説教要約(10月)

2019年10月27(日)  説教題:「極めて良かった」 聖書;創世記1章27節
 創世記の始まりには世界を神様が創られた様子が記されています。本日の箇所は人間が創られたときの様子です。人間は神様に創られ、神様に祝された命を持つ存在です。私たちは神様に創られました。「あなたたちの食べ物となる」と言われた、一つひとつを口にして養われてきました。そして神様の創られた、祝福された世界を生きています。食べる物も、生きる場所も、そして存在そのものも、神様の祝福の中で創られたものであるんです。
 世界を創られた神さまは全てのものをご覧になり、このように言われています。「それは極めて良かった。」人間のいる世界であったとしても、それが極めて良かったのです。
 「人間」という言い方は大きなカテゴリーです。この「人間」という区分けを構成しているのは人格を持つ一人ひとり。私でありあなたです。「私」も「あなた」も、「極めて良い」とされた世界に生きています。つまり、この世界にいて良い一人なんです。神様が創られた世界に、必要な一人なのです。
 学校や職場など様々な場面で否定されていく中にあって、神様は私たち人間一人ひとりのことをそのように見てくださっています。この世界は神様が創られて、神様が極めて良いとしてくださったものです。そして、その世界には、私たち人間一人ひとりも確かに存在しています。何をどれだけ奪われたとしても、尊厳を傷つけられたとしても、そして、社会や誰かに拒否されたとしても。神様は、私たちを「極めて良いもの」として見てくれています。寂しかったり、生きている理由が分からなかったり、私たちが歩む人生では、そんな気持ちになってしまう日もあるかもしれません。しかし、神様はそんな私たちを「極めて良い」としてくださっています。私たちはこの世界にいても良い、この世界を創っている一人ひとりです。神様が「極めて良い」とされた世界にいる、必要な一人なのです。
2019年10月20(日)  説教題:「約束されたもの」 聖書;ヘブライ人への手紙11章32節~12章2節
 ヘブライ人への手紙11章には「信仰」について書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」神様が私に望んでいることを信じ、神様の計画された救いの道を歩んでいくこと、これが信仰であると書かれています。
 そして、その信仰によって生きた人たちの記録が書かれています。32節からあげられているのは、士師記以降の時代に生きた信仰者たちです。ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデにサムエル。神様の命を受けて戦ってきた人たちです。しかし、彼らについて「弱かったのに強くされ」と書かれています。どの人も完璧ではなく、弱さを抱えている人だったんですね。神様がその人たちを遣わして「望まれていること」を成し遂げるために信じ、働いたからこそ、彼らは弱かったにもかかわらず、こうして名を連ねるほどの働きを成していくことがかなったのです。
 私はこれを読んで湖山教会の記念誌を思い出しました。いま編集されている記念誌なのですが、70年もありますと、良いことばかりでもありません。弱さによる痛みを負ったこともありました。それも含めて、私たちに与えられた道、ということなのでありましょう。ヘブライ人への手紙に書かれている、神によって選ばれた士師たち、そして王や預言者もまた、「弱かった」人でした。それによって痛みを負った周りの人たちもいました。それと同じように、私たちの教会の歴史にもまた、いろんな弱さによって起こる痛みがあった。そのことを痛感させられるんです。
 それでもこうして、この湖山の地で教会も園もなくなりませんでした。いまでも伝道され、信仰が受け継がれて、キリストを証しながら歩んでいます。私たちが何をどう望んでいようとも、これが神様によって与えられた計画です。ここに私たちの教会が与えられている、という事実は変わりなく、いまここに存在しています。信仰によって旧約に登場する者たちは、神様のために働いていきました。自分の望みではなく、神様が望まれたことを信じてきました。弱さがあったとしても、神様がそれを赦し、強めてくださったからです。それと同じように、これまで湖山教会のために働いてこられた方々も、そして社会や家庭でご尽力されてきた方々もまた、弱いながらも強められ、信仰によって働いてこられました。良い時も、良くない時も。それぞれの歴史の中にはあったことでしょう。ですが、その一つひとつが、信仰によって行われたことです。信仰の群れに与えられた、痛みもあれば和解も、そして救いもある、神様によって与えられた「見えない事実」であったのです。

2019年10月13(日)  説教題:「分け隔てているのは誰か」  聖書;ヤコブの手紙2章1~9節
 「人を分け隔てしてはなりません。」と聖書にはあります。この当時は身分制社会でした。奴隷も金持ちもいましたが、今よりも服装の差がはっきりしており、それによって礼拝に来る人を選別するという出来事があったのでありましょう。これは現代にも通じる話です。例えばこの会堂にスーツを着た初老の男性が入ってきたら、私でしたら「どこかの牧師さんかな」と思います。反対に、汚れた格好の人が入ってきたら、「生活に困難を覚えて、教会を頼って来られたのかな」と思い、そのように対応していくでしょう。その人に向かって「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」とは言わないでしょうが、その対応に全くの差をつけることがないか、と言われます私にはその自信がありません。そしてこれは教会に限ったことではありません。この社会全体に蔓延していることであって、服装や見た目で判断することはエスカレートすると、私たちの命に関わる問題になってしまいます。
 この台風の中「路上生活者が避難所を利用することを禁止する」と判断した自治体がありました。避難所を訪れた人に家があるかどうか、という判断は、まず服装によって分けられることでしょう。避難所の一件では家のない人達が対象でしたが、それでは障がいを持っている人は、子どもは、または女性は、所得の低い人は、納税額の多い少ないは。「人を見た目や身体的特徴で選別しても良い」という精神をほっておきますと、歯止めがきかなくなってしまいます。人間は簡単に「自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したこと」をしてしまいます。神であるかのようにふるまい、命の選別を人間がしています。ですので聖書は明確に人間に警告しています。人を見た目の立派さや身分で判断し、優遇したり冷遇したりする。それは、「誤った考え」なのです。「誤った考えに基づいて」、命の選別をしだす怖さを、人間はもっています。「人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり」とありますように、「誤った考え」に陥ってしまう人間に、聖書は警告をしているのです。
 人を分け隔ているのは私です。それを聖書によって気付かされることが必要です。イエスの姿、その行いと言葉は、人を分け隔てするものではありませんでした。キリストが伝えた神の国には、誰も分け隔てられることなく、入ることが適います。私たちはこの「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら」生きています。このキリストによって慰められ、そして時に諫められながら、私たちは歩んでいくのです。

2019年10月6(日)  説教題:「蒔く人も刈る人も共に喜ぶ」  聖書;ヨハネによる福音書4章31~38節


  実りの秋を迎えました。これから収穫の時期を迎えていきます。ミカ書にはこのように書かれています。「お前は種を蒔いても、刈り入れることなく。オリーブの実を踏んでも、その油を塗ることはない。新しいぶどうを絞っても、その酒を飲むことはない」これは神様の裁きの預言でして、種を蒔いてそれを刈り取ることが適わないことは悲しみを現わしていました。本日の御言葉でイエス様はこの言葉を引用しています。ですが、それは悲しみとしてではありません。ここでは喜びを持って書かれています。

イエス様はサマリアの女性と出会い、彼女は主を信じ、抑圧から解放されるようとしています。その喜びは「別の食べ物がある」と言って食事を断るほどです。そしてイエス様は「刈り入れ」について弟子たちに話されます。ここでの種まきは伝道。そして刈り入れは伝道が実を結ぶ時、信じる者へと変えられたときを示しています。それは本人にとっては、救いが与えられる時。教会でいうところの、洗礼の時が備えられるタイミングです。農作物であれば、だいたい4か月くらいと検討がつくのでありましょう。しかし、福音の種まきが刈り入れられるときは、人間の想いや、人間の知っているタイミングでは、与えられません。刈り入れは神様だけが知っている時なのです。

それは、蒔いた人がもういなくなった後かもしれません。イエス様の蒔かれた種も、それが実を結んだのは「いなくなった後」でありました。イエス様の十字架の死と復活によって、命と赦し、解放へと招く、福音の種が蒔かれました。それを刈り取ったのは、イエス様の昇天後、伝道していった弟子たちです。そして、弟子たちもまた、イエス様の福音を知らせ、種を蒔いていきました。それが実を結ぶのを見ることが出来た弟子たちもいましたが、やはり、殉教などで別の人が刈り入れをした場合もあります。イエス様の種を弟子たちが刈り取ったように、弟子たちが蒔いた種もまた、他の誰かが刈り取っていったんです。蒔いた種を他人が刈り取る。これは、かつて裁きの預言にありましたように、悲しみの象徴でありました。労苦が報われない例え話の一つでした。しかし、イエス様はこれを「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。」と喜びとして語っておられます。福音の種まきと刈り入れの時は、人間にとって想像できるような範囲の狭さにはありません。もっとダイナミックに、世代や命を越えて伝えられていきます。キリストから弟子たちへ、そして何人ものキリスト者たちの手を伝わって、こうして私たちのもとへと、ここへ集められた一人ひとりへと届けられてきたのです。