説教要約(12月)

2019年12月29(日)  説教題:「博士たち」  聖書;マタイによる福音書2章1~12節
 喜びのクリスマスを伝える聖書箇所の一つです。ですが、ここは喜びだけではなく、不穏な空気も漂わせています。喜びの部分はこの博士たちが、救い主を拝むことが出来たことです。「東方の博士」という異邦人にも救い主が与えられた喜びは、今も礼拝を守る私たちにも備えられた恵みです。救い主が特定の人種だけを救う者ではないことを現わしています。そして彼らは占いでエルサレムまでやってきましたが、それ以降はミカ書に従ってベツレヘムへとたどり着きます。イエス様によってユダヤ人だけではなく、キリストを求める者には、御言葉の導きが備えられることが示されています。その一方、ここでは「ユダヤ人の王」として生まれた幼子に、自分の権威を脅かされる不安を覚え、抹殺しようとする思惑も見え隠れしています。その結果、2歳以下の男の子を虐殺するという事件も起こりました。キリストが誕生した恵みの影で、不安な影も見え隠れしています。そんな喜びと不安が同時に書かれている、決して嬉しいだけではなかったクリスマスを語る御言葉なのです。
 影や悲しみなど見たくも聞きたくもありません。現実から切り離して考えていければ楽だと思います。しかし聖書は語ります。キリストが与えられた時には決して全てキレイで良いものだけではなかった。ヘロデや学者たちの思惑がうごめき、人間の汚い部分が露わにされました。私たちには、確かに喜びが示されて、救いが与えられました。しかし、世界には目を背けたくなるような現実も、救いの喜びの陰に隠れて、確かに存在しているのです。
 私たちには救い主の喜びと希望があります。そして私たちには不安や、分断の中を生きている現実もあります。その両方がクリスマスを伝える聖書によって、示されました。これが私たちの生きている世界です。私たちはこの世界を、どのようにして生きていくのでしょうか。
 博士たちは黄金、乳香、没薬をキリストに捧げました。これはこの当時の世界ではなかなか買うことのできない高価なものです。彼らはそれらを差し出し、キリストを拝みに来ました。救い主に全てを差し出したんです。これまで頼っていた物質を捨て、救い主にこれからを委ねます。物に頼ることから、キリストに頼ることへの転換なのです。私たちも人間の力では限界を迎えることがあります。どれだけ高価な宝物を持っていても、それで全てが解決していくわけではありません。しかし、地上のどのような物にも代えがたい救い主が、私たちの世には与えられています。喜びの陰に不安があったとしても、神様は全てをご存知です。私たちはキリストに委ねることによって、人間の限界ではなく神様に委ねることが適っていくんです。博士たちの訪れを告げる御言葉には、喜びがあります。そして不安があります。しかし、その不安を補って余りあるほどの、主に委ねる希望が示されています。喜びの陰にある不安。それでも導かれる希望。博士たちが捧げていったように、私たちも、主に委ねてまいりましょう。

2019年12月22(日)  説教題:「インマヌエル」  聖書;マタイによる福音書1章18~25節

 「イエス・キリストの誕生の次第」が書かれています。それはパートナーが身に覚えのない形で子どもを授かる、という出来事でした。ヨセフは迷い、密かに別れようとします。マリアのことをさらし者にしたくなかったのです。

そんなヨセフを「正しい人」と聖書は記しています。当時の社会で普通はそうするとされていることに照らし合わせたとき、ヨセフの判断は正しい人のするものです。ですが、もしここでヨセフが離縁した場合、マリアには苦難の道が待っています。これが人間の「正しさ」の限界です。人間の正しさは、思っているほど正しくはないのです。ここではマリアとイエス。この二人の命を奪うことになっていたのかもしれないのです。

ヨセフはマリアを妻として受け入れ、生まれてきた子どもをイエスと名付けます。それは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った。」これを信じることでした。天使の言葉を信じることは、「恐ろしい」ことでありましょう。理屈で証明できない不可解な恐ろしさ。そして社会からどのような目で見られるのかという恐ろしさです。それでもこの「恐れるな」という言葉に励まされ、彼らは信じていきました。それは人間の考える正しさから、神様に委ねる選択です。「正しい人」であったヨセフが、社会的には正しくないことをしようとしています。この二人は「恐れずに」、神様に委ねて新しい正しさを歩んでいったのです。

こうして生まれた子どもには、「イエス」ともう一つの名が付けられました。それが「インマヌエル」です。この名は「神は我々と共におられる」という意味です。ヨセフが最初に選ぼうとしたのは「離縁」という別れ、その関係を断ち切ることでした。しかし神様が示されたのは、二人が生まれてくるイエスと共にあることです。人間の正しさで考えれば、その関係性は断ち切られてしまっていました。ですが、新しい正しさに従って歩んだからこそ、その関係性は断ち切られることはありませんでした。人間の常識で考えれば途切れてしまうように関係性も、神様によって繋ぎ合わされていきます。これが、クリスマスに起こった出来事です。一人の男性と、一人の少女に神様の言葉が与えられたことは、その時は誰も知りませんでした。ですが、確かにここで、家族という最も小さなコミュニティーに、離縁ではなく和解への道が示されたからこそ、救い主が与えられました。イエス様の命を通して、この二人に共に生きる道が示された。それがクリスマスの始まりです。共に「恐れるな」の声に聴き、共に「神は我々と共におられる」という約束を信じました。イエス様によって、二人は繋ぎ合わされたのです。この二人と神様は、そして生まれてくるイエス様は、共にいてくださったのです。

インマヌエル。神は私たちと共にいる。一人であったとしても、神様が私たち人間を選んで、愛して、繋がってくれています。キリストによって私たちは繋がり、この喜びのクリスマスを迎えることが適うのです。

2019年12月15(日)  説教題:「脇役」  聖書;ヨハネによる福音書3章22~30節
 洗礼者ヨハネは「主の道を整える者」としての役割が与えられました。彼が行った荒れ野での洗礼も、イエス様が来られるために用意を整えることでありました。そんな彼のもとには多くの人が洗礼を受けるために集まっていました。しかし、イエス様が来られたことで、そちらの方に人が流れていきました。それを弟子たちは心配しているのですが、ヨハネはこのように言います。「あの人は栄え、私は衰えなければならない。」私たちが「衰える」という言葉を聞くとき。それはネガティブな言葉として聞こえてくるかもしれません。しかしここでヨハネが語る「衰え」は悪い意味ではありません。自分のもとから人が離れていくことは、イエス様が栄えることとなります。それがヨハネに与えられた仕事なのです。ヨハネは喜びで満たされ、衰えていきました。ヨハネは自らの仕事をこなして、主役であるイエス様へと、譲っていきます。道を整えて喜びと共に、衰えていきました。そして宣教の主役であるイエス様へと、その整えられた道を譲ります。花嫁でもなく、また花婿でもなく、介添え人としてヨハネは働いていったのです。
 私たちには新会堂が与えられ、アドベントの時を過ごしています。建物が完成し、様々な備品も整えられてまいりました。私はこれらが何のために整えられていくのかを、ヨハネの姿に教えられた気がします。自らは脇役で、主役はイエス様だと、彼は知っていました。私たちも主のために整え、イエス様が主役であるんです。それを忘れるときの人間は、高慢な状態になってしまっているのでありましょう。ヨハネを通して、脇役として主を迎えるように、御言葉は教えてくれているのです。
 来週はキリストの降誕を覚える時を迎えます。イエス様はたんに世に来られただけではなく、私たちの心へと降りてきてくださいました。主役は私たちの内に来られて、私たちはそれを受け入れていきます。心に主を迎えるとき、その主役はイエス様です。私たちの目に見えるものだけではなく、そしてしたいことだけではなく、イエス様が私たちの道を示してくださいます。そして、キリストを迎えるために必要な備えを、神様がしてくださいます。クリスマスを迎えられるよう、主を待ち望んでまいりましょう。

2019年12月8(日)  説教題:「キリストを示す聖書」  聖書;ヨハネによる福音書5章36~47節

       交換講壇   田中寿明牧師(岡山県 天城教会)のため、説教要約はありません。


2019年12月1(日)  説教題:「約束のもの」  聖書;へブライ人への手紙6章13~20節
 神様はアブラハムに安住の地を与える約束をしました。彼はそれに従い75歳で今まで生きていた土地を旅立ちました。こうしてアブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。それが適えられたのは、アブラハムが最初に約束を受けてから約500年後のことです。その中でアブラハムは神様を疑うこともありました。子孫が誕生するわけがないと思い、行動をしてしまいます。たしかに神様からの約束を「根気よく」信じて待っていたのですが、その間に心が揺らいでしまうこともあったのです。しかし、神様ははっきりと示してくださいます。「約束」だけでは信じられない人間に、神様ご自身の誓いをもって示していかれました。約束のものはないんじゃないかと疑い迷う人間に対して、誓いと約束の二つをもって神様は力強く励ましてこられました。神様は疑ったり迷ったりする人間に、誓いと約束は必ず成就するのだ、ということを示してこられたのです。
 私はこれらの御言葉を思うときに、湖山教会が新会堂を求めて歩んできた旅路が、これに似ているように思いました。新会堂が与えられるまで10年以上の長い年月を、お一人おひとりが根気よく待ってきました。ときに反目し合ったり、また和解したり。ここまで来られるのに、言葉では語りつくせないほどのプロセスがあったことでしょう。アブラハムに臨んだ言葉ように、神様が明確に「約束の地、新しい場所での会堂を与える」とは言われなかったかもしれません。それでも信じて待っていました。信じて祈り、働いて、そして献げてこられました。湖山教会に繋がる一人ひとり、信徒であっても客員であっても、全ての人が携わって来られた結果です。迷い、疑い、諦めるときもあったことでしょう。しかし、それでも神様がこの計画を勧め、悩み疑う人間を励ましてくださいました。これらによって力強く励まされ、目指す希望に向かって進んできました。この事柄に関して、神が偽ることはありえません。全てが神様の計画によって、なされていったことです。ここは、一つひとつの祈りに答えられた神様が建ててくださった、空しくない私たちの祈りの家なのです。
 かつてユダヤの人々は、神様からの約束が成就するのを待っていました。それが救い主キリストが世に与えられることです。その約束が成就し、人間は神様の約束が必ず適えられるんだ、ということを知ります。そして、そのキリストを通して、さらに新しい約束が果たされていきました。私たちは一つ、新たな器が与えられる、という約束ものを受けています。一つ、希望が現実へと変えられたのです。これからも、神様は私たちに希望を示し、数々の救いの約束を成就してくださいます。その希望に確かに錨を置いて繋がっていく私たちと、キリストは共にいてくださるのです。