から、イエス様が見たことのないほどの信仰者が現れたのです。それはどのような信仰でしょうか。それは使者に託した「ひと言、おっしゃってください」という言葉に集約されているように思います。これはキリストが与えられるものによってのみ救われることを信じ、それに委ねている一言です。彼が求めているのは「早く家に来て、助けてください」でも、「異邦人の家だけど、とにかくきて、奇跡の業を行ってください」でもありません。多くもなく、少なくもなく、キリストが人を救うために必要な「一言」です。それが与えられるものの全てであることを彼は信じていました。自分が救われるために何が必要なのか、それを知っておられるのはキリストです。キリストがその人を救うのに必要だと思われる一言、救いの源となる一言を、百人隊長は求めたのです。
 私たちにも多くもなく、そして少なくもなく、キリストによって与えられるものが用意されています。私たちに必要なものは、全てイエス様が知っておられるからです。自分たちの欲しいものではなく、キリストによって与えられたもの。これが私たちの全てです。与えられてきた様々なものを通して、これまでの歩みをキリストが守ってくださいました。これからの歩みも、キリストの与えられるものによって守られていきます。私たちも「一言おしゃってください」と、祈ってまいりましょう。キリストが与えてくださる一言、その恵みの一つひとつが、私たちを救うものです。それに委ね、信じてまいりましょう。

2019年5月19日(日)  説教題:「試練の人生」  聖書;ヨブ記2章9~10節
                                    コリントの信徒による手紙110章13節

  当教会元牧師 三浦 修師に説教をしていただいたので、今週の説教要旨はありません。

2019年5月12日(日)  説教題:「一人も失わないで」  聖書;ヨハネによる福音書6章34~40節

 今週の聖書では「命のパン」について書かれています。この時代を生きた人々にとってパンは、生きていくために必要な日々の糧でした。もし、パンを無限に増やせる人がいたら、夢のような話です。今でいう「金のなる木」が生えているようなものです。それが出来た人がイエス様です。五千人にパンを分け与えたイエス様のもとに、人々は殺到しました。お金に目が眩み、そのことしか考えられない現代人のようです。イエス様の周りに集まってきたのは、欲を満たす物で頭も心もいっぱいになっている人たちでした。
 イエス様はそんな群衆にこんなことを言われます。「わたしが命のパンである」イエス様は私を信じるもの、私のところに来るものは命が養われて満たされる、ということを人々に伝えていかれました。
 人間の命は、何で養われていくんでしょう。パン、お米、お金。それらが欲しいと思い生きています。しかし、それが満たされたら、何も心配いらないってわけでもありません。食べるものがあれば満たされるのか。資金が潤沢にあったら満たされるのか。そんな単純なものでもありません。大人でも子どもでも、満たされたい、愛されたいという想いを抱えています。それぞれに違った事情を抱えて、満たされない想いがあるのです。
 きっと、その一つひとつを埋めてくださるのがイエス様なんです。キリストが必要である、ということは、何かを埋めてもらっているのだと思います。キリストという命のパンによって、命が養われていることをどこかで感じているからです。キリストに埋めてもらった、命が満たされた経験が、誰しもおありなのではないでしょうか。大きな存在が私のことを愛してくれている。目には見えないけどイエス様が一緒にいてくれる。そんな「命の養い」を、命のパンを通していただいているのです。
 この命のパンをもらうことが出来るのは誰でしょう。イエス様は「一人も失わないで」と言っておられます。私たちにはいろんな違いがあります。体の大きさ。体力や年齢。何を信じているか。お金があるかないか。そんな違いがある中で、こうして一つの会堂に集まることができました。また、ここに来ることはできなくても、同じキリストを信じている人もいます。イエス・キリストは、その全ての人にとっての、命のパンです。キリストの前に集い、礼拝の恵みを受けて、そして養われていくのは、限られた条件があるわけではないんですね。ただ、神様があなたを必要としているから、私たちはここに集められました。そして、キリストを命のパンとして、一人も失わないで、与えてその命を養ってくれるのです。

2019年5月5日(日)  説教題:「焼き魚」  聖書;ルカによる福音書24章36~43節

 鳥取に来てから魚介類を食べる機会が増えてきました。やはり、その土地で長年親しんでこられたもの、旬のものは経済的にも美味しさも段違いです。それによって、豊かな食卓になっていくのだと思います。
 聖書でも食事の場面は大切なものとして書かれています。イエス様は様々な立場にある人たちと、食事の席に着くことで救いをもたらしていきます。本日示された御言葉でもイエス様は焼き魚を食べています。イエス様は復活した後、弟子たちの前に姿を現したところでした。そこでイエス様は自分が亡霊ではないことを証明し、焼き魚を食べられました。
 この地方に暮らす人々にとって焼いた魚は、一般的な食事の一つです。イエス様と弟子たちにとって「焼き魚」という食べ物は、地の物でありいつもの食事です。鳥取で魚が多く食べられるようにイエス様たちにとって、魚を食べることはいつもの食事の一つでした。イエス様はいつものあいさつ、いつもの食事を、弟子たちに示したのです。十字架での死によって弟子たちとイエス様との、日常的な交わりは途切れてしまいます。ですがイエス様は復活します。体の蘇りによって復活したのは、人間とイエス様との交わりの一つひとつです。弟子とイエス様。人間とキリスト。この愛に満ちた関係も蘇ります。またあの時のように、共に食事の席についてくれています。一度途切れたかに見えた共に生きる関係が復活したのです。
 このいつもの関係が復活したことは、命が繋がっていくことでもあります。キリストが死を乗り越えて、人間との関係を再び繋いでくれました。私たちにとって死は、全てを断ち切ってしまうものではなくなりました。人間とイエス様との関係は、地上での命によって終わるものではありません。そしてキリストに交わる人間たちの関係も、地上での命と共に終わるのではありません。キリストは死を乗り越えて人間との関係を継続してくれています。こうして礼拝を通して与えられていく私たちの交わりも、キリストは共にいてくださっています。永遠の命へと招いてくださっているのです。
 キリストはいつものように、弟子たちと焼き魚を食べました。共に交わすあいさつ、共につく食卓は、命が繋がっていく場です。その一つひとつが、キリストと私たちの関係を生きたものとしてくれています。こうして私たちにも、礼拝を通して主の復活は知らされました。私たちにも命の交わりは与えられています。私たちも一人ひとりが、この主の食卓へと招かれています。焼き魚を食べた、この関係を回復されたキリストが、共にいてくださるのです。