説教要約(2月)

2018年2月25日(日)  説教題:「見えない悪に」  聖書;マルコによる福音書3章20~27節

 受難節に入り、十字架について考える時が与えられています。罪と言う言葉の重さとは裏腹に、それが見えないことで無関心になることもあります。1つのことをほっておけば、いくつ重ねてもいいようになるからです。
 罪について考える時、それを起こす原因として悪と言う性質があることに気付きます。悪とはどのような正体なのかわかりません。「見えない悪」と題しましたが、悪は見えないように振る舞うものなのかもしれせん。
 概念としての悪は見えませんが、人間の行動として考えてみると、悪いことをすれば誰もがそれを隠したがります。その点では悪は隠れていると言えます。または、意図的にそう取り繕うことから、悪は隠されているともいえるでしょう。
 悪と言う存在は暴力的であるだけなく、ずる賢い一面をもっています。今日の聖書に書かれているように、病気の人を助けたイエス様が、何か悪いことをしたように言われているからです。
 良いことを悪いことだと言うことほどひどいことはありません。しかし、悪というのは自分を隠すために、誰かを悪にするという手段を平気でとってしまうのです。そして、どちらが本当に正しいのかが分からなくなって周りも混乱するのです。
 イエス様の態度は怒ることなく、赦すことで余計な挑発に乗らないように行動されました。良いと思うことも、人の見方によって評価は変わることを知っておられますし、評価されるためではなく、その人のために必要なことをしたからです。
 最後に、全ての罪は赦されるが聖霊を汚すものは赦されないという言葉を残されました。聖霊とは悔い改めの心を引き出す力を持っています。つまり、悪がいけないというのではなく、悪を悔いることがなくなれば人でいられないというなのです。罪深い私にも聖霊がいて下さると信じるからこそ、清い明日を願って生きることができるのです。


2018年2月18日(日)  説教題:「無言の励ましを受けて」
  聖書;使徒言行録2章43~47節

 使徒言行録には読んで字のごとく、使徒たちが教会を作り上げていった活動が報告されています。その中には「信者たちは皆1つになって、すべての物を共有にし、・・・皆がそれを分け合った」と書かれています。
 今では想像できない貧しい時代がありました。その中で神様のために全力を尽くして下さった方々がおられました。今日、創立68周年を記念する時、教会の土台にはその方々の苦労と神様の導きがあったことを思い出す機会になります。
 讃美歌の「ゆけども ゆけども ただ砂原」を私たちの教会は愛唱してきました。その歌詞の通り、教会の敷地かどうかも見分けがつかないほど、砂地が広がった中で教会は生まれました。
 小さな祈りと賛美の群れは、聖書の指導者が与えられることを願って努力し、牧師が与えられ、一人ひとりが導かれて教会に加えられて行きました。時代ごとにその要請に応じて社会の問題に向き合い、地域の課題と闘いました。
 教会の歴史を振り返る中である一人教会員がこう言い残しています。「この教会は行動的な教会です。初代の人たちががんばっている姿から無言の励ましを受け、具体的に仕えるということを教えられた」
 あの日、あの時を思い出す時、そこにある姿はすべて私たちへのメッセージなのです。語らずともわかる時が来ると信じて見える姿で私たちに残された言葉であり、語りにくいことを行動のうちに伝える姿として思い浮かぶのです。
 今も、昔も変わらずに教会にとっては困難な時代が続いてきます。初代の方々が向き合ったこととは違う出来事に驚き、不安に思うこともあります。しかし、信仰の先輩方が今も私たちを励ましてくれています。神様と共にならば、何事もなせること。恐れずに歩み続けることを教えられています。

2018年2月11日(日)  説教題:「誤った方向」  聖書;ヨナ書1章1~15節

 ヨナは預言者の一人です。でも、お手本になるような人間ではなかったようです。神様のお言葉を受けて、すぐ、ヨナは逃亡を始めます。神様から逃げられると思ったのでしょう。
 人の視線を避けたくなることはあるでしょう。家にこもって、布団をかぶって、死んだような気持ちになります。ヨナの場合は、神様という光から逃れて暗い所に沈みこんで行きたいと願ったようです。
 ヨナの曲がった気持ちは徹底していました。言われたことと反対のことをし、見えないところに隠れ、周りの迷惑をかえりみず逃亡します。何よりも、ヨナは頑固に神に祈ることをせずに、海に投げ込まれる方が良いと思ったのです。
 彼に、何があったのかは分かりません。家族を失ったのか、ひどい扱いを受けたのか、でも、腹の底で何かくすぶっている怒りと、死んだように振る舞うような態度は生きることにぶつかってしまって、立ち止まっているようです。
 「逃げるは恥だが役に立つ」と言う言葉を聞いたことがあります。それは一時的にそう言えるでしょう。しかし、逃げ始めるとどこまでも逃げ続ける辛さも出てきます。見える問題は逃げることが出来ますが、見えない問題は逃げることさえ難しいこともあります。
 ヨナが徹底して逃げる姿を見せられて、私はそれを追いかける神様の気持ちを感じました。逃げる背中、伏せる顔、拒む手を見ながらも、どこまでも、独りにしないのは神様だけなのだと思いました。
 必死に物事に向かっていると、『誤った方向』だとしても気付かないことがあります。頑張っている時ほど誤りを認めて戻るという決断は簡単ではありません。でも、生きている限り、神様は見放すことがなく、いつでも、戻る道がそこにあるのです。

2018年2月4日(日)  説教題:「起き上がり、歩く」  聖書;マルコによる福音書2章1~12

 宗教改革を経てプロテスタント(抵抗する)教派が生まれ、それぞれの言語で聖書を読み、信仰者一人ひとりが神の言葉に向き合う時代が来て以降、信仰を告白することの意味はより大切になったと言えるでしょう。
 自ら告白することは大切であることは言うまでもありませんが、聖書を読んで見ると救われるのは1つの方法だけではないことが書かれてあります。今日の物語では4人の友人たちの協力を得て、一人の病気がいやされたのです。
 言い換えるならば、病気の人がどう信じているかということではなく、周りの人々の願いによって神に出会い、救われたということなのです。代理信仰と言う言葉があるのかは知りませんが、誰かに仲介されて救われることもあるのです。
 信仰を言葉で告白することは大切ですが、誰もがそう出来るとは限りません。障害を持ち意志を表明できない人、病気によって意志を失う人、様々な状況がこの世界にはあるのです。何よりも、高齢化の中で認知症を伴う記憶や信仰の不明確さは教会においても課題となるでしょう。
 しかし、良き友は理解者であり、その人を自身以上に知っています。自分を知るには友に聞くのが良いとも言えるでしょう。互いに信頼することは神様を信じることとほとんど同じなのかもしれません。
 旧約聖書には「執り成し」と言う考え方がありました。誰かの代わりとなって祈ることでした。日曜日の朝、会堂にいる時、この私が祈りつつ、この場に来ることの出来ない友の代わりに祈るということなのです。
 周りを見ると、起き上がることが難しい友がいます。身体的に精神的にも伏しています。祈りや神の言葉から遠く離れていくように思えます。でも、私たちが祈りの中で一人ひとりを思い出す度に、友の魂も神の御前にいると信じています。