説教要約(2月)

2019年2月24日(日)  説教題:「古い傷と新しい慰め」    聖書;ルカによる福音書5章12~26節

 聖書には様々な奇跡物語があります。多くは病気をいやして頂くお話が多いです。神さまの力がどれほどか分かりやすいからでしょう。今日も、2つの物語が続けて紹介されていました。
 1つめの物語は重い皮膚病にかかっている人でした。その人は治りたい思いを持ちながらも、「御心ならば」という言葉を語っています。これは謙遜の気持ちです。私の思いではなく、神さまの思うようにしてくださいという祈りです。
 この重い皮膚病の方は、その信仰が神さまを中心としたものだったことが認められ、イエス様からいやしを頂きました。その人の信仰をほめている言葉が聖書に書かれてある通りに。
 さて、1つめの物語は中風を患っている人でした。この人は友人たちに連れられてイエス様の所に行き、いやしてもらいました。その時には、イエス様はこの友人たちの信仰をほめておられました。
 この2つの物語が続けられているのは時間的なつながりよりも、他に意味があるように思います。私たちが神さまに出会うのは、その人自身が神さまを求めている場合だけでなく、知らず知らずのうちに、友人や家族に誘われて、教会につながることもあるからです。
 面白いのは、2つめの物語で、中風の人は玄関ではなく、屋根から家に入ったと書かれています。それは、答えは1つではなく、神さまに出会う入り口も1つではないという意味だと私は考えています。
 どのような痛みであっても、必ずその痛みに神さまが慰めをくださるというのが希望であり、信じることなのです。共に泣いてくれる友がいて、心のしみる言葉が与えられるのです。傷と痛みの多い人生であっても、それと同じだけの慰めと励ましが用意されているのです。


2019年2月17日(日)  説教題:「はじめての祈り」   聖書;マルコによる福音書1章35~39節

 創立69周年を迎えました。教会の誕生日です。湖山教会は4人の女性たちが祈り始めたことからスタートしました。その時には土曜日の夜に集会をしていたようです。
 創立30周年誌によれば創立者の上山たけ姉が記している文章から、土曜日の夜に礼拝し、その後、兄弟姉妹と話し合いを午前4時まで続くほど楽しい時間だったようです。
 さて、初めての祈りは何を祈ったのかと思いました。私たちも初めて祈っ記憶がありますが、上山姉は何を祈ったのかと考えました。地域の子どもたちのためか、湖山のためか。
 はっきりとは分かりませんが、同じ30周年誌には鎌谷牧師が上山姉に受洗したきっかけを聞いた話がありました。そこには上山姉が幼少期に家族を失った悲しみがあったと残されていました。
 上山姉の生涯を記した文章には短くですが、お父様を小学生の時に亡くされたことが書かれていました。そこから思うに、お父さんに会いたいと祈ったのかもしれません。
 さて、一個人の祈りだけでなく、湖山教会の祈りについて考えます。歴代の牧師の中に有田先生がおられますが、湖山教会の魅力は他教派でも、受け入れる広さがあると言われました。
 2人、3人がいる中に私もいる。マタイによる福音書18章の言葉、教会の愛唱聖句の意味とは、色々な違いのある人でも受け入れることを意味しているのでしょう。誰でも、神さまに祈りたい人は、どうぞ、来てくださいと言う祈りが、長い歴史の中で受け継がれてきたのです。


2019年2月10日(日)  説教題:「手をひらく」   聖書;ルカによる福音書6章1~11節

 人間が造ったルールが世界を支配しているようで、時々、そのルールに人間が支配されているようなことがあります。聖書の世界でも人間を守るルールが人間を縛るものになっていたりします。
 律法は神の言葉から生まれてものでした。それが十戒としてモーセを通して人間に与えられましたが、長い歴史の中でそれは千に近い数の細かな規則へと広がり、人間生活を支配する者になったのです。
 特に、ユダヤ人たち、聖書の世界では、神を礼拝する安息日に関するものは多くありました。礼拝に集中するため仕事をしてはならないという考えから、トイレの電気すらつけることが出来ないというのですから、ルールというものは恐ろしいものです。
 聖書の中で問題になったのは、その安息日に手の萎えた人をイエス様が癒されたということでした。病人をいやすことも仕事になるために、これほどの奇跡をユダヤ人たちは非難したのです。
 この「手の萎えた人」というのはある意味、このユダヤ人たちを揶揄しているように思います。助けてあげる力がありながら、それを知りながらも何もしないという姿を非難しているように思うからです。
 私たちも忙しさの中で感受性を殺さざるを得ない時があります。自分のこと、家族のことでいっぱいになると、その他の人々は脇に置いてしまいます。それは仕方のないことですが、いつの間にか、手の萎えた人間に、手を差し伸べることを忘れた人間になってしまう恐れを感じます。
だからこそ、イエス様の姿を見ながら、その手を差し伸べ、手をひらいて何か出来るかを考えるように言われているのです。私たちの手が神さまのお手伝いをする時があるのです。


2019年2月3日(日)  説教題:「『おめでとう』と言いたい」   聖書;ローマの信徒への手紙12章9~21節

  この箇所には、著者であるパウロの思いがたくさん込められています。様々な教会に語ってきた言葉が書き込まれているため、それぞれがつながった意味があるというものではありません。
 その中で、今日は特に祝福を祈ること、喜ぶ人と共に喜ぶことをテーマに考えたいと思っています。とても良いことに思えますが、そう簡単に喜ぶことが出来ないからこそ、聖書に書き残されていると思うのです。
 さて、祝福と呪いとは旧約聖書の時代からありました。神様に従えば祝福があり、逆らえば呪いがあると教えられて来たのです。それから長い歴史の中で、人は自分に逆ら者を呪うようになってきたのです。
 さて、漢字を見てみると面白いですが、呪うと祝うは、ほとんど同じ文字です。右側の兄の部分は、頭の大きい人がひざまづいて、神に祈ることであり、一方で、呪うとは口先だけで心の中では祝っていない状態だと考えることが出来ると思います。
 この前ですが、友人と話している時に、その人が自分は「おめでとう」が言えない人間なんだとため息まじりに語っていたのを覚えています。誰かに良いことがあっても、なぜ、自分じゃないんだという気持ちがあることに敏感になっていたようです。

 この言葉を聞いて、とても素直な人間なんだと思いました。そう、私もそうなんです。だからこそ、神様の言葉を聞いてちょっとでもキレイな心にしてもらって、自分ではないことに「おめでとう」と言える人でありたいと祈るのです。