説教要約(5月)

2018年5月27日(日)  説教題:「覚えてくれている」 聖書;マルコによる福音書1章9~11節

 今日は三位一体主日です。父なる神、子なるキリスト、助け主聖霊が私たちを守って下さっていることを知る日です。様々な形で神様は私たちを支えて下さっているのであり、私たちの理解を超えた存在として今もそこにおられるのです。
 3つであり、1つであるという存在を説明することは難しいです。そもそも人間に神を理解することが出来ないということもあります。以前に「親子丼」というたとえを聞きましたが、鶏肉と卵とご飯、神とキリストと聖霊が1つの調和によって良い味を出すというのは面白い発想でした。
 さて、聖書を開いて見ると、なぜ、このような理解しにくい形で神様はおられるのかが見えてきます。旧約聖書では神は唯一の存在でした。他に神はあってはならないと十戒にも書かれています。
 唯一の神を信じるということは何も問題はないように思えます。しかし、人間には思わぬ感情が生まれてきます。嫉妬です。唯一の神を信じるとはその他の神を排除することにつながり、結局、排他的な考えが生まれてしまいました。
 その上で新約聖書を読んで見ましょう。ある時、イエス様の名前を勝手に使っている集団を見つけた弟子がそれを報告しました。イエス様はあっさり言いました。「やめさせてはならない。わたしのを使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。」(マルコ939節)
 人間ほどどこの集団に所属しているかや建前に気になる生き物もいないようです。大切なのは神様の思いを行っているかだということでしょう。
 聖書はイエス様が洗礼をしたその一瞬を書いています。天には父なる神、川の水に浴する子なるキリスト、そこに鳩が聖霊の光を放ちながら下ってきます。まるで3つが調和しているかのようです。どこにも排除したり、序列にこだわったりしていません。私たち一人ひとりが覚えられ、互いに覚え合う関係であることを教えてくれています。

2018年5月20日(日)  説教題:「鳥が巣を作るように」 聖書;マルコによる福音書4章26~34節

 今日は聖霊降臨日です。ペンテコステとも呼ばれるのは、復活から50日目を数えるからであり、ペンテコステと言う言葉には50日と言う意味が含まれています。イエスを失った弟子たちはどのようにして立ちあがったのでしょうか。
 私たち日本人は仏教の葬儀に慣れていますので49日と言う儀式があることを知っています。奇しくもペンテコステの50日と似ているように思います。しかし、注目したのは、ペンテコステは逝去した日ではなく、復活した日から数えていることです。
 その意味で、ペンテコステは悲しみから別れるという1つの分岐点ではなく、残された人々がどのように生きるかと言う分岐点になっているのです。そして、その生き方に聖霊は関係してくるのです。
 聖霊とは神様から与えられる勇気づけであり、生きようとする力です。その聖霊の力によって神の国は広がっていきます。神の国は種から始まりますが、その種とは悲しみなのかもしれません。
 なぜなら、聖書には地に落ちて死ななければ種は実を作ることが出来ないと言うからです。喪失と言う体験に聖霊の助けが加わり、新しい生き方が生まれてくるのです。
 その新しい生き方によって神の国が広がるように新しい関係も生まれていきます。空の鳥とは外国から来た人を意味しますが、全く関係のなかった人ともつながっていく強さを表しています。
 そして、神の国が建てられる計画は人間の一生でおさまるものではありません。私たちは自分の思いを越えて、次の時代に希望をたくす役割があるのでしょう。私たちが何を残すのかと悩むよりも、神様が大きな計画を与えて下さることを信じることが大切なのです。

2018年5月13日(日)  説教題:「小さな穴、大きな穴」 聖書;ローマの信徒への手紙12章5節

 ある方の紹介で絵本「あなのあいたおけ」を知りました。子どもたちに向けた分かりやすいストーリーの中を通して、私たちが見落としている「穴」について考える機会がありました。
 絵本については、ぜひ、原作を読んでほしいと願いつつ、あらすじを紹介します。ある山の上に素敵な庭を持っている農夫のおじいさんがおられました。おじいさんは庭の手入れのために2つのおけを持って水を運ぶのが日課でした。
 ある日、転んだ拍子に片方のおけに小さな穴があいてしまいました。それでもおじいさんはそのおけを使って水を運びますが、穴から水が漏れてしまい、ほとんど水を運ぶことは出来ませんでした。
 面白いことに、おけ同士が話をします。穴のあいていない元気なおけが、穴のあいたおけに文句をいいます。「全然、役に立っていない」その一言で穴のあいたおけは悲しみでいっぱいになります。
 この後に、おじいさんの素敵なアイデアでこの物語は思わぬ最後を迎えるのですが、それは原作でお読みいただくとして、この傷ついた小さな穴をめぐっての話は、もう一つの見えない「穴」があることを気が付かせてくれました。
 元気なおけにもその見えない「穴」があったのです。相手の気持ちを知ることが出来ない部分であって、一番大切な心に穴があいていたのだということでした。
 私たちは誰もが小さな穴を持つ人間、不完全な存在ではありますが、その穴から神さまの愛と人間のやさしさを感じることが出来るのだと思います。それさえも失ってしまう見えない心の穴こそ、気を付けなければならないと思いました。

2018年5月6日(日)  説教題:「悲しみの中に喜びが」 聖書;ヨハネによる福音書16章12~24節

私たちは見えない神様の助けを「聖霊」と呼んでいます。物語に出てくる「精霊」は木や草などの自然を人格化したものですが、聖霊は神様から人間に送られる励ましであり、生きる力の源になるものです。

ヨハネによる福音書では、その聖霊の働きとして悲しみを喜びに変える力があると語っています。今日は福音書を読みながら2つのポイントにしぼって、悲しみを喜びに変える聖霊の力をお話します。

 1つ目のポイントは「見える」から「見る」という見方の変化です。この福音書は特に「見る」ことを強調しています。「見える」とは眺めていることで無意識にすべてを風景画のように見ていることです。

 一方で「見る」とは、その風景画の中で一点に集中して見ることです。何気なく見えていた人生をもう一度よく見てみると、そこに悲しみだけでなく、喜びを見つけることが出来るのです。聖霊はその見方を与えてくださるのです。

 2つ目のポイントは「産み出す」ということです。聖書はたとえとして、今の悲しみは妊婦の苦しみであり、何かを生み出すためにあると語っています。悲しみが悲しみのままに終わるのではなく、何かを産み出すために聖霊は活躍します。

 2つのことを合せて考えて見ますと、私たちの見方が変わる時、悲しみから新しいものが産み出され、それが人々に喜びを与えるということです。それは聖霊によって起こる出来事なのです。

 私たちの信じる十字架はいつも悲しみにある人々を照らしています。十字架こそ、悲しみの象徴でしたが、そこから復活と言う希望が生まれました。私たちの人生にも十字架と出会う瞬間があります。生きることが無意味に思える時、向き合うべき新しいものが与えられ、孤独から共感を知り、悲しみの果てに、自分ではない誰かの喜びを見つけ出すのです。