説教要約(4月)

2019年4月28日(日)  説教題:「心が燃えていたではないか」  聖書;ルカによる福音書24章13~35節

 エマオへと向かう二人の弟子たちはイエス様の復活を知らず、暗い顔で旅をしていました。その道の途中で、イエス様が二人の弟子に合流したのですが、彼らは気付くことができません。死んでしまった人が出てくる訳がないと、思っていたのかもしれません。弟子たちはこの間に起こった出来事を話し始めました。彼らが語ったのは「預言者でした」、「十字架につけてしまった」、「望みをかけていました」と全て過去の出来事です。もういない人、会うことのない人のことを話しています。過去に信頼していた人として、キリストのことを話したのでした。
 そんな二人へと、イエス様は語り始められます。それは聖書の話でした。そして家に着いたイエス様はパンを裂いて賛美の祈りを唱え、礼拝をしました。それらを通して、弟子たちの目は開かれます。御言葉と礼拝を通して、彼らは一緒にいるのがイエス様だと気付きました。彼らはそれを「心が燃えていた」と表現しています。キリストが共にいることを知ったとき、心は燃えていたのです。彼らの心はキリストによって火が灯りました。弟子たちは御言葉と礼拝とによって、イエス様と再び出会ったのです。
 エルサレムからエマオへと行く道、彼らは暗い顔をしていました。キリストの出来事を、過去のことと思い、それを語るときは全て過去系でした。しかし、それはイエス様との出会いによって変えられます。エマオからエルサレムへと戻る道は、もう暗くありません。過去のキリストが、現在のキリストへと変えられます。いま共に語って、いま共に歩いたキリストへと変えられます。過ぎ去ったものが、再び現代へと戻ってきました。過去の絶望への道は、そこから戻っていくときに、現在の希望へと変えられていったのです。エマオからエルサレムまでの道に、イエス様の姿はありません。ですが、彼らの心は燃えています。イエス様によって照らされた火が灯っています。目には見えませんが、燃える心に、彼らと共に、そこにはキリストがいたのです。
 弟子たちが出会ったように、私たちも礼拝を通して、そして御言葉を通して、キリストと出会っていきます。私たちはそれに気付かないかもしれません。すぐそこに居ても、それが見えていません。しかし、キリストは私たちの心にも火を灯してくれます。エマオへの道、そしてエルサレムへと戻っていく道は、私たちが歩いていく道です。その道で私たちはキリストと出会っていきます。そこでキリストは御言葉を与え、礼拝へと招いてくださいます。そして私たちに、信じるための火をつけられます。心が燃えていたとき。それはキリストがあなたと共におられるときです

2019年4月21日(日)  説教題:「復活のあいさつ」  聖書;マタイによる福音書28章1~10節

 イースターを迎えました。
 イエス様の復活の出来事に出会った番兵に女性たち。そして弟子達。どの人間も復活のイエスと出会ったときは恐れていました。死んだ人が甦ることは、人々にとって恐ろしい出来事であったのです。
 しかし甦ったイエス様は人々と最初に出会われたときに、「おはよう」と言われました。これは朝の挨拶だけではなく、「こんにちは」、「さようなら」など、様々な挨拶の場面で使われていきます。ここでの「おはよう」という言葉は、一般的なあいさつの言葉です。復活のあいさつは、いつものように交わされるあいさつだったのです。
 人間が死者の甦りに遭遇したとき。あるいは想像したとき。恐れおののきます。疑いを持ってしまいます。しかし、イエス様にとってそれは、怖いことでも、疑わしいことでもなかったんですね。だからこそ、特別な言葉で「私は復活したぞ」と、イエス様は言われませんでした。今まで同じように、周りにいた人たちと接して下さいます。そこで交わされたのは自然なあいさつです。これまでと同じように、イエス様は「おはよう」という言葉を、かけて下さったのです。
 イエス様が言われた「おはよう」という言葉には、挨拶以外に「喜べ」という意味があります。復活の主と出会った人間は、恐怖で震えていました。そのような人間にイエス様は「喜べ」と言われます。イエス様は悲しみを喜びへと、変えてくれました。それは、再びイエス様と出会うことが出来たからです。慕っていたイエス様と再び出会い、またいつものように親しみを込めて「おはよう」とあいさつを交わすことができる。それを喜びなさいとイエス様は言っておられます。イエス様に声をかけられた女性たちには、悲しみが喜びに変わる出来事であったのです。
 復活への疑問や恐怖。それを抱く人間の前に立ち、イエス様は「おはよう」と言われます。人間の疑いや恐怖など関係なく、それが当たり前かのように、イエス様は復活を果たされました。そして「喜べ」、と声をかけてくださいます。恐怖や悲しみ、疑いをイエス様は喜びへと変えてくれました。私たちと出会い、救いを備えて下さいます。復活のキリストとの出会いは、私たちにとっての喜びです。全てを喜びに変えて救って下さる、嬉しい出会いです。私たちにも復活のキリストと出会う時がこうして備えられました。復活の主は私たちの前にたち、「おはよう」と言っておられます。喜べと言っておられます。この喜びの出来事に、共に預かってまいりましょう。

2019年4月14日(日)  説教題:「もう、これでいい」  聖書;マルコによる福音書14章26~42節

 本日示されました御言葉にはイエス様と弟子たちも、弱さを持つ人間であったことが記されています。
 イエス様はゲツセマネで祈っておられます。その祈りには「神様を信頼しつつも迷いながら、でも最後には委ねていく」そんな姿が記されています。イエス様は神様を信頼しつつも苦悩しています。その姿はまるで私たち人間のようです。イエス様も人間のような、苦悩する弱さを持っておられました。イエス様は人間と同じように悩んでくれたのです。人間と同じように苦悩の中で祈りを献げられました。そして最後にはその全てを神様に委ねておられます。苦悩の中にあっても、明確な答えが得られなかったとしても、全てを神様に委ねておられます。イエス様は悩みながらも、その全てを神様にお委ねしたのです。
 イエス様は苦悩する弱さを弟子達に示されました。しかし弟子たちは寝ていました。人間と同じ苦悩する姿をキリストは示してくださったのですが、弟子達は一時も目を覚ましていることはできません。それが弟子達の弱さです。この弟子達の弱さは、悩み苦しむイエス様に従いきれない人間の弱さです。しかしこれは、聖書に書かれている弟子たちだけの弱さではありません。ここで寝てしまっている弟子たちは私たちです。私たちがイエス様に従いきれない弱さです。イエス様を最後まで見て、聞いて、そして従っていくことのできない弱さです。私たちも受難週に十字架を前にして、イエス様を見失ってしまいます。キリストを前に目を覚ましていることのできない、そんな弱さを持っています。これは弱さをもった私たちの姿なのです。
 そんな眠っていた弟子達を前にイエス様はこう言われました。「もうこれでいい」。この一言はイエス様が弟子達の弱さを受け入れられた一言です。こんなに小さな私たちを前にキリストが「もう、これでいい」と言って、全てを引き受けてくださいました。私たちの解決し得ない悩みや課題も、そして弱さも、キリストが共にいて受け入れてくれています。人間の限界を知り「もう、これでいい」と言って、私たちの弱さを知ってくれています。それぞれの重荷を共に担って、イエス様もまた弱さの中で、共に苦しんでくれているのです。弱い私たちのそばに、同じ弱さを示されたキリストがいてくださいます。それだけで私たちには、もうこれでいいのです。

2019年4月7日(日)  説教題:「人任せ」  聖書;ヘブライ人への手紙2章10~18節 

   * 今年度、京都から新しく木谷牧師をお迎えしました。先生の説教を通して神様のみ言葉を聞く機会が与えられ感謝です。

 本日の御言葉には、キリストが十字架での苦しみを受けられたその理由が記されています。それは、人として十字架での受難により苦しみ、完全な救い主となるためです。十字架の痛みを何とも思わない神であるならば、それは完全な救い主ではないと聖書は示しています。ですからイエス様が世に来られたのは人間としてです。マリアから人間の子、「人の子」として生まれイエス様は世に来られました。そして人間にしか知ることはできない数々の苦しみを、十字架の出来事を通して体験されます。その苦しみを受けるために、キリストは人と同じ者となりました。それが「完全な救い主」であると、聖書は示しています。完全な救い主は人間でないといけませんでした。キリストは人の子となることによって、人間の苦しみを知りました。十字架の救いはキリストが人間として死んだからこそ、私たちの救いとなるのです。
 イエス様は人間として、苦しみと試練を受けて下さいました。試練を受けた人の子であるからこそ、試練の中にある人を助け出すことができます。私たちも生きている中で、様々な試練が訪れてきます。自分や他人、個人や集団など、数々の試練が訪れてきます。それらの試練から救い出して下さるのは、試練を受けたキリストです。キリストこそが試練の中にある人々と、共にいて下さいます。それは目に見える救いではないのかもしれません。ですが私たちの試練の中で共に苦しみ、共に泣き、キリストが一緒に苦しんでくれています。私たちには、私たちのために苦しみを受けてくださった方が、一緒にいて下さいます。個人的な試練であっても、教会としての試練や課題であっても、十字架のキリストが共にいて悩んでくれているのです。
 いろんなことを、試練から救い出して下さるキリストに、任せていきましょう。自分の苦しみも、誰かの苦しみも、教会全体の苦しみや試練、課題も。全てイエス様が一緒にいて、一緒に苦しんで下さいます。私たちは人任せで良いのです。この「人任せ」という言葉は、あまり良くない場面で使われていきます。ですが、ある意味では「信頼の表れ」ととることもできます。人の子を信頼し、人の子に委ねていきましょう。人任せというよりは、「人の子任せ」です。私たちには、この人の子に任せ委ねる、「人の子任せ」が赦されています。神様はそれを赦すために、救い主を人の子として世に送られました。人の子は親しみをもって臨み、私たちが救いを委ねることを赦して下さいます。私たちは人の子に信頼し、委ねて歩んでいけるのです。