説教要約(7月)

2018年7月29日(日)  説教題:「失ったから気付く」 聖書;マルコによる福音書9章42節~50節

 聖書には「小さな者の一人」をつまずかせてはならないと書かれています。つまずかせるという意味は信じることをやめさせてしまう行為です。この教えは非常に厳しく、もし、自分の手が相手をつまずかせるなら、それを切り捨てるように加えています。
 自分の手ですら切り捨てるという言葉に内心は驚きを隠せませんが、それほどまでに、「小さな者の一人」を大切にしようという願いがここにあるように思います。ここに書かれてある言葉をそのまま鵜呑みにするとどうなるでしょうか。
 親切なのか、おせっかいなのかは人それぞれで、私が良いと思ってしたことが、相手を「つまずかせる」こともあるでしょう。体を切り捨てることを聖書が本当に求めているなら、恐らく、私自身、切り刻まれて何も残らなくなるでしょう。
 体の一部を切り捨て、失ってみなさいと言う言葉には意味があります。失ったから気付くものがあるということです。体とは教会のことを意味しますが、「小さな者の一人」に配慮しないことは、教会の一部を失うことだと理解することもできます。
 ここでは、「小さな者の一人」を簡単に切り捨てないで、自分の一部が失われるような痛みを感じつつ、配慮していくことが語られています。それは、教会はもちろんのこと、教会の外にある社会や集まり、家庭にも通じることです。
 教会に飾られる十字架は単なる記号ではありません。そのような「小さな者の一人」となって代償を払われたキリスト・イエスの姿そのものです。私たちはそれぞれ、大切なものを失い、その痛みを知っています。
 だからこそ、どのような人にも神様の見方で見守り、神様の手のように包んでいく思いが与えられますように。そして、失ったから気付くのではなく、私たちに与えられているものに感謝したいと思います。


2018年7月22日(日)  説教題:「あなたとわたし」 聖書;創世記1章26節~31節、マルコによる福音書12章13節~17節

 教区交換講壇説教 延藤好英先生(和気・三石・勝山教会) 
<我々にかたどり>
 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26節)。最後の創造は人間であった。ここで初めて、神さまは、ご自分に「かたどり」「似せて」と決められた。人間の中には、何かしら、神さまの要素があるのである。それが何かは分からない。ただそこに、互いに尊ばなければならない理由がある。人は皆貴い。男であろうと女であろうと、金持ちであろうと貧乏人であろうと変わらない。大人であろうと子どもであろうと、障害があろうとなかろうと変わらない。「見よ、それは極めて良かった」(31節)と神さまが太鼓判を押される作品である。
<主人ではなく管理者>
 「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」(26節、28節)。「支配」と言う言葉が強いので、なにか人間が勝手気ままに使っていいように思うかもしれないが、そうではない。人間はこの地球上の生物の主人ではない。管理者である。世話人である。他の生き物と、食べ物を分け合い、空気を分け合い、住む場所を分け合って生きていく存在である。それらもまた「見よ、それは極めて良かった」との神さまの作品である。
<あなたとわたし>
 「すべてあなたたちに与えよう」(29節)。神さまは人間にだけ「あなた」と語り掛けられた。あなたとわたし。それは対話の関係である。わたしたちは神さまの御心を憶測し、推し量り、想像して知るのではない。「神さま、どうしたらいいでしょう」と問いかけ、ケースバイケースの神さまからのメッセージを待つのである(フィリピ4:4~7)。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。イエスさまは税金のことを通して人間のことを言われている。人は神さまに造られた。神さまから「あなた」と呼ばれ、対話する存在としてつくられた。だから人は、神さまの御許に帰るときに本来の良さに気づかされる。人は万華鏡のようである。暗がりで見るとそこに何があるかよく分からない。ところがその先を光に向けると、そこに色鮮やかな模様が広がっているのが分かる。「見よ、それは極めて良かった」という世界がそこにある。
 わたしたちは自分の存在の美しさ、尊さを知るべきである。それはその人がどれだけいいことをしてきたか、悪いことをしてきたか(doing)にかかわらず、尊い存在(being)の美しさである。

2018年7月15日(日)  説教題:「祈りによるいやし」 聖書;マルコによる福音書9章14~29節

 「疑心暗鬼」と言う言葉は人の心理をよく表しています。暗闇とは知ることのできない状態であり、分からないということが私たちにとって恐怖の原因だということを教えてくれています。
 聖書が書かれた時代にはそれほど医学は発達しておりません。今日の聖書箇所では「てんかん」と言う症状が悪霊のしわざだと書かれています。分からないことは不安を掻き立て、勝手な想像をしてしまいます。
 病気であれ、障害であれ、社会で生きにくいことは変わりません。長い歴史の中で隔離と問題の封じ込めによってそのような生きにくい人々はいないように感じるまでに社会は鈍感になりつつあります。
 今、福祉の世界では「合理的配慮」と言うことに関心が集まっています。2016年に施行された障害者差別解消法の中でこの言葉が注目されるようになりました。『「合理的配慮」という概念は元来、「障害の社会モデル」をベースに、個別の場面で生じている社会的障壁を取り除くために、当事者からの意思表明を契機として、環境の変更・調整を行うものである。』(障害学会2016年度報告より抜粋)
 つまり、障害と言う見えない壁に苦しむ人々に向けて、その人と交流しながら必要に応じて周りが変わって行くということです。問題があるとされる個人ではなく、受け入れる社会が変わるべきだという結論は非常に重要です。
 神が造られた命はそれぞれが尊いのです。ですから、それが生かされるように周りが良い環境を作る必要があるのです。そして、その周りのつながりを産み出すのが祈りです。 祈りは相手を思い、神様を思い、自分の考えを見直します。その中で周りと心を1つにして物事を進めるために必要なことなのです。そして、1つの輪の中で弱いされた人々がいやされ、助けられ、その本来の力を取り戻すことができるのです。

2018年7月8日(日)  説教題:「見ないほうがいい時代に」 聖書;マルコによる福音書8章22~26節

 最近、「目隠し収納」と言う言葉を聞きます。本棚や衣服を入れる場所は取りやすいけれど良く見えて片づけが大変なので、一枚の布で見えないように隠すようです。簡単でスッキリしたように見える点では良いことですが、一方で、この目隠し収納が現代人の内面にまで広がっていないかと言う危惧もあります。

 さて、聖書の時代にも目が見えない、いわゆる、盲目の方がおりまして、イエス様と出会った話が残されています。どの地域、どの時代でもそうですが、障害を持つ人々は邪魔者扱いされており、村はずれの「村」に住まわされていました。
 この盲目の人はイエス様に出会って見えるようになったと書かれています。神の力は偉大だと思うと共に、肉眼のことだけでなく、心にある様々な「覆い」のことを言っているのでしょう。
 ほっておくのが親切であるという考えもある通り、人間関係は様々ですが、ある時からは面倒になって見ないように、知らないように生きる方が楽であることを知ってしまいます。
 そのような時代の中で、教会はその見えない「覆い」取り外す時を与えてくれます。誰も、神様の前で隠すことは出来ないからです。礼拝とはありのままの自分を見ておられる神さまへの感謝だからです。
 そして、見えない神様を知ることは、見えないことを大切にすることです。世間では見過ごされていることが多くあります。小さなことばかりですが、1つ1つに気付いて近寄り、手をふれて、共感すること。それが、イエス様の姿であり、私たちが学ぶものです。

2018年7月1日(日)  説教題:「言葉は種」 聖書;マルコによる福音書8章14~21節

私たちは言葉を日常的に使っています。自分の思いを伝えることは大切でありながら、その言葉を受け取った人がどのように感じ、行動しているかと言うことまでは考えることがないかもしれません。

聖書では「パン種」という言葉が使われています。これはパンをふくらませるイースト菌のことですが、わずかなパンの生地がパン種によって大きくふくらむように、言葉も人を大きく変えてしますことを例えています。

当時、発言力があった律法学者たちはルールを作るために巧みに言葉を用いています。しかし、そのルールの中に「人」はいませんでした。人への配慮なしに都合の良いルールがまかり通っていました。

また、ヘロデ派と言うのは当時の政治グループです。ヘロデ派に賛成する者は利益を受けますが、反対する者は排除されます。言葉が強制力をもつ関係でした。実際、反対した洗礼者ヨハネは投獄の後に処刑されました。

先週に読みましたが、ヘロデによって洗礼者ヨハネは死にましたが、神の言葉はなくなりません。真実を語るためにイエス・キリストがこの世に来られたのです。言葉を種として、多くの人を変えるために。

ガラテヤの信徒への手紙6章7節には「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」と書かれてあります。その通り、私たちが語った言葉が人を造り、それが社会を変え、自分にも影響するのです。

そうであれば、私のひと言が社会全体を悪くすることも、良くすることもできると考えられます。私たちのひと言が私たちの周りに神の国を作り上げられるように、種となる言葉を蒔いていきましょう。