説教要約(12月)

2018年12月30日(日)  説教題:「出会いの星」   聖書;マタイによる福音書2章1~12節

 2018年、さようなら。その一言では終わらせられないほど、多くのことがありますが、感謝を込めてこの一年を締めくくりたいと思います。見えないけれど、見えないからこそ、神さまにその時を感謝します。
 クリスますツリーの上に星がついています。可愛いからという理由ではありません。それには深い訳があるのです。ちなみにクリスマスは15日まで続いています。
 さて、聖書にはイエスの誕生の時に東の方から占星術の学者たちがやって来たと言われています。星を見る仕事をしていた彼らは、何かを示す星を見つけたのでした。
 その星に導かれてやってきたのが当時のユダヤの地でした。ヘロデ王に救い主の誕生を示す星が出たことを尋ねましたが、ヘロデ王も、周りの人々も知らなかったようです。
 ここで、ヘロデ王が聖書から救い主について調べるようにと書いていますが、ふと、思うのです。長い歴史を通して、救い主が来るという希望を忘れていたからこそ、その出来事も、生まれる場所も分からなかったのだと。

 このようなヘロデを見ると、つい、聖書の希望を忘れて生きてします自分を反省します。聖書には何と書いていたかと、その時、その時に探さなければならないのです。
 さて、この星は救い主が生まれるベツレヘムの町を示していたようです。聖書を知っていたユダヤ人より、知らない異邦人が救い主に出会ったというのも新約聖書の意図するところなのかもしれません。
 この一年、11つの出会いを思い出すと、そこに神さまの導きがあったことを、星のことを読んで考えます。不思議なつながりを作ってくださったことに感謝です。新しい年も、星の数ほど、良い出会いがあることを、キリストの希望を抱いていたいです。


2018年12月23日(日)  説教題:「マリアの決意」   聖書;ルカによる福音書1章26~38節

 第4のロウソクに火が灯りました。第1のロウソクは「希望」を、第2のロウソクは「平和」、第3のロウソクは「喜び」を意味します。そして、第4のロウソクは「愛」です。
 愛とは見えないだけに伝えることが難しいものです。だからこそ、私は愛を例えて伝えます。それは、リボンです。リボンは右と左のひもを結びつけます。同じように、私たちの命も、父と母、家族と家族、友と友をつなぐリボンであって、愛そのものなのです。
 その愛そのものである小さな命が、今日、一人の女性の決意によって生まれました。イエス・キリストの誕生であり、母マリアの思いでした。生まれる前に天使と語ったマリアには不安がありました。
 しかし、天使は励まして言いました。神さまに出来ないことはありません。この命を神さまからの贈り物だと考えるなら、必ず、神さまがその命を助けてくれます。それを信じられますか。
 そのような思いに、マリアは、お言葉通りになりますように、と自分の体でありながら、神さまの計画のために自分の気持ちをすて、身をゆだねたのでした。出産の決意でした。
 さて、この福音書はイエスの死後、弟子たちが書き残したものです。イエスとの思い出が薄れて行く中で、何とか後世に伝えようとして、様々な物語を整理して、書かれています。つまり、このクリスマスの出来事を書いたとき、既に、母マリアは、イエスの十字架を見た後でした。愛する息子の死を受け入れるのは大変重い出来事だったでしょう。
 でも、生まれた時のことを思い出し、天使に励まされ、喜びの中で子どもを産んだことを思い出し、産んで良かった、という気持ちを新たにしたのです。つまり、もう1つの決意とは、どのようなことがあろうとも、産んで良かったという母としての気持ちだったのです。
 そして、その決意の裏には、復活したイエス・キリストと出会う希望があるのです。そう、クリスマスは私たちに伝えています。あなたを生んで良かったと、母(父)も、周りの人も、神も、思っているんだよ、と。


2018年12月16日(日)  説教題:「あなたは喜ばれる命」   聖書;ルカによる福音書1章5~25節
 3のロウソクに火が灯りました。第1のロウソクは「希望」を、第2のロウソクは「平和」、第3のロウソクは「喜び」を意味します。ルカによる福音書1章「マリアの賛歌」を読んで見るのも良いでしょう。
 クリスマス物語を劇で見たことがあるでしょうか。ページェントと呼ばれ、教会学校やキリスト教関係の幼稚園・学校で見ることがあります。私も見たことがあります。子どもたちにとっても良い思い出になるでしょう。
 物語では、命の誕生によって両親が心配し、大変なことにぶつかりながら、その命が生まれて来ることはみんなにとってうれしいことなんだ、というメッセージがあります。
 物語を演じながら、この出来事は自分のことでもあり、自分の命が喜ばれる命であったこと、今もそうであることを、いずれ、思い出した時に知ってほしいと思っています。
 キリストの誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生が聖書には書かれています。ヨハネの父となったザカリアは祭司でしたが、子どもに恵まれず、命の喜びを知りませんでした。
 ある日、天使によって子どもが与えられると伝えられたザカリアでしたが、素直に喜べない姿がありました。なぜ、自分だけが辛い思いをするのか。今更、子どもが生まれると聞いても遅いという気持ちがあったのでしょう。
 ザカリアの様子を見た天使は、ザカリアが話せないように言葉を奪ったと書かれていました。それは喜びを語ることが出来ないザカリアの姿を意味しているのだと思います。
 喜びを語ることが出来ない。それは、私たちに起こることです。周りを見ると、自分よりも幸せそうに見えることが多くあります。そう思うと、感謝の言葉を失い、ザカリアのように喜びの言葉を語れない気持ちになります。
 与えられないのは、自分には必要がないからだと思うことがあります。神さまが必要なものを与えて下さる。今、それがないのは神さまの思いによるものだと。自分が背負うことが出来る力に対して、神さまが配慮して下さると信じています。



2018年12月9日(日)  説教題:「約束された世界へ」   聖書;イザヤ書55章

 第2のロウソクに火が灯りました。第1のロウソクは「希望」を、第2のロウソクは「平和」を意味します。また、アドベントの第2週は旧約聖書を読みながら「悔い改め」をする時でもあります。
 旧約聖書の預言者ミカによれば、救い主はベツレヘムの町で生れると言われていました。ベツレヘムは英雄ダビデが生まれた町で、同じように救い主も生まれると期待されていました。
 預言者ミカはこう書き残しています。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。」
 この言葉からベツレヘムが小さな田舎町であったことが分かります。そして、預言者ミカが信じたのは、小さな町で生きることの大変さや辛さを知った者こそ、救い主にふさわしいということだったのです。
 また、このベツレヘムの町を舞台にした物語がルツ記です。ベツレヘム出身のナオミは、飢饉のために夫と息子二人と町を出なければなりません。そして、外国のモアブで生活し、息子たちはモアブ人を嫁にしました。
 しかし、不幸なことにナオミは夫を亡くし、続けて二人の息子たちまでも失いました。悲しみと失意の中で再びベツレヘムに帰ってくるのです。モアブ人の嫁ルツに支えられ、神の慰めを求めて。
 ベツレヘムは「パンの家」と呼ばれることから、食べ物には事欠かない地域だったはずです。しかし、飢饉がやってきて、ナオミたちはベツレヘムを去ります。それは、単なる食料不足のことではなく、神の言葉を聞くことのできないという危機的な状況を意味しているように思います。
 イザヤ書55章は、神の言葉が空しく地に落ちることはないと断言します。必ず、人の心をとらえ、人を変えることが出来るというのです。ナオミのように、私たちは時に神から離れて行ったとしても、また、戻ってくる時があるのです。
 神の言葉は、今は、私たちの内で眠っているように見えるかもしれません。しかし、御子イエスのように、それはもう成長を始めているのです。私たちの辿り着くところ、神の国、約束の地へ導くために。

2018年12月2日(日)  説教題:「張りつめた糸をゆるめて」   聖書;ルカによる福音書21章25~36節

今日からアドベント(待降節)に入りました。アドベントとは「到来」という意味です。キリストの誕生を祝うクリスマスまで、心身ともに振り返りながら、キリストが来られるのを待つ心の準備をします。
 キリストを「待つ」準備をする上で大切なことは、2000年以上前にキリストがこの世界に来てくださり、希望を与えて下さったことを感謝することと共に、もう一度、この世界に来て私たちを苦しみから解放してくださると期待することなのです。
 私たちの世界には光と闇があります。闇の方が強いように感じます。しかし、クリスマスの出来事は光が闇を包んだということであり、それを思い出しながら、今、目の前にある闇の先に光があることを信じるのです。
 聖書はクリスマスの出来事を「解放の時」と呼びました。私たちが感じる痛みは様々です。貧困、差別、ハラスメント、暴力、病気、痛みは違ったとしても、一人ひとりが解放されることを望んでいます。
 私たちが生活する中で受ける痛みの多くは人間関係です。生活の中で、まるで張りつめた糸のように、緊張に押しつぶされそうになることがあります。この人間関係の鎖から解放されることは何よりも願っていることです。
 人間関係を考える上で面白い言葉を学びました。人とつながりを持つ時は、「針に糸を通して垂らしておく」関係が良いと言うものです。人との関係を気遣い過ぎて糸が張りつめることや、反対に関係を切ってしまう前に、この言葉を思いながら、見直してみたいと思いました。
 綱引きのように相手を自分の方に引っぱっていることに気付きました。そして、自然と祈りの中で「自分を真ん中にしている自分」がいたことを知ったのです。

   クリスマスはキリストの誕生です。私の真ん中にキリストを置くことです。まるで幼子を抱くかのように、私の心の中にキリストがあって、そこからぬくもりが
  周りに広がっていくよう、相手の思いに気付き、イエス様であればどうするかと考える余裕を、このアドベントを準備したいです。