説教要約(11月)

2018年11月25日(日)  説教題:「新しい掟」   聖書;マルコによる福音書10章13~16節

   ※外部説教者のため要約はございません。代わりに陣内先生の歌「心の扉」の歌詞を記載します。

   先生のお話では歌「心の扉」をリリースした日に、一人の大切な人を亡くされたそうです。その方は、デビュー当時から世話をして下さった年配の女性でした。   歌の宣伝のために忙しく、葬儀に行くことが出来なかった思いと共に、助けられた感謝を思い出す一曲だそうです。

「心の扉」 作詞・作曲 陣内大蔵
※夜を超えるたびに 悲しみ過ぎるたびに
 いつも 君の胸に抱かれ
 そっと 開ける心の扉を
 ああ 窓をたたく風の音が増している
 まるで誰にかせかされているようさ
 ああ うわべだけに 捉われすぎていたのさ
 まして心読まれるの恐れていた
 いつまでこの場所で探すのか
 いつもつかんでは無くすけど
 (※くりかえし)
 ああ 流れて行く季節は止められやしない
 そこにとどまるほどの勇気もなくて
 ああ 優しささえ疎ましく思えた日々が
 ひとつひとつうかんでは消えて行くのさ
 どこまで追いかけて行けるのか
 それぞれ答えてはみるけれど
 夜を超えるたびに悲しみ出会うたびに
 いつも君の胸の中で
 そっと開ける心の扉を


2018年11月18(日)  説教題:「さぁ、おいで」   聖書;マルコによる福音書10章13~14節

 陣内大蔵さんの歌「空よ」を知っておられますか。「誰かに呼ばれた気がして」という歌いだしに、見えない存在への感覚を思い出させられます。そう、私たちは今、この時も、見えない存在に呼ばれているのです。
 私たちは、一人の人間でありながら、一人であることを恐れる弱さがあります。誰かにつながっていることで安心し、そのつながりを広がることが楽しく感じます。
 一方、傷ついた経験から人間関係を避けることもあります。一人でいることを紛らせる方法を色々と持っている人もいます。人間関係が安定していたとしても、その距離感を保つことは大変です。
 さて、カトリック司祭の晴佐久神父さんが子どものころに書かれた誌があります。
 「おかあさん」
 「おかあさん」
 「おかあさん」
 「おかあさん」
 「おかあさん」
 「なあに?」
 安心。
 シンプルながら、子どもが求めているぬくもりを知る言葉です。誰かを求める心の叫びは誰もが持っているものです。しかし、それに答えてくれる存在が常に近いにいるとは限りません。
 時の流れと共に、私たちの周りにあるモノも命も変わっていきます。しかし、誰かを求める声は生きる限り心の中に響いています。だからこそ、見えない存在を知る必要があるのです。
 私たちの父、神なる存在が私たちの声に答えてくださいます。「さぁ、おいで」と手を広げて私たちを包んでくれています。見えなくても、それはあることを知れば、勇気をもって生きることができるのです。
 「空よ」の歌詞は「空よ、空よ、見上げた数だけ想えば、強く、強く、ひたむきに行くさ」と勇気づけてくれます。心に穴があいた時、空に祈ればいいのです。「さぁ、おいで」という神の声に向かって強く立ちあがるために。

2018年11月11(日)  説教題:「耳をすませて」 聖書;ルカによる福音書3章1~14節

 叫ぶ声がします。戦場で、被災地で、会社の片隅で、家庭の一部屋で。その叫びに答える者がいます。もうすぐ神が来られるから、道を整えよと。そして、希望が与えられます。大きな変化を待ち望む希望が。
 洗礼者ヨハネはこの世の悪を憎んでいました。彼の時代、政治家たちは自分の欲のために領地を分断し、支配していました。それを正すべき宗教も堕落し、世襲制による影の支配がありました。
 このヨハネ自身、祭司の出身でしたが宗教の堕落を見て神殿から離れ、何もない荒れ地で神の声を待っていました。そして、聞こえたのです。もうすぐ神が来られる、道を整えよと。
 道を整えるとは、神様と私との関係を見直すことです。私が歩んできた道は神さまへとまっすぐだっただろうかという反省の中で、生き方を変える機会を与えてくれるのです。
 洗礼者ヨハネは、社会の問題や人間関係の軋轢は個人の問題や社会の問題におさまらず、人間と神との関係だと言います。恐れる存在がない現代にこそ、神様との関係を見直すようにと呼びかけているのです。
 しかし、ヨハネの言葉にはトゲが多くあります。なぜなら、彼が生きた世界が堕落に満ちていたからこそ、厳しい言葉を発したのだと考えます。しかし、これは裁きの声ではなく、やり直す機会を与える声なのです。
 神の裁きを強調する中で自分はダメな人間なんだと心を痛めます。それでいいのです。神の裁きを語るのは、自分が足りないと思っていることで、神の目に留まっていることを知るためです。神様の面前では、ふさわしくないという自覚こそ、ふさわしい態度なのです。
 私たちは十字架のキリストによる犠牲によって赦されている存在です。だからこそ、神の裁きに立つとしても、私たちの側にキリストが立って弁護してくれると信じています。
 ただ、1つ大きな課題もあります。赦されて神の裁きを終えて、神の国に行ったとして、そこにたくさんの赦された人がいます。もし、私が許せないと思う人がいた時に、私はその人を赦すことができるのだろうか。静かに、耳をすませて、それを心に問い、神に祈ります。


2018年11月4(日)  説教題:「終えるという希望」 聖書;ルカによる福音書11章33~36節

 秋空に浮かぶ雲を見ながら、私たちの愛した人々はあの雲の向こう側にいるのだろうかと想像します。神の国がどこにあるのか、または、どのようなところなのかは分かりませんが、ただ、魂が平安であることを願います。

 私たちの人生には始まりと終わりがあります。誕生すれば逝去します。単純ではありますが、全ての人間に平等に与えられているものとして、命とその終わりがあるのです。
 命の終わりは絶望でしょう。聖書は希望をともし火にたとえながら、こう語ります。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。 」人生の最期が真っ暗であれば、それにどう立ち向かえばいいのでしょうか。
 命の終わりは暗闇のように絶望であるように思えます。しかし、ある人が断言した一言で考え方が変わってきました。「私には死という希望がある」それは驚きでしかありませんでした。
 それは初めて聞いた言葉というより、どこかで「死という希望」について聖書で読んだことがあるように思いました。伝道者パウロは「わたしにとって、きるとはキリストであり、ぬことは利益なのです。」(フィリピの信徒への手紙121節)と言い残しました。
 パウロはその次の文章では、死によってキリストと共にいるようになるからだとも説明しています。キリスト教にとって死はキリストに出会うための最期の門なのです。
 なぜなら、キリストも十字架を通して死を味わったからこそ、私たちも神に与えられたものとして死を受けるのです。キリストは死を前にして「成し遂げられた」と言われました。それは完成したということでしょう。
 死は命の完成です。人生を成し遂げるための最期のやるべきことです。私たちは何事も中途半端に終えて逝くのではなく、この命を完成させるために、ただ、生きるのです。だからこそ、死は神さまに与えられた希望、完成する日なのです。見える肉体に代わりに、見えない存在がそこに生まれるのです。