説教要約(9月)

2018年9月30(日)  説教題:「冷たい接吻」 聖書;マルコによる福音書14章43~52節

 最も信頼している人から裏切られたことはあるでしょうか。それは悲しいことです。人を信じることができなくなるかもしれません。生きる希望がなくなるかもしれません。キリストもそのどん底を体験しました。
 イエスさまには、12人の弟子がおりました。その中にイスカリオテのユダと言う人がいました。どのような人から良く分かりませんが、グループの会計係をしていたとありました。
 そのユダがイエスさまを裏切りました。最後に交わしたのは親しみの印、挨拶の接吻でした。仲間同士が近づいてお互いを祝福する接吻だったはずが、それは気持ちの通わない冷たい接吻になってしまいました。
 なぜ、彼が裏切ったのかは分かりません。聖書ではお金のためにイエスさまを売ったとかいてありますが、その本心はわかりません。熱心だったから裏切ったのか、気持ちが離れたからなのか。
 裏切ってしまったことでユダは聖書の中ではかなり厳しい評価がついています。それは当然です。大切な神の子イエスさまを裏切り、十字架にかけてしまったからです。でも、それだけで彼を非難することはできません。
 人は孤独になると周りに敵意を持ってしまいます。相手を受け入れる余裕がなくなると、誰もがムキになって怒ったり、思わぬ行動に出てしまうからです。
 キリストは最後までユダを受けいれていました。裏切ることも知りながら接吻を受けたのでした。最後まで一人にしないという思いが、ユダへの思いだったと信じています。だからこそ、ユダのような私も救われたのです。

2018年9月23(日)  説教題:「栄光の望み」 聖書;コロサイの信徒への手紙1章21~29節

 鳥取信和教会 廣田崇示先生(地区講壇交換)
(1)信仰に踏みとどまる。

 パウロはコロサイの信徒に揺るぐことなく信仰に留まるように勧めました(23)。私たちは日々の生活に追われ忙しさの中でイエス様に聞くことを忘れたり、病なのでイエス様に頼るよりもお医者さんに頼ったりするような性質を持っています。
(2)苦難をも喜ぶ。
 パウロは、そこで苦しみをも喜びとしていることを告白しています(24)。一つにはキリストが担ってくださった苦しみの一部を味わっているという思いを持っていたからでしょう。もう一つはパウロの召命の時の種の言葉を思い起こしていたからです。「しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」(使徒9:15,16)。パウロにとって苦しみに遭うことはイエス様から与えられた使命を果たしていることを表していたからです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。私たちもそれぞれにイエス様を証しする者としての苦難が備えられています。けれどもイエス様は既に勝利してくださっているのです。
(3)内におられるキリスト
 「その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27)。イエス様が私たちのうちにおられて力を与えてくださり、失望に終わることない希望を備えてくださっているのです。「このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(29)。私たちもパウロのように苦難をも喜びとし、イエス様の証し人として用いられたいと願います。


2018年9月16(日)  説教題:「食べる仲間」 聖書;マルコによる福音書14章10~25節

 長い歴史の中で神への礼拝はささげものが中心でした。しかし、旧約聖書から新約聖書への変わることで、礼拝の中心はささげものから食事へと変わりました。生活の一部である食事が、神様とのつながりを意識する大切な時となったのです。
 まず、ささげもの中心の礼拝がなぜ終わりを迎えたのかと言うことですが、簡単に答えますと、それは持つ者と持たない者を明確にし、差別してしまったからです。ささげものは常に経済力を表すものになり、人間はその大きさに目を奪われ、人を偏って見るようになったからです。
 キリスト教にとって食事が重要な意味を持つようになったのは、イエス様が様々な背景と人々と食事をした記憶が残されているからです。食事を中心とする中で3つの大切な意味が明確となりました。それは犠牲、分食、共食です。
 忘れがちですが食事には命の犠牲があります。様々な命を糧にして私たちは生きています。多くを犠牲にしているのですから、私たちは赦される必要があります。そのために十字架はあるのです。食事は見える犠牲と共に見えない十字架と言う犠牲を思い出させます。
 また、分食とは分かち合って生きることです。当時、初代教会ではそれぞれが持ち寄ったもので食事をしていました。ささげもの中心だったことへの反省がそこにあり、持つ者と持たない者が分け合うという形でつながりが生まれました。
 共食とは何を食べるかではなく、誰と食べるかと言う課題です。孤独が広がる現代において深刻な課題です。聖書では一緒に食事をしたユダについて厳しい評価がついています。しかし、それでも、食事の席に招いたイエス様の気持ちは何があったのでしょう。
 裏切られたとしても、一人にさせたくないという優しさがイエス様にあったと信じています。キリストの食卓に私たち一人ひとり招かれている喜びを、思い出し、また、孤独にある人々へ伝えて行きたいです。

2018年9月9日(日)  説教題:「いつまでも、みずみずしく」 聖書;詩編92編

 みなさんはドーナッツが好きでしょうか。私も最近はあまり食べなくなりましたが、時々見ると美味しそうに見えます。ミスタードーナッツのお店にはたくさんの商品が並んでいますが、私が好きなのは「オールドファッション」です。
 日本でも海外でも人気のあるオールドファッションのドーナッツはシンプルです。ただ、揚げた記事にチョコレートが付いているだけです。それがいいのです。シンプルであることが愛されるのです。
 オールドと言う言葉に注目しましょう。英語では年齢を尋ねる時に、How old are you?と聞きます。若い(yong)ではなく、古い(old)を使います。つまり、生きるとはこのoldへの道を歩みだすということなのです。
 オールドファッションとはその道の先にある在り方なのだと思います。色々なものを身に着けてきたれど、本当の私はシンプルでいいということなのだと思います。聖書にはそのシンプルな生き方を「木」にたとえています。
 詩編92編には私たちは神の庭に植えられた「木々」であると書かれています。大きな木を見ると感動しますが、それと同じく、神様に守られてきた命を見ると、敬老の皆様に感動を覚えるのです。
 何が出来なくても、ただ、木のようにそこに居ることで人に感動を与えることが出来るのが命であり、敬老の方々なのだと思います。高齢化が問題だとされる時代にこそ、長生きは神さまの恵みであることを覚えたいですね。


2018年9月2日(日)  説教題:「生涯のささげもの」 聖書;マルコによる福音書12章35~44節

私たちは多くの物を頂いて生活をしています。気付いていることもあれば、気付かずにそれを受けていることもあります。見える物もあれば、見えないモノも受けています。そして、それらすべては神様のところから届けられるものです。

聖書にはダビデと言う有名な人がいます。今から数千年前のイスラエルの王でした。戦いにはめっぽう強く、人々には人気で、死後も歴史に残る人でした。しかし、その後の歴史にダビデの名がつく一族というプライドが高く、他者と相いれない課題をも残すことになりました。

イエス様がここでダビデの子と呼ばれることに1つの疑問を投げかけているのは、そのような肩書は救いとは関係ないというです。ダビデの関係者だから救われるのではなく、本当の礼拝をささげるものが神の子だと言いたいのです。

そして、その神の子として例に挙げられたのが一人の女性でした。貧しい家で家族を失い神様だけが頼りの弱い存在でした。その人がささげたものにイエス様は注目したのです。

当時の金銭はすべて金属でしたし、入れる献金箱も金属でしたので献金する金額が上がるにつれて音も大きくなりました。そこに貧しい女性がきて、レプトン銅貨2枚をささげました。静かな音、誰も気づかないささげものにイエス様は目を注がれました。

レプトン銅貨2枚は日本円で150円くらいだそうです。そのわずかな金額をイエス様は「生活費を全部入れた」と表現されました。確かに生活費のすべてだったのかもしれませんが、ギリシャ語の生活費は「生涯」と言う意味もありますので、「生涯を全部入れた」とも読めるのです。

自分そのものをすべてささげた。それはいつも受けているものを感謝していた姿です。それは金額では表現できないものです。ただ、気持ちの中でしか見えないモノです。わずかなものに込めた思いを神様はいつもよくご存じです。だからこそ、出来ることを喜んでささげるだけでいいのです。