説教要約(4月)

2018年4月29日(日)  説教題:「つながって、労わって」 聖書;ヨハネによる福音書15章1~11節

 昔に人々は、民族や国家と言う1つの集団を木に例えました。一本の幹から多くの枝が分かれ出るように、1つの信念から大きな集団が生まれて行くと考えたからでしょう。
 私たちは様々な集団に関わって生きています。家族、学校、職場など、その集団ごとに果たす役割は異なってきます。いくつもの集団に関わることによって、自分と言う存在をよく理解することが出来るともいえるでしょう。
 ある会社のリーダーが語っていたことですが、人間は3つ、またはそれ以上の集団に関わることで自分の持ち味を活かすことが出来ると話しておられました。多くの人は家庭と職場と言う2点を行き来することが多いことを指摘していました
 家庭と職場だけではない第3の集団を持つ時、自分と言う枠をより広げることが出来るという考えは面白いと思いました。そして、それは教会の役割でもあるように感じました。
 家族と言う帰属組織と、職場と言う営利目的を持つ集団の他に、本当の「わたし」と言うものを見つめる場所こそ教会の役割なのだと思います。その3つをつなぐことによって、自分と言う存在の新しい一面を知ることになるのです。
 さて、冒頭に話しましたように、社会にある集団とともに、教会も1つの木に例えることが出来るでしょう。それは信仰を土台とした集団と言えますし、また、1つの「神の家族」とも表現することができます。
一般の方々には馴染みがありませんが、教会では男性には「兄」を、女性には「姉」と言う言葉を付けて呼び合います。それぞれの過去は違いますが、同じ希望を持ち、同じ未来を持つのが神の家族です。家族や社会から距離を持ってそれらを客観的に見つめる場所、そして、希望によってつながる場所、それが教会の役割なのです。


2018年4月22日(日)  説教題:「アイ、哀、愛」  聖書;コリントの信徒への手紙第一3章4~9節

 神の愛を受けながらも、そのことについて考える機会は少ないかもしれません。今日は神様が私たちに伝えようとしておられる愛について3つの点から学びたいと思います。

 1つには、「成長させてくだるのは神です」と言う意味から考えます。「アイ」とは見つめる目、見守る目のことです。どのような失敗をも認めつつ、前に進んで行くことが必要だと思います。その人を見ることから、愛することは始まります。

 2つめには、哀れむ心です。聖書には「この最もさい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言う言葉があります。最も小さな者の目線で考えることこそ、愛の始まりだと思います。
 3つめは、愛と言う字から考えたいと思います。私の高校の教師が昔こう言いました。「受」と「愛」と言う字は似ているが異なる。「受」けるばかりでは「愛」にはならないと。
 聖書には次のような言葉があります。「受けるよりは、与える方が幸いである」その言葉の通り、与えることで私たちの愛は伝わるのです。相手から不足を感じている間はまだまだ通じていないということなのです。
 今回は3つの点から考えましたが、神の愛は広く、長く、高く、そして、深い者です。私たち自身がそのことを体験しています。ですから、そのことを話し合うことで神の愛は完成していくのだと思います。


2018年4月15日(日)  説教題:「囲いの外に目を向けて」  聖書;ヨハネによる福音書10章7~18節

 私たちの目には見えない「囲い」があります。友だちと言う関係が一番それに当てはまるかもしれません。人間関係には見えない境界線があり、それは教会の中にもあります。教会にも境界線があるのです。
 聖書では教会にいる人々を羊の群れに例えています。では、教会にいる人々とはどこまでを意味するのでしょうか。洗礼を受けた人のみなのでしょうか。それとも、聖書に興味を持っている人や、教会に居心地の良さを感じている人も含まれるのでしょうか。
 今の教会は「敷居が高い」と思われているようです。なぜ、そう思われるのか理由は様々でしょうが、ある意味、教会が聖なる部分と俗なる部分を分けていることが、その世界を狭く、閉鎖的にしているのかもしれません。
 私たち日本基督教団では聖餐の在り方について、教会員のみで行うクローズ方式と、どなたでも受け取ることが出来るオープン方式について激しい議論が起こりました。
 その議論に入ることは避けますが、大切なことは聖餐がと言うよりも、教会が周りの世界に向けて開かれているかどうかと言うことのように思いました。その点で考えると、まだまだ、教会の扉は重いと実感せざるを得ません。
 私たちは慣れた人間関係に落ち着いてしまいますが、神様の目は常に囲いの外に、教会の外に向いておられます。イエス様は「わたしは羊の門である」と言われました。この私が決めるのではなく、イエス様が一人ひとりを教会に呼ばれるのです。
 教会の人数を増やさなければ教会はなくなってしまうというような意味ではなく、本当に必要な人がここに来れる場所として私たちはこの教会を広く、風通しの良い雰囲気を保っていきたいと願います。

2018年4月8日(日)  説教題:「同じ痛みを知っている」  聖書;ヨハネによる福音書19章19~31節

 私たち、キリストを信じる者は端的に次のように考えています。それは、私たちが受けた痛みを神様が知っておられること、そして、その痛みは無意味にはならないこと、その痛みを神様は希望に変えて下さるということです。
 今日、お読みしましたヨハネによる福音書は他の3つの福音書とは異なる視点で書かれています。また、登場人物にも違いがあり、今日の聖書で出てくる弟子のトマスもその一人でした。
 トマスと言う人物はお手本になるような姿ではなく、どこまでも疑い深い人物として描かれています。復活したキリストが現れた時にも、運が悪くその場にいなかったのか、彼だけが見ることが出来ず、復活を否定したのです。
 後から来て復活を知るトマスは現代の私たちの姿です。イエス様の活動を見てきた弟子たちの時代から後になって、直接にはイエス様を知らない人々が増えてきます。復活のキリストに触れることが出来ないというもどかしさがそこにあります。
 しかし、直接にキリストに触れなくとも信じることは出来るのです。聖書には次のような描写がありました。弟子たちは恐怖のあまり家の扉に鍵をかけていたが、そこに、復活のキリストが現れたのです。
 鍵をかけた家とは私たちの内面を意味しています。喪失によって心の中に閉じこもることです。心を閉じて開こうとしない状態です。そこにキリストは来て下さるという希望です。信じることで過去の束縛から解放されるのです。
 もう1つ大切なのは傷に触れることです。これは直接的な意味ではなく、相手の悲しみを知り、自分の悲しみと重ね合わせることです。実は、私たちは同じ痛みを背負いながら生きているのです。しかし、そこに希望もあります。
 ある方が言いました。傷(きず)と傷と合わせることで絆(きずな)生まれると。その通り、私たちは同じ痛みを知り、そして、同じ希望を信じて生きるのです。

2018年4月1日(日)  説教題:「先に行って、待っている」  聖書;マルコによる福音書16章1~8節

 イースター、おめでとうございます。ここ数年、世間でもイースターと言う言葉が馴染んできているようです。卵やうさぎをあしらった商品がちらほら見受けられるようになりました。でも、大切なのは買うことではなく、求めることから始まるように思います。
 福音書はイエス様の復活を始めに見た人たちが女性であったと報告しています。当時、女性は社会の構成要因ではなく、男性の所有物と言う理解でした。その時代に、一人の人間として認め、それも復活と言う良い知らせを伝える役目を与えました。
 復活と言う言葉を聞くと死んだ人間が生き返るという漠然とした考えしか浮かんできませんが、その具体的な意味は生き生きとしています。無意味だとされた存在が大きな役割を果たすのです。命にはそれぞれの働きがあり、なに1つ無意味な命はないということが復活の意味なのです。
 さて、大切なイエス様を失った弟子たちは絶望の中で立ち止まっていました。時間が止まったかのように何度もイエス様の顔を思い出しては自分たちの足りなさを感じていました。生きてはいましたが、死んだかのような生活でした。
 その後ろ向きな生き方に対して、復活を知らせた天使は言いました。イエス様はすでにガリラヤに行って待っておられると。立ち止まってはいけない。その足で歩くことを進めているのです。
 生きるとは、まるでボートをこぐようなものです。後ろに向きながらも必死に手を動かし、足を踏んばり、後ろ向きにでも進んでいこうとするものです。でも、私たちは一人ではありません。いつも、私たちのボートにイエス様が乗っておられるのです。そして、向かうべき地へと導いてくださると信じています。