説教要約(3月)

  * 森嶋牧師が熊本県へ転任されることになり、湖山教会での最後の説教になりました。神様の恵みとお導きをお祈りしています。

2019年3月31日(日)  説教題:「新しい地、新しい自分」  聖書;ルカによる福音書9章28~36節

 「なごり雪」。今年の冬は珍しく雪が少なかったのですが、今日の雪とともに、最後の日を記憶に刻みます。鳥取県の8年間が雪のひとひら、ひとひらに透けて見えます。この雪が氷に変わり、畑に注がれて「実り」へと変わっていくように、イエスの姿が変わる物語がありました。イエスは漁師や両替商をしていた弟子たちと共に、病気や悩みに苦しむ人に聞き、それに答えておられました。その人間イエスが、山に登られると光り輝いたというのです。山は神を礼拝する場所です。
 日常は、人々の中で共に苦しみ、共に悩む人間イエスが、礼拝の時には神の子として愛されひかり輝く姿は、キリストのすばらしさだけを伝えているのではありません。私たち、キリストの後を追い求めるひとり一人の姿でもあるのです。
 では、どのような時に、姿が変わるのでしょうか。どのような経験が私を変えるのでしょうか。私事で恐縮なのですが、鳥取に来た時に犬を一匹連れてきました。妻が猫を飼いに行くと言って買ってきたのがこの子でした。鳥取の環境は良く、散歩したり、同じ飼い犬と出会ったり、楽しい思い出が出来ましたが、ある年の12月に交通事故で亡くしました。飼い主としての責任に悩みました。クリスマスが喜ばしい時ではなくなりました。
 それでも、教会とそこにいる人たちに遣えるため、何事もなかったかのように振舞いました。でも、心は砂を噛みしめるような虚しさがありました。何度も、「なぜ、自分だけがこうなるのか。」と言いました。
 それが変わったのは周りの声を聞いている時でした。おじいちゃんをなくした孫がいて、夫を亡くした妻がいて、友を亡くした友がいたのです。私の中の声が変わりました。「なぜ、自分だけがこうなるのか」から「自分だけがこうなのではない」となったのです。何よりも、辛いのは自分だけではなく、妻であり、自分に気遣っている教会の方々であることに気付きました。そして、教会は悲しみと悲しみがつながり、慰め合って、元気になる場所であることを知ったのです。詩編126編6節にはこうあります。「種の復路を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。聖書は言います。その悲しみを種にしなさい。喜びに変わる種にしなさい。雑草のように生える疑いと嫉妬を引き抜き、与えられた命として、光に向かってまっすぐに行きなさいと。私たちの心も変わるはずです。あなたにそそぐ、神の愛と友の慰めを信じて。

2019年3月24日(日)  説教題:「自分の十字化を背負って」  聖書;ルカによる福音書9章18~27節

 イエス様の弟子は多くいましたが、その中でも特に12人を大切にされました。それは優秀であったというよりは、よく心にかけたという意味で中心的な弟子になったということです。
 今日の個所はで、その12人の中のペトロという人が注目されています。ペトロとはあだ名で「岩」という意味です。人間性が岩のように頑固であり、一途であったということでしょう。
 福音書はこのペトロがイエス様を始めて「救い主」と呼んだことを伝えています。ですから、このペトロはキリスト教の中で重要な人物となっていきます。しかし、ヨハネによる福音書だけは違いました。
 ヨハネによる福音書では、イエス様を「救い主」と呼んだのは、女性のマルタだったと記録されています。マルタはその他の福音書では働き者であっても、見えないモノを大切にできない実利的な人間として描かれています。
 この女性マルタに注目したヨハネによる福音書は、良く働く者こそ、よく考えるという経験知があったように思います。確かに、私たち湖山教会を例に挙げても、多くの女性たちの活躍があったからこそ、教会がここに建っていると言えるのです。
 この実利的な女性マリアには妹がいました。妹マリアは静かにイエス様の言葉を聞くい人でした。この姉妹マルタとマリアは、二人で一つの人格を演じているように思います。
 社会の中でマルタのように働かなければいけない、一方で、その意味を考えるとき、マリアのように神の声を静かに聞く姿勢が必要なのだと思います。求めているのは賃金だけではないはずです。誰かのために生きるのです。
 私たちは仕事に多くの時間を要します。仕事は効率的であるからこそ、無意味なものを切り捨てます。でも、無意味なものこそ、自分らしさであるのです。自分の弱さを知り、その弱さをひっくり返すことにことこそ、十字架の意味なのです。

2019年3月17日(日)  説教題:「争いの始まりはどこに?」   聖書;ルカによる福音書11章14~26節

 私たちの周りにはグループを作り、人を敵か味方かという考えで分けてしまう人たちがいます。特に、「あなたは敵なのか、味方なのか」という言葉を前に戸惑うことがあります。
 自分にとって都合がよいか、悪いかでその人を判断するというこの押し付けコミュニケーションに遭遇すると、私たちの意思に関係なく、その人の考えに飲み込まれて、いつの間にか自分の同じように考えてしましまうす。
 イエス様に対して非難している人たちもそのようです。ここでは「ベルセブル」という悪魔の名前を出していますが、これは「主人」と言おう意味だそうです。
 この場面では、まるでっその悪魔ふがいるかのような前提で話していますが、そもそも悪魔を作り出したのは、敵対心であり、品反している人たちにない面が生み出したと言えるでしょう。
 戦争で多いのは隣国との戦争だと言われています、つまり、一緒にいればぶつかるkとおが多いというのが人間の姿です。理由あH明確でないほどにその争いは続くものです。
 共に生きれば良いところも悪いところも見えてきます。きれいな川もづっと眺めていれば底にごみがたまっているのを見つけるようなものです。でも、それを互いに責めるのではなく、補い合うようにしたいものです。
 争いの始まりはどこにあるのでしょう。理由はいろいろあったとしても、それは自分の中から出てくるものだと思います。伝え方ひとつで、相手を敵に変えてしまう弱さがあるのだと思います。
 いつものの人と同じ側に立って物を見ること、それがキリストの姿でした。そのように、敵か味方かという狭い見方から離れて、この人もきりすとが愛している一人だという気持ちで接したいと祈ります。


2019年3月10日(日)  説教題:「不足と満足」    聖書;ルカによる福音書9章10~17節

  「エクソシスト」という映画があります。人間にとりついた悪例を追い払う姿を描いています。ホラー映画ですから怖いものですが、本当に悪例っているだろうかとも思います。 
  映画では誇張された悪例の悪霊が出てきましたが、聖書の世界にも悪霊がいると信じていて、何度も話に出てきます。私たちには想像もできない世界です。病気や問題はすべて悪霊のせいだという考え方だったのです。

  
教会では3月6日にから受難節に入りました。キリストの十字架を思い、自分を見つめ直す期間だと言えるでしょう。この期間は40日間ありますが、それはイエス様が悪霊と戦ったのが40日だったことに由来しています。
 聖書では、空腹を感じたイエス様に、悪霊が意思をパンに帰るようにささやきます。自分の欲しい物のために、道理を曲げるように言うのです。自分の欲望を悪霊はよく知っているのです。
 その次に、町が良く見えるところへ連れて行って、権力を与える代わりに悪霊を拝むようにささやきます。力を求める中で不正義を行っても良いというのです。私たちの弱さを知っているのです。
 最後に、高い場所に連れて行き、自分の命を投げ出し、神が助けルカを試すようにささやきます。私たちは自分が愛されているか、時々わからなくなります。そして、相手を試すことをよく知っているのです。
 この悪魔のささやきは、実は自分の中にある自分の声だと思うのです。正しくありたいと思う自分と、それを曲げようとする自分がいるのです。私とワタシがいつも心の中で戦っている姿を、聖書はイエスと悪霊の物語で教えているのだと思います。
 イエス様のように強くありたいと思いながら、私たちはいつも自分の思いに負けてしまいます。でも、イエス様のその弱い姿を知っておられます。だからこそ、今度は負けないという勇気を与えてくれるのです。私たちの中に戦う言えず様がそばにいるのです。

2019年3月3日(日)  説教題:「不足と満足」    聖書;ルカによる福音書9章10~17節  

 一人の食事を何人で分けることが出来るだろうか。経済的格差を抱えつつも、国家としては食糧を捨てるほど持て余している日本において、食事を分け合う必要もないのかもしれません。
 しかし、主の祈りの中にもありますように、「日用の糧を今日も与えたまえ」という願いは世界の多くの人が持っているものです。そう、不足を感じて生きている人が多くいるという現実があるのです。
 そう思うと、私は主の祈りを自分のためだけに祈っていて、他の人の立場で祈ったことの少ないことを痛感させられます。分けるほどのものがあったとしても、分ける気持ちがないというのがこの世界の現状であり、人間の弱さであり、私そのものであるように思います。
 では、満足しているかというとそうでもありません。多くの物があることで充実している社会は意外と少ないのです。そこでもちいさな不足感があり、満たされない思いが存在するのです。
 聖書は5000人が食事を分け合った物語があります。あまり現実的ではありませんが、この物語が伝えるのは、神さまが誰一人として満たされない貧しさから助けたいという思いがあることなのです。
 食事の豊かさとは、食べる物の価値ではなく、どれほど多くの人と食事を共にできるかという課題が出されているのです。それも、人数というよりも、より小さな存在との関係を持つことを求められているのでしょう。
 何を食べようか悩むことはない、とも聖書には書かれています。不足を感じるのは自分が中心だからなのであって、満足を求めるには誰かを思う必要があることを聖書は伝えているように思うのです。