説教要約(11月)

2019年11月24(日)  説教題:「キリストの忍耐」 聖書;テモテへの手紙1章12~17節
 本日の御言葉の中ではキリストが、その忍耐を示されたというパウロの言葉が記されています。パウロはかつて迫害者であったのですが、キリストを信じ福音を宣べ伝える者へと変えられました。そのことを「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた。」と記しています。信じられない者が信じるようになるために、イエス様は活動をなさいました。それをパウロは自らの体験で実感したのです。「こんな自分なんかのことも救ってくださった」と、自分の体験を通して知るのです。イエスがキリスト、救い主であることが真実だと信じたのです。
 変えられることは救われることです。弱い者と共に歩まれ、信じる者と共にあったイエス様を信じること。この人を信じることが真実であることを、そのまま受け入れられたときに信じる者へと変えられていきます。信じる者として変えられ、救われた者となり、神様の憐れみを受けるのです。
 イエス・キリストは、私たちを変えるために、世に来られました。私たちが信じる者へと変えられるために生まれ、十字架で死んで復活し、天に昇られました。ですが、「救う」、「変える」と言われましても、なかなか変わらないのが人間です。イエス様が働いて下さっても、それを疑ってしまいます。真実なのかと迷ってしまいます。素直にそのまま受け入れることが、なかなか出来ません。受け入れるまでに時間がかかってしまうのです。
 そんな人間を待っていてくれるのが、イエス様です。16節にはキリストが忍耐を示してくれていたことが記されています。イエス様は限りない忍耐を、パウロに示されました。パウロはキリストを信じるつもりなど毛頭ありませんでした。そのような罪人であったパウロが変えられるために、イエス様は忍耐しておられたのです。信じられるまで、変われるまで、その救いを受け入れられるまで。キリストは待ってくれていました。忍耐をしてくれていたのです。
 キリストが忍耐を示されたのは、パウロさんだけにではありません。全てのキリスト者のうえに、キリストの忍耐がありました。一人の人間が救いに至るまでに、イエス様は忍耐を示してくれていたのです。私たち一人ひとりが信じる者へと変えられていくために、神様は御心を示し、働いてくれていました。信じられるまでに、忍耐を示してくれていたのです。救われたことを、そのまま受け入れるまでに待ってくれていたのです。

2019年11月17(日)  説教題:「おいのりのいえ」 聖書;マルコによる福音書11章15~19節
 今日は嬉しいこども祝福礼拝です。でも、さっき読んでもらった聖書では、イエス様が怒っていましたね。椅子や道具をひっくり返して、イエス様は大激怒しています。それには理由がありました。神殿という場所にお金儲けをするために集まった人たちがいたからです。神殿はお祈りをしたり、讃美歌を歌う、礼拝をするところです。今の教会みたいなところですね。お金儲けをすることが悪いんじゃありません。でも、そのために神殿を使って、良くないお金儲けをする人たちが、イエス様の時代にはたくさんいたんです。
 だから、イエス様は怒りました。お金儲けをしている人たちの道具、机や椅子をひっくり返して怒りました。そして、こう言っています。
 「わたしの家は、全ての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」
 神殿はお金儲けをするための場所じゃなくて、お祈りの家なんだよって、怒ってでも、みんなに教えたかったんですね。
 教会は、「おいのりの家」です。こども園や保育園や教会で、みんなもお祈りをすると思います。お祈りをすることは、みんなが神様と繋がっていることです。イエス様に怒られた人たちは、神様じゃなくてお金と繋がってしまいました。
 神様は神殿を作るときに、人間のことを助けてくれました。そして、教会を作るときにも、人間のことを助けてくれています。それは、教会が神様と繋がる「おいのりの家」だからです。みんなは学校が終わったら、家に帰りますね。ゆっくりしたり、ご飯を食べたりする、安心できる場所が家です。○○ちゃんの家は、○○ちゃんのものですね。それと同じように、教会はお祈りをする人、神様に繋がる人たち、みんなの家です。帰ってきてお祈りをして、また出ていけるように、神様が守ってくれるんですね。
 この、湖山教会の建物、みんなで礼拝を守っている場所が出来たときにも、神様がたくさん助けてくれたそうです。そしていま、新しい教会が向こうに出来ていますね。僕は4月から新しい教会を建てるために、いろんなお仕事をしたんだけど、神様にたくさん助けてもらいました。建物を建てるときには、お金がかかります。お金に繋がりたいなって、誘惑もやってきます。でも、どうしよう…ってことが起きるたびに神様が助けてくれました。神様はおいのりの家を作るときも、その後も助けてくれるんですね。
 神様はおいのりの家をずっと守ってくれます。神様に繋がるみんなのことが大好きでだからです。


2019年11月10(日)  説教題:「示された地」 聖書;創世記12章1~9節
 誘惑に負ける弱さ、嫉妬、高慢、堕落。原初の人間から持っている人間の罪です。創世記は111章までに人間の持つ様々な罪を描き出しています。その後に語られているのが12章から始まるアブラハムの物語です。神様はアブラハムに祝福の言葉をもって臨んでおられます。人間の罪ある姿を知っていても、神様は再び愛そうと言ってくれました。それと同時に、神様は旅立ちをも告げておられます。新たな祝福は新たな旅立ちと共に、備えられていきます。彼に与えられたのは再出発の言葉です。神と人とが共に生きていくために与えられた、祝福と赦しの言葉であったのです。
 アブラハムはこれに従って旅立ちました。慣れ親しんだ土地を離れることは、それだけで苦労を伴います。人間関係、情報、仕事、安全。旅先でそれらが保証されている確証はありません。そして行った先では、外国人としての生活も続けなければなりません。アブラハムはそれでも旅立っていきました。一部を除いた財産を捨てて、彼は示された地へと旅立っていきます。ヘブライ人への手紙には、彼は「信仰によって」旅立っていったことが書かれています。イエス様に従った弟子たちや、十字架で死んだイエス様のように、アブラハムは「捨てる」という信仰によって旅立っていったのです
 私たちも旅立ちの時が近づいています。愛してやまない現会堂を捨てて、示された地へと向かっていかなければなりません。人間の思いだけではなく、湖山教会が祈って示された地、示された選択です。私たちは捨てることで、示された地へと旅立っていきます。しかし、それは全てを失うことではありません。この会堂が産まれ養われた信仰者の一人ひとりは、どの場所であってもその信仰を失っていきません。信仰によって私たちも御心を信じて、示された地へと旅立っていきます。人間の記憶は失われていき、いつか写真でしかこの会堂も思い出せなく日が来るかもしれません。しかしここを通して与えられた「信仰」がある限り、この場所を捨てても消え去りはしないのです。
 神様はアブラハムに備えられたように、捨てる信仰者に今以上の恵みをもって臨んでくださいます。私たちに出来ますことは、この会堂を与えてくださった神様に感謝し、示された地が御心だと信じて旅立っていくことです。捨てることには大きな迷いも伴います。しかし、神様はその先をも祝福してくださっています。示された地へ、導かれてまいりましょう。


2019年11月3(日)  説教題:「豊かに身を結ぶ」 聖書;ヨハネによる福音書12章20~26節

召天者記念礼拝は天に帰られた方の魂が平安であることを信じ、覚えて祈るために執り行われます。召天者を覚えることを通して、その方々が地上の人生の中でキリストと出会い、神様のものとされた恵みに感謝していきます。そして、いまもこうして地上での歩みを続ける私たちも、この方々に与えられたものと同じ恵みによって、神様のものとして生かされ、その恵みの中で人生の最後を迎えるための備えをしていきます。私たちもいつかは必ず地上での歩みを終える日がやってきます。ですが、私たちには「神様と繋がっている」という幸いがあるのです。召天された一人ひとりはキリスト者であろうとなかろうと、確かに神様と繋がっていました。そして今も天にあって神様と繋がっていることを私たちは信じています。それと同じように私たちも、神様と確かに繋がって、神様のもとへと帰っていきます。いろんな不安がありますが召天者記念礼拝を通して、私たちも神様のもとへと帰っていくことを覚えていくのです。

イエス様は一粒の麦の例えを通して、それが確かなものであることを教えてくれています。イエス様は十字架の死と復活を通して、何倍もの実を結ばれました。それは私たち人間も死で終わるものではないことを示しています。私たちの命もまた、豊かに実を結んでいくのです。

湖山教会が歩んできた70年の歩みを覚えるとき、いろんな命に守られてきたのだと思います。教会全体としても、私たち個人に対しても、召天者の方々一人ひとりが、大切な働きをなしてくださいました。いまはその麦が死んで天に帰ったときです。召天された方々も神様と共に私たちのことを覚えてくださっています。そして召天者記念礼拝や、それぞれが故人を覚えて祈る時。私たちはその一人ひとりを思い出します。召天された一人ひとりを想う時。それは神様のもとにいる大切な人を想う時です。天にある信仰の友や家族を想うとき、そこにいる神様を信じ、天へと思いを向けていくことがかなっていくのです。

 先に神様のもとへと帰られた方は、豊かに実を結び、私たちに神様の慰めがあることを、そして帰るべき天があることを、示してくださいました。私たちに与えられているのは、この世の命だけではありません。キリストが約束してくれた、永遠の命が私たちには用意されています。そのときに私たち自身も豊かに実を結ぶのです。