説教要約(1月)

2019年1月27日(日)  説教題:「一部と全部」   聖書;ルカによる福音書21章1~9節

 献金という言葉を聞いて何を思うでしょうか。日本社会では政治家が行う資金提供がすぐに思いつくのかもしれません。教会では神様への感謝としておささげするものを献金と呼んでいます。
 聖書の中にはこの献金に関わるお話がいくつかあります。その中でも一際目立つのがレプトン銅貨2枚をささげた女性でした。レプトン銅貨は代々50円程度のものです。
 聖書が描く時代には神様を礼拝する神殿があり、そこにはささげものをする場所がありました。生贄として動物をささげることもありましたが、金銭で行う人もいました。
 当時のお金はすべて金属です。そして、献金を入れる容器も金属でしたから、献金をすればその音でどれくらいお金を入れたかがすぐに分かるのです。お金持ちは大きな音で、貧しい人は小さな音で見分けがついたのです。
 イエス様はその献金をささげる人々を見ていました。堂々と自信をもって神様というよりは、周りの人々に聞かせるように大金を投げ込む人を見つつ、一方で音も聞こえないような一人の女性の献金に目を留められました。
 女性のわずかな献金を「全て」を込めてささげたとイエス様は言われました。周りの人はその言葉を笑ったのかもしれませんが、ささげる時の気持ちを伝えているのです。
 神様から多くの物をいただきながら、私たちは生活の一部しか神様に返せません。その思いを神様は分かってくださることをこの物語は伝えているのです。
 献金と言いましたが、本来は奉献であり、お金ではなく、私自身を神様のためにささげるのです。この小さな私でも、神様は喜んで受け入れて下さるという喜びが、ささげものをする時にあるのです。

2019年1月20日(日)  説教題:「深い海と命」   聖書;ルカによる福音書5章1~11節

 イエスの弟子たちは12人と言われていますが、本来はもっと多くいたことでしょう。ただ、キリスト教の中では聖書に書かれている内容をもとにして、特にイエスに近かった弟子たちを12弟子と呼んでいます。
 弟子たちはそもそも聖書を学ぶための学生ではなく、神さまの言葉を伝える思いが初めからあったわけではありませんでした。それぞれ、家庭や仕事を持つ普通のひとだったようです。
 その弟子たちの中で、初めてイエス様から弟子としてスカウトされた4人がいました。一般的には弟子の方からやって来るのですが、イエス様は面白い方ですね。弟子を自分から勧誘したのです。
 その4人の弟子たちは漁師をしていたと書かれていました。漁師という仕事へのイメージはそれぞれあるかと思いますが、当時は、それほど喜ばれる仕事ではなかったようです。
 私なんかは魚が好きなものですから、漁師に感謝していますが、聖書の時代は、湖の上に悪い霊がさまよっているという噂などがあり、漁師は気味の悪い仕事だったのです。まるで、墓場で働くようなものでしょうか。
 さて、私はイエス様が弟子たちに言われた「人をとる漁師になる」という言葉を思います。当然、網を投げて船で引き上げる漁をしていたのですが、私は最近違う見方をしています。
 深い海は自分の罪の深さだと思います。だからこそ、尼さんのようにキリストは自分の深い心の底まで来てくださり、地上へと救い上げて下さるのだと思うようになりました。
 息の続くかぎり、私を救うために深い海のその命を投げ出して、私という小さな存在を見つけ出してくださったという感動をこの言葉を聞いて感じています。

2019年1月13日(日)  説教題:「神様の助け」   聖書;ルカによる福音書3章15~22節

 16日は公現日と言って、イエス・キリストの洗礼を覚える日になっています。先週は、新年礼拝でしたので、一週間遅れてのお話になりますが、洗礼(バプテスマ)についてお話します。
 さて、バプテスマという言葉は、ギリシャ語のバプタイゾー(浸す)という言葉からできていると言われています。水の中にドボンと沈んでしまうことです。それが、今ではキリスト教の入信儀式になりました。
 このバプテスマは様々な説明がされていますが、旧約聖書の時代には、異邦人がユダヤ教に改宗する儀式だったとも書かれていました。つまり、汚れた異邦人が共に生きるのは、水で洗い清める必要があると考えたのでしょう。
 さて、そのバプテスマを大切にしたのは洗礼者ヨハネという人でした。この人は、受ける必要のないユダヤ人たちにバプテスマを受けるように強く勧めました。
 それは、自分たちは異邦人のように汚れた存在かもしれない、自分を清くて正しいとしているところに問題があるという、メッセージだったのだと思います。
 このバプテスマについて、新約聖書のペトロの手紙Ⅰの3章では面白い展開がされています。ノアの洪水も、水の中を通って生き抜いた経験として洗礼の原型になるというのです。
 日本語では、洗礼とは初めての試練という意味で使われることがあります。プロ野球選手が、プロの洗礼を受けるという具合に言われます。厳しい試練こそ、自分が洗われる時なのかもしれません。
 昨年、7月の岡山での豪雨水害で被害に遭ったからに手紙を頂きました。その中に、「助けは必ず来る」という強い言葉が書かれていました。危機の時こそ、信じる時があるのかもしれません。洗礼を受けるというのは、それを心にもっているということなのです。

2019年1月6日(日)  説教題:「古くて、新しくて」   聖書;ヘブライ人への手紙8章

 ようこそ、2019年。新しい年が来ましたね。何が新しくなったのかあまり自覚はないですが、何よりも気持ちの持ち方なのだと思います。すべてが光り輝いて何かが起こりそうな期待にあふれています。
 さて、ヘブライ人への手紙はどのような書物なのでしょう。ヘブライとはユダヤ人たちの祖先のことです。旧約聖書を学んできた人々にキリストを伝えようとした手紙でした。
 「大祭司」という言葉が使われているのは、イエス・キリストのことです。ユダヤ人にとってはとても重要な人物です。神さまと自分たちをつなぐ人です。ですから、キリストを大祭司と例えたのでした。
 ヘブライ人への手紙の中で最も重要な言葉は122節にある「イエスを見つめながら」という言葉です。何よりも、イエスさまを中心に置くことが生きるための力になるのです。
 お正月になると、いつも、子どもたちとコマ遊びをしたことがあります。一度、お話したことがありますが、コマは中心に軸がないとしっかり回りません。それと同じく、私たちも軸をしっかりと心に作る必要があると思います。
 その軸こそ、イエスさまを信じる信仰だと思っています。信こそ、人の芯なのです。そこがぶれてしまうと、疑いによってブレた生き方をしてしまうのだと聖書は語っているように聞きました。
 この古くからある聖書の言葉の中に、生きる中心となる言葉があるはずです。古い中にこそ、新しいものに気付くヒントがあるはずです。温故知新ですね。
 さあ、新しい年、新しい聖書の言葉に出会うために、少し、聖書を開く時間を取ってみてはどうでしょうか。